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3 女優との再会 (3)


「また今度見せていただけますか。他にもノートがあったりするのですか?」と最後のページをめくる。


「このページは、何かの本の一節の書き写しでしょうか?」


 僕は指で文節をトントンと辿りながら、少しだけ声に出して読んでみる。何かの物語の始まりのような語り口が書かれていた。


 彼女は少し緊張したように「そこは・・・」とノートを取り上げようとする。が、途中で思い直したように取り上げるのを止め、背筋をピンと正した。


「ああ、お返ししますよ。失礼しました」


 と僕はノートを返そうとページを閉じたが、彼女は受け取らない。


 伏し目がちに「ぜひ、見ていただけますか?」と押し返した。


「そのページに書いてある文章は、何かの写しとかではなく、オリジナルなんです」


「日記、ですか?」


「いえ、そうではなく。エッセイや何かのコメントを依頼されたときは、ライターさんに頼まず自分で書くようにしています。読むだけでなく書くことも魅力的だから。それで、ちょっと思うところがあって、自分でも文章書けるかな、って」


「小説を書くのですか?」


「そう改まって言われると、書ける自信も無いので恥ずかしいですけど、まあ、そう言う事ですよね。読むと書くとでは全然違うでしょうけれど。手習いというか。どこかに出すためではなく、まず書いてみれば自分で読んで面白いかどうか分かるでしょうし」


 僕は彼女の気を引くのはここだとばかりに「実は僕、ライターをしているんです」と、力になれそうな雰囲気を出した。


「ホントですか!物書きの先輩じゃないですか」


「いや、ライターと言っても小説家ではないですから。似ているように思われがちですけど、違いますよ。僕にとってはノンフィクションはやりやすいですけど、フィクションは難しいです。ましてや小説は正しく伝えるよりも、よりエンターテインメントに書く必要もあるでしょうし」


「いやいや、ご謙遜なさらず。わあ、尊敬するなあ」


 国民的な女優に突然尊敬される立場に変換されて、この仕事に携わっていて良かったと心底、過去の自分の決断に感謝した。三文ライターであるとは黙っておこう。あえて言うことでもない。


「書き方のコツとか教わると良いのかな。物書きの知り合いなんていないから、助かります」


「いや、物書きともいえませんよ。本当にただの、そこら辺にいくらでもいるライターの端くれですから。期待されても」


「それでも、もし、書いた物を見て少しでも批評してくれたらうれしいかな。でもやっぱり見せるのは恥ずかしい、ですね。だからある程度出来たら・・・」


「楽しみにしています。また今度お会いした時には、見せていただけますか」


「私から切り出しておいて言うのもなんですけれど、やはり心の準備が出来てからでいいですか?初めからチェックしてもらえば、初めから上手く書けていくのかもしれないけど、心の準備が出来てないことに、今気づきました」


 僕は彼女が何を書くかとても興味が湧いてきた。


「ちなみにどのような物語にするか、構想はありますか?」


「そうなんですよね。あるといえばあるのですが、書きながら考えようかなという節もあって」


「初めてなら、上手く書こうとしなくて大丈夫ですよ。いや、むしろ上手く書ける方が希というか、不幸といいますか」

「不幸?」


「そうですよ。不幸です。いきなり上手くいけば、どうやって上手くしていくか考えて経験するチャンスがなくなるわけですから」


 彼女は何か心当たりがあるのか、不意に考え込んだ。


「私は子役の頃からお芝居に携わっています。たしかにそれは分かりますね。上手くいかないからこそ、どうすれば良くなるかを経験していけます。苦しみもありますが、私だってそれを乗り切ってきていますから。それなら私、恐れずに書いてみます」


「書くと、何が書きたいか見えてくることもありますし。それに物語が出来てくると、最初は思ってもみなかった展開に気づいたり、人物が話をリードし始めることもあります。その都度手直しが必要ですが、初めはそれでいいのです」


