転4 夢と現実
その記憶には、モノクロだった。
それなのに、血の色だけは毒々しいまでの赤色をしていた。ほとんどいまでは生き残りが少ない魔女の子孫に、ルイシアは生まれた。魔女の血筋を色濃く受け継ぐ母親と、旅商人の父親の間に、ルイシアは生まれたのだ。母親の血筋は、西方の国ロードリアの狂王の正妃が、魔女で王をたぶらかしその類まれなる薬物の知識と美貌で国を傾けたことが原因で、忌々しいものだとされていて、忌み嫌われていた。時に、魔女狩りと名目で、命を狙われることもあった。そんな母親は、魔女が忌み嫌われていない遠い土地に向かうために旅をしていた時に、傭兵として世界を巡っていた父と出会い恋に落ちて、ルイシアを生んだ。
今思い返せば、母は別れの日が来ることを予感していたのかもしれない。旅をしながら娘にいつ自分と離ればなれになっても独りで生きていけるように教育していった。魔女と呼ばれる知識のゆえんである薬物について、道端や樹海にある草木の効能について、教えることにも余念がなかった。
そして、別れの日はやってきてしまった。国境線まで来ていよいよこの国から逃げられ、命を狙われる心配がないと思った矢先であった。
原因がなんだったのか幼くて混乱していたルイシアにはわからなかった。ただ、星ひとつ見えない真っ暗な空の下で、母が逃げなさいと繰り返し繰り返し叫んでいたことと、小さな掌を真っ赤にするおびただしい血液が母親から出ていて、もう助からないということはその時のルイシアにもわかってしまった。
喉が枯れそうになるまで、「殺さないで」「死なないで」と叫んだが、状況は何も変わらなかった。傭兵だった父が、魔女狩りの人たちから少しでも逃げられるように、剣を手に取って守るために懸命に闘っていた。最後に見たとき、父は自分の血と狩人の血で真っ赤だった。逃げている途中に左の靴がぬげて、はだしで走っていて痛くてそのことが自分が死んでいない証明にもなって……一人で心細い中必死に国境を越えた記憶。
ツゥっとルイシアの頬に涙が流れた。
悪い夢を見た日は、必ずと言っていいほど起きたとき寝ている間に泣いてしまっていたのか瞼がひどく重たくて、頭がズキズキと痛む。空に上ったばかりの朝日が、日の入りがいいラピスラズリの間を照らす。
「ふあぁ……ああ!」
寝返りを打って、小さく欠伸をした寝ぼけまなこのルイシアが目にしたのは、黒髪の青年の目絶美形の寝顔だった。白すぎず日に焼けすぎていない皮膚に、刻まれた十字の刀傷―――魔王様ことクロムが、ルイシアのベッドに寄り掛かるようにして眠っていたのだ。書類上、偽りの自分の夫であるが、正式に夫婦の契りを交わしたわけではない男のそんな様子に、どきっと胸の鼓動が少しだけ高鳴る。ルイシアは、それは久しぶりに近くで男の顔を見たからだと自分に言い聞かせる。悪夢から目が覚めたとき、頼もしく暖かい存在がいてほっとした気持ちを心の中に封じる。目の前にいる男は、自分にとって敵になる存在かもしれないのだ。見方ではない。
魔王と仇名されるほど迫力のある顔が見合慣れているせいで、目の前にある無防備に眠っている姿に、違和感しか感じられない。
顏自体は悪くないのだから、もっと笑えばかっこいいに……ルイシアは、布団からそっと手を出すと、クロムの口元に触れる。
指先から感じる人の温かさに、ほっとする。寝ているクロムの口角を指でくいっとあげてやると、不敵な笑みに見えるなぁ……寝起きのルイシアの思考には白い靄がかかっているため自分が何をしているのか実はいまいち把握していなかった。子供が寝起きに枕元にあるぬいぐるみを布団に引きずり込むような無意識さだった。
「わらったほうがいいのになぁ」
「誰がだ」
低い声が、ルイシアの独り言にこたえる。
「それはもちろん、まおー……っな、ななななな」
ふっと我に返る。ルイシアのベッドのそばになんでクロムウェルがいるのだろうかという今更ながらの疑問が、ルイシアを混乱させる。壊れたレコードのように「な」を繰り返すルイシアに、クロムウェルはあきれると同時に、安堵の吐息をもらす。
「ここは俺のための宮だからな。俺が、どこで何しようとも不思議がられるいわれはない」
赤い目の瑠璃色の目が合う。思わず悲鳴を上げようと、大きく息を吸い大声をあげようとした。そのことにいち早く気が付いたクロムウェルは、朝から耳元で叫ばれたら堪らないとルイシアの口を剣凧のできた荒れた手でふさぐ。しばらくはもごもごともがいていたが、頭がようやく覚醒して落ち着いたそぶりを見せたので、手を外してやった。
「クロム様がなぜこんな朝早くに、私の元へいらしたのでしょうか? 用件があったのでしたら、起こしてくださればよかったのに……大変お見苦しいところをお見せしました」
「あぁ、許そう。朝早くここに来たわけではなく、いつものように俺は夜来たぞ。今度こそ、本当の意味での勝利をもぎ取ろうと意気込んでいたにもかかわらず、対戦相手であるお前はとっくに夢の中に旅立っていたから、そのいら立ちを晴らすために朝起きたお前を驚かそうとしただけだ。安心しろ、お前が寝ている間に顔に落書きをするといった幼稚なことはしていないからな」
