転5 涙と決意
その日、部屋に入ってきた塔子の表情は沈んでいた。いつも通り侍女としての仕事をこなしてはいるものの、どこかその機微にぎこちなさがあった。
「トーコ」
ルイシアが、名を呼ぶとびくっと塔子の肩が揺れた。あまりにも大げさな反応に、声をかけたこっちの方が驚きたくなった。ルイシアには、塔子がどこか怯えているように感じられた。まるで、悪戯や失敗がばれた子供のような反応。
「ねぇ、なにがあったの?」
きつくならないように気を付けて、比較的優しい声音でルイシアは、尋ねる。背を向けられているせいで、いま塔子がどんな顔をしているのかわからない。
「トー……」
もう一度名前を呼ぼうとした時、ようやく塔子がルイシアの方を振り向いた。黒い瞳に涙をいっぱいため込んで、いまにもこぼれそうなそれを気力だけでとどめている様子に、ルイシアはうろたえる。塔子は、飛びつくようにルイシアに抱きつくと、小さな声で「ごめんなさい」と繰り返し口にする。なぜ、謝れているのかわからなかった。けれど、塔子が落ち着かなければ話を聞くことができないので、ドレスがしわだらけになることを気にせずに、背中をポンポンと叩いてあやす。
「姫様、姫様の秘密がばれてしまいました。……殿下に、ばれてしまいました。ごめんなさい。わたしがもっとしっかりしていれば……姫様の命を危険にさらすことにはならなかったのに」
泣きじゃくった塔子の唇から漏れ出る言葉に、頭の中にまだわずかにあった眠気が吹き飛んだ。塔子がうそをつくはずがないことは、短くない時を共に生きているから知っている。塔子が言う言葉は本当だ。「ばれてしまった」―――「ルイシアが、ディアナでないことがばれてしまった」ということで間違いないだろう。
塔子は、たとえ脅されても秘密を口にするはずがない。可能性として一番高いのは、ルイシア自身がしくじった場合とフロディエンド公爵家のだれかから漏れた場合である。クロムウェル自身が、ラピスラズリの側室である「ディアナ」についてくわしく調べてばれたという可能性もある。
ばれてしまった場合できだけ早くここから逃げてしまいたい。でも、王族を敵に回して生きていくのは難しいだろう。それも、「魔王」と仇名される王太子クロムウェルを敵に回して生き残れる可能性は低い。人質である侵略国の王女もこの後宮にいるので、警備のすきを見て逃げ出すことはまず無理だろう。
ルイシア達は、クロムウェルの音沙汰を待つしかない。
ルイシアは、少しでも今時分の置かれている状態を知るために、塔子から情報を聞いだす必要があった。ルイシアは、塔子が持ってきたお湯がまだ冷めていないことを確認して棚の奥にある秘蔵の茶葉を使いお茶を入れる。気分が沈んだり、落ち着いたりするときに最適なお茶を二つ用意すると、塔子に片方渡す。
「シア……」
「トーコ、まずは落ち着きましょう。話はそれからよ」
どうしようもないから、足掻いても仕方ない。余裕に見えるように微笑んで、塔子が落ち着くのを待った。お茶を飲み終わった塔子がしどろもどろに話し出した内容をまとめると、ここ連日と同じように夜にラピスラズリの間に魔王様が来たのはいいものの、対戦相手のルイシアが爆睡していた。起こすのも忍びないので、自室に引き返そうとした時に、部屋の明かりがつけっぱなしであることに気が付いたらしい。
消していってやろうと親切心を起こした魔王様によって部屋の明かりは消されて、悪夢を見た私がうっかりぼろっと「ディアナ」ではありえないことをしゃべっちゃったらしい。真っ暗の中で眠ると悪夢を見るので、寝るときはできるだけ明かりのもとで眠ることにしている。盗賊時代は、野営だったので絶えず炎を燃やしていたから、悪夢を見る心配はほとんど無かった。夜の間は、火の番を立てておかないと、森の獣に襲われる危険や凍死の危険が上がってしまうからだ。
暗くして眠るとすぐあの忌まわしい過去につながる悪夢を見るわけではなかった。おそらく昨日大量の血や家畜の死体を目にしたことと、明かりを消されたこと……その二つが重なって今回、悪夢を見てしまったのだろう。
きっと、今頃魔王様は、有能な手下に「ディアナ」の細かな情報を調べさせているころだろう。いくら、フロディエンド家が必死に隠そうとも、相手は王族だから証拠がそろうのは時間の問題である。証拠がそろった時点で、「ディアナ」の正体は公にさらされ「フロディエンドの令嬢」の名を語り、「王太子殿下」に近づいた裁きを受けることになるだろう。ルイシアは、己の選択の結果であるからまだあきらめをつけることができる。しかし、巻き込まれルイシアによって勝手に共犯にさせられた立場の塔子がまだ若い命を散らすことになるかもしれないのが忍びなかった。
「最後まで、お供します」
ルイシアの内心を見抜いたのか、それともずっと昔から覚悟を決めていたのか、塔子は涙を袖で拭い去ると、力強く宣言する。
「本当にいいの? トーコだけならまだ逃げられるかもしれない」
悪あがきのように口にした言葉は、塔子の言葉と比べるまでもなく弱弱しかった。巻き込みたくない、死なせたくない―――そんなきれいごとを口にしても、内心は最後まで一緒にいてくれる友の存在がとてつもなく心強かった。
「トーコには、かなわないなぁ~。トーコ、きっと女神降臨祭の夜会が最後の私の晴れ舞台になると思うの。だから、その時は、きれいに着飾ってくれる?」
「はいっ」
はにかんだその笑みに、いったいなんど心が救われただろう。大事な友の命を守るためにギリギリまで足掻いて、それでもだめだったら……ルイシアは、そこまで考えるとニッコリではなくにやりと魔王様と同じ笑みを形作った。