第十八章 シャドープライスの戦場
魔法の応酬の只中で 彼は電卓もない手で筆算を始めた。
砕けた還流口の穴から 黒い風が噴き出した。
風には影の魔法の濃度が高く 浴びた者の身体は内側から削られた。アルフリートが咄嗟に稔の前に出て 黒い風を盾で受けた。盾は数秒で錆びついたように 端から崩れた。エルマンが剣で風の流れを切ったが 剣は鈍く赤熱して 折れた。
シャドルムは穴の手前で立っていた。彼の左手がゆっくり弧を描き 風の流れを 自分の周りで制御していた。
「賢者殿。あなたの粘結剤では この穴は塞げない」
シャドルムの声は変わらず穏やかだった。
「この穴の影の総量は 十二年分の祈りに相当する。今夜 私は その全てを解放する」
稔はリーゼルの隣で 手帳のページをめくった。
筆算を始めた。
シャドルムが穴の上で動かしている 影の制御の規則の数 およそ六つ。一つ一つの規則を一単位曲げる代償。それぞれの代償が シャドルム自身の影の残量から差し引かれる比率。
稔は四十二の式のうち 三つを 頭の中で組み合わせて 新しい式を作った。
その新しい式が示したのは シャドルムが今 動かしている影のうち 一つだけ 代償の比率が異常に高い規則がある という事実だった。
「アルフリート」と稔は短く呼んだ。「シャドルムの右手 親指の動きを止めてください」
「親指」
「彼の右手の親指が シャドルムの最大の代償の源です」
アルフリートはためらわなかった。
折れた剣を捨てて 腰に下げていた短剣を抜いた。短剣は片手で投げられる重さだった。彼は息を吸って 投げた。
短剣はシャドルムの右手の手の甲に当たった。シャドルムの親指の動きが 一瞬 止まった。
その一瞬で 影の風の制御が崩れた。
風は穴の周りで 不規則に渦を巻き 中央の祭壇の上で 自分自身に巻き込まれた。
「ベルガ 今だ」
稔は叫んだ。
ベルガは既に 還流口の周りに粘結剤を撒き始めていた。水は近くの石組みから染み出していた地下水を使った。ベルガは早口で配合を口にしながら 石灰と樹脂と殻の粉を 一定の比率で 還流口の縁に押し込んでいった。
粘結剤は 数分で硬化を始めた。
シャドルムが 短剣を引き抜いた。彼の右手から黒い血が滴った。血は床に落ちる前に 黒い霧に変わって 散った。
「賢者殿」
シャドルムの声には 初めて わずかな苛立ちが混じった。
「あなたの計算は 美しい」
「ありがとう」
「だが 私の影は あなたの計算を 上回る」
シャドルムは両手を大きく開いた。
その瞬間 祭壇の周りの二十四本の柱が 全て同時に 黒く染まった。柱から放たれる光は もう白ではなく 暗紫の影だった。影の光は天井で交差し 巨大な黒い渦になって 稔とリーゼルとアルフリートを覆おうとした。
リーゼルが前に出た。
「賢者殿 任せてください」
リーゼルの左の手のひらの銀色が 強く光った。彼女は祖父から受け継いだ聖獣使いの紋章を 全力で起動した。紋章は単独で発動するためのものではなく 聖獣を呼ぶための媒介だった。だがリーゼルは 単独で 紋章だけを起動した。
自分自身を 媒介にしていた。
「リーゼル 駄目だ」
「大丈夫です」
リーゼルは振り返って 一度だけ 稔に笑った。
「私は あなたを覚えていない けれど あなたの仕事は 知っています」
リーゼルの手のひらから 銀色の光が円形に広がった。その光が シャドルムの黒い渦を 真正面から押し返した。
光と影が ぶつかった。
火花も音もなかった。代わりに 空気の密度が一瞬 倍に膨らんだ。
光と影は しばらく拮抗した。
稔は手帳のページをめくりながら リーゼルの銀色の光の出力と シャドルムの黒い渦の入力を 比べていた。リーゼルの出力は彼女自身の身体から直接引かれている。シャドルムの入力は還流口を塞がれた状態の祭壇から引かれている。配合屋の式によれば 拮抗は二分以上続かない。どちらかが先に枯渇する。