「昨夜から、ずっと?……あ、私昨日の朝から鶏の首絞め死体の処理とか、ドレスの採寸とかしていたから疲れて、クロム様が来る前に寝てしまったのですね」
あっけカランっとした口調で、いい放たれる内容は少々異質だった。
「鶏首絞め死体ってなんだ? ドレスの採寸……あぁ、俺が言ったやつだよな」
「少し遅めの朝食をとっていたら扉の向こうに首を絞められた鶏の死体と、豚の臓物が鎮座しておりましたの。それらは、すぐに片づけられたのでよかったのですが、家畜の血液のたっぷりと入ったバケツがひっくり返されたのか、赤いじゅうたんがさらに赤くなってしまって大変だったのですよ……ふふふ」
ルイシアは昨日のことを思い出しながら、もしかしたらあの悪夢の原因の一つは、あの事件のせいかもしれないと思い、犯人を恨んだ。山で暮らしていたため動物の肉を裁くなど日常茶飯事だったのでそれくらいで、あの悪夢が再発するようには思えなかったので、不思議に思ったが、とりあえずいたずらした奴はあとできっちり締めなくてはと心に決めたところ瞬間だった。
「おまえ、いじめられているのか?」
「知りませんでしたか? まぁ、まったくこたえていないので、ご愁傷さまってところです」
「ふぅん、ほかにはどんないたずらされた」
「興味があるのですか? でしたら、あれを殿下に貸して差し上げますわ」
ルイシアは、机のカギつきの引き出しの中から一冊の手帳を取り出し、中身を確認した後それをクロムウェルに手渡す。受け取ったクロムウェルは、何が書かれているのか興味半分ではじめぱらぱらと目を通し、ページが進むごとにその顔を険しくしていった。ルイシアが手渡した手帳は、丁寧で読みにくく癖のない字で事細かに書き込みがされていた。
王太子殿下の側室であり、ラピスラズリの間を与えられてディアナ・バル・フロディエンド宛に届いた送り物のリストであった。ただ、だれにいつ何を送られたか書かれているわけではなく、いくつかの基準で選別されている。毒物や嫌がらせととれる品物を送ってきた人物をリストアップし、実家やクロムウェルとの関係を中心に、その人の思惑が色を変えられて記されていた。特に驚くべきなのは、使われた毒についても詳しく書かれているところであった。
手帳から視線を上げて、部屋に備えられている棚に並べられている香水瓶に目が行った。クロムウェルの視線に気が付いたのか、彼女はその棚からいくつか取り出すとクロムウェルの前に並べる。
「これは、それらの毒の解毒剤です。常備しておいているのです」
「香水瓶に入れられていたから今まで気が付かなかった。よく考えてみればお前は、いろんな香水を使っているわけではなかったな。お前からはいつも同じ匂いがする。これは借りて行っていいのか」
「はい」
太陽の位置から見て、そろそろ職務に戻らなくてはならない時間だ。懐に、彼女の手帳を入れながら部屋を後にする。王宮へ戻る途中の廊下で、昨日の侍女に出会った。
「昨日のことを彼女に言っていない。私が、彼女の部屋の明かりを消したことを謝っておいてくれるか?」
「かしこまりました」
クロムウェルは、彼女が目を覚ますよりも先に目を覚ましていた。起きたばかりの彼女の顔色はひどく悪かった。彼女から手渡されて手帳の内容といい、彼女自身の事といい、調べなくてはならないことがたくさんある。調べた結果が吉と出るか凶と出るかわからない。執務室についたクロムウェルは、まずレナードにこれらの情報を集めてもらうことにした。
「レナード、頼みがある」
「あなたが、私に頼みごとをするなんて珍しいですね。今日は、風吹にでもなるのでしょうか……冗談はさておき、なんです? 頼みごとの内容」
「俺が最近通っているラピスラズリの間の側室について、詳しく調べてくれ。公式な内容から、そうでないものまで、すべてだ。フロディエンドの者に気付かれないようにだ」
「頼まれるのは構いませんが、いったい急にどうしたのですか? 何か不審な点でも? 後宮に挙げる前に一度調べていますが、それはあなたもご覧になっているでしょう?」
「あぁ。不審とかそういうのではなくな、あいつがどんな人生を歩んでいたのか気になっただけだ。それと、この手帳に書いてあることが本当かどうかの確認と、そして黒幕の目的についてもできるだけ早く知りたい」
「この手帳は……」
「あぁ、その手帳は借り物だから大事に扱え。あと、できれば女神降臨祭までには決着をつけたいんだ。陰のものを使ってもいいから、なるべく間に合わせてくれ」
レナードは、昨晩あの側室と何があったのだろうと推測をつける。陰のものまで動かしてあの側室について調べろと命令してきたのには、皇太子妃という地位を彼女に上げるためだけではないのかもしれないと長い付き合いなので、うすうす気が付いていた。ただ、今はまだ、クロムウェル自身の中で迷いがあるのか、詳しいことを話そうとしないだろう。この友人には幸せになってもらいたい。そのためになら、レナードもゴーシュも心を鬼にする覚悟をもって、調査を引き受ける。
「御心のままに」
言い馴れたはずの言葉がひどく重かった。
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