夏美と彰の話1 (1)
朝田夏美は曳舟の駅に降り立った。
駅を出るとスカイツリーを見上げた。
私が祖母から聞いた話、戦時中の話。祖母は太平洋戦争末期の東京大空襲を生き抜いた。
戦争体験者が自身の体験を語らないことはよくあると知っていたし、私の祖母もまた話をしたがらなかったけれど、自分の生まれを正確に知るためにどうしても聞きたいとお願いして、話を少しずつ引き出した。
祖母の生まれ、当時八つの頃に住んでいた辺り、子供達の遊びや日常、それから親の様子。
戦争が始まり、世の中が変わっていくことは、子供ながらに気づくところもあったが、大部分は分からないまま空襲がやってきたこと。
空襲のあった夜の出来事は、他の事とはまったく違う記憶となり、今も克明に覚えていて、忘れようにも、もうどこにも行き場を失っている体験、記憶だそうだ。
祖母の中で留まり、死ぬまでそこに居続けると言っていた。
戦火を逃れて生き延び、社会の底辺で生き抜き、今こうして平和にぼけた(と祖母は言う)社会は、どんな事があっても当時よりもずっとましだといつも呟いていた。
そんな祖母は何かあるごとに「ひもじい」という言葉を使った。
ご飯を食べては「当時はひもじかった」「ひもじい思いはさせたくない」と、夏美のお茶碗をご飯で山盛りにして、お皿には次々とおかずをのせた。
そんな祖母の家に遊びに行くと、いつも決まって特別に濃いカルピスを作ってくれた。
配給しかない戦時中と違い、今は好きな服を好きにコーディネートして、好きなものを好きなだけ食べて、好きなことを好きなだけ学び、好きなところにいつでもいける。
そんな当たり前が当たり前ではなかったと回顧する。
祖母の苦労は表面的にしか分かっていなかった。だからこそゆかりのある場所から追体験できないかと、激しく照りつける夏の陽差しのなかやってきた。
もちろん今は昔とは違う。景色も違うし、生きる人も、常識も、何もかもがまったく違う。それでも祖母の思いを体験できないかと、祖母の話に出てきた場所を巡ることにした。
夏美は大学生でありながら、駆け出しの女優としても徐々に頭角を現していた。
憧れの職業にいち早く身をおけることはありがたいけれど、卒業すると自由な時間がなくなるだろう。
祖母のゆかりの地を巡る、それを大学最後の夏休みの課題にした。
スカイツリーを展望台まで一気に登る。まずはここから、この地域の全体を頭に入れておきたかった。
それから順繰りと巡ろうと考えていた。まさかこの景色をこんなに高いところから、世界各地から集まった観光客達が眺める時代が来るとは、当時は誰も想像できなかっただろう。
一度ならず二度も灰に帰した町。関東大震災で全てが燃え尽きた。そして東京大空襲でも。
それ以来七十年以上も大災は起きず、ようやく平和な日々を過ごしている。
スカイツリーはその象徴のようだ。もう二度と倒れないと気迫を感じる。だけれど、本当にそうだろうか。
夏美が見下ろす先には、おもちゃのブロックを並べたような、どこまでも同じような形を繰り返す町並みがあった。
隣にいた年配のマダム達の一人が「人が小さくみえるわね。まるで蟻みたい」と悪びれる素振りもなく、仲間達と笑っていた。
夏美はこういう人達が苦手だった。芸能界にいるとふつう以上に極端なタイプの人達と関わることもある。
役者といっても一つの職業だから、大抵は真面目で誠実な方ばかりだけれど、時々はこのマダムのような方にも会う。
夏美が距離を取りながら町並みを脳裏に記憶しようとしていると、不意に後ろから声がした。
「あそこに見えるのが錦糸町公園です。空襲の後に一番多くの遺体が仮埋葬された場所です」
夏美は声をかけられているとは気づかなかった。
ガイドツアーが行われていると思ったが、振り返ると確かに私に話しかけていたようだ。
その男性は目を合わせず、隣に並びながら展望室から町を見下ろした。
「え、あの」夏美はたじろいだ。
「すみません、バッグから資料が見えていたので。そういうのにご興味があるのかと思い、つい」
夏美はバッグを確認すると、手持ちの冊子が少し出ていて、タイトル部分が周りに見えていることに気づいた。
今日の参考にするために持ってきたものだ。以前に戦争体験者の話を伺う仕事があり、その機会に頂いた冊子だ。
「あれ、もしかして、朝田さんですか?朝田夏美さん?最近ドラマでよく見かける女優の朝田さんに似ているような・・・」
まだまだ駆け出しだと思って何も正体を隠す事をしていなかったから、身元がばれてしまい夏美は慌てた。
シーッと指を唇に合わせながら小声で答える。
「そうですが、今日はプライベートなので」
「本当に朝田さんですか!初めて芸能人の方に会いました。ああ、でも、すみません、そうですよね。プライベートですよね。では」
とその男性は去ろうとする。
が、夏美はその人の、このあたりのことについて詳しそうな語り口が気になった。ちょっと待ってくださいと、留まってもらった。
「私のことご存じの方と会えてうれしいです。ありがとうございます。あと・・・実はわけあってここに来ていまして、できれば伺いたいことがあるかもしれなくて」
その男性は顔だけ振り返って、不思議そうな顔をした。
「聞きたいこと、ですか?」
「そうです。祖母に戦争体験の話を聞きましたもので。当時の面影が残っている場所があるかもと。まあ祖母はあまり当時の話はしたがりませんが」
夏美は窓の外に視線を向ける。
「それで細かく回る前に、まずこのあたりの位置関係が分かるかなと展望台に上ってみました。でも正直言ってこのあたりには詳しくなくて。あの、あなたはお詳しそうですが、このあたりにお住まいでしょうか?」
男性は改めて身なりを整えると「私はこのあたりに住んでいますので、少しは地理的に明るいかもしれません。それに」と少し真顔になって、小声になる。
「・・・私の祖父、祖母もそうですね。当時は疎開していたようですけれど。詳しく話を聞く前に他界してしまって。二人とも話したがらなかったですね、当時のことは」
「そうですよね。伝えるべきとわかっていても、思い出したくないもののようで・・・」
「祖父も疎開先では苦労したそうです。だから細かい事は話してくれないながらも、とにかく二度とそういう体験はさせたくないと、孫の僕にそれだけは何度も言っていました」
その人は本居彰と名乗った。名前の書き方で、モトは本、オリは住居の居です、アキラは右の部首がカタカナのミの逆になったような漢字です、と細かく説明してくれて、そのあまりに必死そうな伝え方に夏美はちょっと吹き出してしまった。
「そりゃ、相手は芸能人の方ですから。名前を覚えてもらいたくて必死になりますよ」
「じゃあ本居さん、とお呼びしてよろしいですか」
「本居でも彰でもどちらでも構いませんよ」
本居さんはまんざらでもなさそうな顔でニコッと笑った。