稔の式は リーゼルの方が先に枯渇する結果を出していた。
二十秒。
その間に ベルガの粘結剤を完全に固める必要があった。
「ベルガ 五十秒以内に」
稔は短く声を投げた。
「了解」
ベルガは早口の男の本領を見せた。彼の指先は数秒に一回 粘結剤に水を足し 配合の比率を微調整しながら 還流口の縁の最後の隙間を埋めていった。彼の作業は 配合飼料の最終調整と完全に同じ手順だった。
その間 稔は手帳の中の補助式を 一つだけ計算した。
リーゼルの銀色の光に 稔自身の何かを上乗せできないか という式だった。
聖獣使いの紋章は 単独では聖獣を媒介にする。だが稔自身が「現在の聖獣」の役を引き受けることが できるかも知れなかった。
理屈は単純だった。聖獣使いの紋章は 媒介を必要とする。媒介の条件は「使いに認知されている生き物」。リーゼルは今 稔の名前と顔を覚えていない。だが彼女は稔の仕事を覚えていた。その仕事を稔自身が体現することで リーゼルの中の「認知」を 媒介として成立させられるかも知れない。
稔は手帳を閉じて 自分の手のひらをリーゼルの左の手のひらに 重ねた。
「リーゼル」
稔は静かに呼んだ。
「私は あなたの聖獣ではない。だが あなたの仕事の続きを 二十年やっている人間です」
リーゼルは答えなかった。だが彼女の銀色の光が 一度 強く 明るくなった。
明るくなった光が シャドルムの黒い渦を 完全に押し返した。
その間に ベルガが粘結剤の二度目の塗りを終えた。還流口は 完全に塞がれた。
シャドルムの黒い渦が 急に勢いを失った。
シャドルムが膝をついた。
彼の代償の支払い能力が 還流口を塞がれたことで 急速に枯渇していた。彼の身体が 内側から痩せていった。
リーゼルが 銀色の光を消した。彼女は その場に座り込んだ。意識を失った訳ではなかったが 一歩も動けない様子だった。
稔は彼女の肩を支えた。
「お疲れ様」
「もう一度 言ってくれませんか」
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
リーゼルは目を閉じた。
彼女の左の手のひらの紋章は 完全に銀色に戻っていた。シャドルムが課した黒の代償は 還流口の閉鎖と同時に 取り立てる先を失った。リーゼルの中の影は 行き場をなくして 紋章の外側へ滲み出し 銀色の光に押されて 床の上に薄く消えていった。
「リーゼル」
稔は呼んだ。
「はい」
「記憶は」
リーゼルは目を閉じたまま 数秒 考えた。
「分かりません。失ったまま 戻っていない部分があります」
「うん」
「ただ 一つ 思い出した感じが します」
「何を」
「祖父の手紙の 最後の一行」
リーゼルは そう言って 目を開けた。彼女の目は 涙ぐんではいなかった。だが 何かが その目の奥で 静かに灯っていた。
ベルガとアルフリートが二人がかりで シャドルムを抱え上げた。シャドルムは抵抗しなかった。彼の身体は 影の重みだけで成り立っていた。地下から地上への階段を上る間 シャドルムは目を伏せたまま 一言も発さなかった。
稔はリーゼルに手を貸して 立ち上がらせた。彼女は稔の腕を支えにして 一歩ずつ歩いた。階段の途中で 彼女は一度 振り返って 祭壇の方を見た。
「これで 終わりですか」
「いえ。あと一段階 残っています」
「一段階」
「シャドルムを 正殿で 罷免の手続きにかける」
「分かりました」
リーゼルは そう言って 階段を上り続けた。彼女の左の手のひらの銀色が 階段の薄暗がりの中で 一度だけ 明るく光った。