「なるほど。さすがです。本当に助かります。こういうのって、あまりに近い友だちには見せるのがはばかられるし、全くの他人にも見せられないし、あなたのような方がいてくれてよかった・・・」


 お互いに用事があるため二人でお店を出た。


「ここは私が・・・」と支払われてしまった。レジで支払う姿はとても庶民的だが、芸能人がそうする姿はテレビでも見たことがなく、なんだか見入ってしまった。


「支払い済みましたよ。今度お会いする時までには、ある程度書いてみますので楽しみにしておいて下さい」


 そう言って表に踏み出すと、雨はすっかり上がり、陽差しはゆっくりと傾いていくところだった。


 ビルの窓は微妙なゆがみがあり、濡れた道路と共にあらゆる物を乱反射させ、夕明かりが街中に満ちていた。もうすぐ一日が終わる。


 西の遙かには巨大な入道雲が残り、太陽がその後ろに回り込んでいくのを二人で並んで見上げていた。


 入道雲はオレンジと薄紫が乳化した半透明の、美しくまったりとした色彩を滲ませ、その稜線は皎々と発光していた。


 桜上さんがつばの広い帽子を手にしながら見上げて問いかける。


「人間は飛行機で空を飛べますし、宇宙にだって行けるのに、あの稜線の向こうへ、ふらっと行くことも出来ないです」


「飛行機であれよりも高く上がれますが、そういうことではなく?」


 桜上さんが首を振る。


「そういうことではなく、今ここからふらっと、あの稜線めがけて飛び上がって、あのあたりから町を見下ろすことも出来ない、ということです。プロペラ機や、そう、パラグライダーに大きな扇風機をつけたのありますよね。ああいうのでこの場からふらっと飛べたとしても、あそこまでたどり着くのは難しそうです」


 そうして彼女は入道雲の上空を見上げて、すこし口を開きながら、何かを求める様に息を吸った。そして吐き出しながら言う。


「演技ってすごいんですよ。小説もそう。あそこに行けるんです。行こうと思えばあの稜線の向こうまで、今すぐに・・・」


 僕は確かにそうかもしれないと、漠然と賛同しながら空と彼女とを見比べて、この美しい光景を独り占めしていることを幸せに感じて浮ついた気分になっていたが、それ以上のことは何も考えていなかった。


 なぜこのタイミングで彼女がこの思いを僕に告げたのか、何を求めていたのか、その時の僕は知る由もなかった。


 彼女は周りに目立たないように小さく手を振り、去って行った。


 帰り道、僕も勇気を出して小説を書いてみるかなと奮い立たせてみたが、結局は一行も書き出せなかった。


 すぐにまた例の喫茶店へ行っても、彼女が小説を書き溜まるまでは来ないだろうなと、しばらく足が遠のいた。本業の隙間を縫って執筆するなら、なかなか時間がかかるだろうと、一ヶ月経ち、二ヶ月経ち、そうして半年が過ぎた。季節は気づけば夏から冬になっていた。


 そろそろかと、喫茶店に繰り出そうとするものの、東京の冬は本当にまったく雨が降らないため、行くに行けないまま時間が過ぎた。


 そうしているうちに今度は僕自身仕事が忙しくなり、時間が合わなくなっていった。


 ようやく雨の休日が巡ってきたから、慌てて喫茶店に向かうも、お客が多くてとてもじゃないが彼女が忍んで来られそうではなかった。


 雨の日を狙うが、あまりに雨が降らないため、まるで雨乞い師の様に天気に願掛けをするのが日課となった。


 ある日街中の書店で、東京の喫茶店を紹介する雑誌を手に取ったところ、例の喫茶店が大々的に取り上げられていた。そのあたりから特別人気が出てしまい、いつ行っても人で溢れているような有様だった。


 彼女と出会った頃の店の雰囲気とは、すっかり違ってしまった。彼女は別に居場所を見つけているかもしれないと、付近の喫茶店にも通ってみたが、彼女の姿を見かけることはなかった。

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