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4 里奈の行方 (2)


「妹はこのノートを残していなくなりました。何もメッセージはありませんでしたが、おそらくあなたに託しています」


「どうしてそんなことが分かるのですか」


「だって・・・ここに登場する人物は、私にはあなたと妹に思えますから」


 どう扱うべきか困った。表紙には特には何も書かれておらず、レトロ調な朱色の花のデザインのノートが、彼女を思わせて切なくなった。


 それなりに厚みのある、しっかりとした装丁のノートだ。恐る恐るページを開くと、タイトルも書かれず、いきなり内容が始まっていた。あの白と紫の万年筆で書いたのだろうか。


 きれいに整った字は、彼女の印象そのままが写されていた。芸能人はこういう字を書くのかと改めて思った。


 いや、その前に一人の人としての字であるという、至極当たり前の事に気づき、プライベートにずけずけと入り込むような気恥ずかしさがした。


 その香るように繊細な文字は、それだけで物語を期待させてくれた。もし今後活字になることがあればこのニュアンスが全て消えてしまう。


 一般人が読む物語と違い、僕は生の、摘んだばかりの生花の束の香りを嗅ぎながら、貴重な読者になれることに感謝した。


 文章を辿り、ページをめくる時に彼女の文字に触れる度、文字から微量な電気が流れ込んでくるような気さえした。それは僕の体の中に残り、しばらくして消えていく。


 書き手と読み手のある種の一体感を生み出していた。あの里奈さんの文字だ。読み進めるうちに、一体感は甘美な繋がりとなり、ある種の背徳感の様になる瞬間もあった。


 しばらくの間僕は読むことに夢中になった。とても初めて書いたとは思えない、素直に文章に入り込める作品だった。


 何でも完璧にこなす、国民的な大女優。彼女が初めて取り組んだ小説をこうして手に取り、読んでいる。直接彼女に感想を伝えるはずだったが、このまま未発表になるのか、それが惜しまれる。


 悠奈さんは僕を見つめたまま、何か発見が起きないかと期待しているのが見て取れる。読み進めるとなるほど、これはたしかに僕と彼女との話かもしれないと読めてきた。全体的にはどういう小説だろう。


 物語は東京の下町から始まる。


 男女の出会いがある。それだけなら淡い恋物語かと想像できる。実際にあった事をベースにしているかというとそうでもなく、僕等がここで話した事は登場しなかった。


 ただ読み進めるにつれ、これは恋愛小説ではなく、複雑な思想が織り込まれている物語であると見通せてくる。


 登場する主人公の女性、朝田夏美は女優である。彼女自身をベースとしているのだろう。


 夏美は昔祖母から話してもらった事を回想する。それは東京大空襲の話だ。いくつかその現実の下町を舞台としたエピソードが書かれている。


 その後物語は飛び飛びになる。まとまっておらず、最後まで書き切れてはいない。


 特に登場するもう一人の主人公である男性、本居彰については断片的なエピソードというか、メモ書きというか、関わりそうな事だけが書かれている。


 彰と夏美の出会いは書かれているが、その後どのように夏美と関わってくるかも不明なまま、ジャーナリスト志望の大学生と書かれているが、絶筆となる。


 人のいなかった店内に、少しずつお客が増えてきた。雑誌で知って来たのか、小綺麗な格好をした女性同士や、カップルが増えてきた。真剣な面持ちで沈んだ空気を出している二人は、店内の雰囲気からは異質だった。


 僕は一通り目を通した後、顔を上げると悠奈さんはまだこちらを見つめていた。


「何か分かりましたか?」


 と期待を寄せるが、答えることは難しい。店内のどこかから楽しそうに談笑する声が聞こえる。


「そう言われましても、弱りましたね・・・。たしかに登場人物は僕と桜上さんに似ている気がします。でもこの内容から、彼女の失踪の原因や、どこに行ったかを推測するのは困難です。ここに出てくる夏美という人物は、里奈さん自身をモチーフにしているのですよね、きっと」


「私もそう思います。駆け出しの女優という設定ですし。それに、私たちの祖母もこの小説に出てくるような祖母で、実際に戦争体験をしていて、似たような話をしてくれたこともあります」


「ああ、そこも里奈さんの知識を元にして書かれているのですね。でも、今パッと読んだ限りでは、なんともピンとくるところはないです。申し訳ないですが。ここに書かれているような話を里奈さんとはしていませんし、彼女の居場所をほのめかす部分も無いようですし」


「ですよね・・・」


 悠奈さんの落胆は大きかった。


「警察には動いていただいています。探偵さんとかの類いは、ちょっと秘密がどこまで保てるか自信がなくて、頼んでいないです。それで、誰か知り合いで頼れる人がいないかと思って、ここに通っていました。以前妹が話していたライターの方なら、もしかしたら力になっていただけるかと思って」


 沈黙。コップの氷が溶けて、カランと転がる。


「私どうしたらいいんですかね。自分でどうにかしたくても、何も出来ないんですよ。どうしたら良いか分からなくて。ドラマの中ではどんどん行動を起こして問題を解決していくのに、現実ではどうしてこんなに、何をしていいかすら分からないんですかね」


 悠奈さんは鼻をすすって、無力ですよねとつぶやいた。


「私たち、親が早くに亡くなっているから、二人だけで支え合っていたんです。もう、どうしたらよいのか・・・」


 そう言って悠奈さんはぽろぽろと泣き出した。


 僕は知らなかった。彼女達にご両親が居ないことを。


 意図的に里奈さんの情報を調べないようにしていたから、そういう生い立ちについて全く知識がなかった。


 こうして目の前で力なくしている姿を目の当たりにして、自分の無力さを感じた。


 いや、僕はしがないルポライターだが、それでも何かしてあげることはあるのではないか。少なくとも一般人よりは情報の集め方や、調べ方を知っている。でもこれだけではなんともしようが無いではないか。


「彼女の行方に事件性はないのですか?警察はなんと言っていますか」


「事件性はないとのことです。自分から失踪しているという、どうしたらそう判断がつくのか私には分かりません。私には事件の線もあるように思えて、それで気が気でなくて」


 悠奈さんは僕の手をつかみ、真剣なまなざしで腫らした目を向けた。


「里奈はあなたを想定して書いていたはずです。だから、必ず何かがこの書き物の中にあるはずです。何かが。私には分からない、あなたと里奈だけの何かが。だから、どうにか、協力していただけませんか・・・」


 悠奈さんは消え入るような声を絞り出して頼んでくる。本当に僕に出来ることがあるのかは不明だ。


 でも、ただの一般人が有名人と知り合ったという事以上に、彼女は僕のことを見ていてくれたなら、本気で関わり合う覚悟ができる。


「このノート、お借りして良いですか。もちろんこのことは一切口外しませんし、厳重に取り扱います。もっと読んで、想像して、彼女が何を託したか考えさせてください。何か分かったらすぐに連絡しますので」


 悠奈さんははっとしたように顔を上げた。少し呆然とし、そして泣いているか笑っているか分からない表情で


「ありがとうございます!」


と、もう一度強く手を握った。


「もちろんお持ちください。里奈もそうしてほしかったはずです。少しでも何か分かること、期待しています」


 悠奈さんはそう言ってから「いや、それってプレッシャーですよね。すみません」と訂正した。「なんでもいいのです。妹の所在が分かるヒントがあれば・・・」


 こうしてこの日から、僕はこの本、桜上里奈さんが残した小説の謎に取り組むこととなった。


 何度も何度も読み直して、すっかり話は頭に入った。登場人物、場所、あらゆる事を記憶した。


 話の筋からは別段彼女の居場所に対するヒントを得られなかったが、一つ気になることがあった。


 それは夏美という登場人物が彼女の投影だとすれば、この夏美の行動こそが彼女の居場所につながるのではないか、と言うことだ。まずは夏美の気持ちを知ることが重要だった。


 小説の中で夏美は、祖母の話していた場所を巡っている。それは祖母が体験した東京大空襲に関わる場所だ。


 僕は悠奈さんに連絡して、出来れば二人で関係する場所を回ってみたいと伝えた。僕が気づかない、何か彼女ら姉妹だけが知っている事があるかもしれず、どうしてもサポートが必要だった。


「私だけではそのヒントまで辿り着けませんでした。なるべく時間を空けて合わせますので、いつでも呼んでください」


 と悠奈さんが電話越しに答える。


「いつでもというか・・・もしよろしければ明日にでも、目星のあるところがあるなら訪ねてみませんか?」


 じっとしているのは精神が堪えると、彼女の気持ちが伝わってきて、僕は二つ返事した。ただ、まだどこから始めるか決めていなかったので、


「明日の朝になるかもしれませんが、予定を決めますので、また連絡します」


 と伝えておいた。

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