17 里奈 (2)
桜上里奈は風貌が変わった。
髪の色は以前のままに戻っていたが、睫毛と目の色が変わっていることが問題だった。
僕はその後の一部始終を見るような立場ではなかったため、あとから聞いた話だが、事務所に姿を現すと大変な騒ぎになったそうだ。
それは、所在が見つかった喜び、驚き、安堵と共に、その風貌にあった。一体何があったのか、どうにも簡潔にも複雑にも伝える事が難しいため、悠奈さんが必死にごまかしたそうだ。
事務所は良いとしても、どう世間に戻っていくかが問題だった。
秘密の留学をしていたという、少々苦しい設定で乗り切ることとなった。
睫毛を染めて、目にはカラーコンタクトを入れるという方法も検討されたが、里奈さんが頑なに断った。
あるがままの自分で居なければならない。それが自分に課せられた運命であると解っていたからだ。それだけにどうしても譲れなかった。でもこれこそが一番説明の難しい部分だった。
ただ意外なことに、最初はマスコミに騒がれたものの、価値観の多様化が騒がれる昨今では、思いの外直ぐに世間に受け入れられた。むしろ作っていないそのままの、本当にその睫毛と目の色であることが神秘性を生んで、ある種の強烈な魅力を生み出した。
どうしても役は限定されてしまうが、それこそとても特別な存在を演じる事が増えて、以前よりもさらに人気が増した。国民的女優でありながら、孤高の女優とも評された。
彼女は謙遜しながら、
「私が演じることで、少しでも世の中から苦悩が和らいで、笑顔が増えて、平和になるなら嬉しい」
と言う。何よりも自分の居場所を見つけられたと喜んでいた。
それを端から見ていた訳だが、ますます彼女は遠い存在になるように思え、僕としては嬉しいながらも落ち込む時もあった。
彼女が映画やテレビや舞台などで数々の役を演じていると、僕は束の間平和で満たされた気持ちになれた。
一連の体験を通して彼女が忘れられていく世界も見たから、この気持ちは束の間でしかないと知っている。それでも、変わらず日常生活の中に潜む戦争の記憶達の存在が感じられても、彼女に平和を見いだしている。
差し出がましいことだけれど、僕は里奈さんがその後書き換え、書き足した小説を推敲する機会に恵まれた。
正直に言うと、編集者でも何でもない僕がどのぐらい役に立てたのかは疑問のままだ。彼女自身がみるみるうちに成長し、立派な書き手となった。
僕は彼女からインタビューを受けるように、僕の祖母の話をした。満州からの引き上げと原爆の話は彼女の小説に組み込まれ、当時の戦争を多角的に語る為の重要な要素となった。
小説の出版に困ることはなかった。彼女自体の話題性が高いため、どの出版社からも引っ張りだこだった。
彼女としてはその条件として、経費を除いた売り上げの全てを東京の戦争資料の保全や管理の為に、しかるべき団体へ寄付することをあげていた。
彼女の小説はベストセラーにはならなかった。でも沢山の若者が手に取り、自分の問題として捉えることが出来たし、それをきっかけとして祖母や祖父といった身近な戦争体験者であったり、地域の戦争体験者に話を聞くという機会が増えたという話も聞いた。
伝える側、伝えられる側、双方の思いや心構えに一石を投じた小説により、彼女の志は見事に花開いた。
もうひとつの恋愛小説はどうなったかというと、あちらはあのあと少し加筆したものの、途中で止めたようだ。里奈さんは理由を教えてくれないが、何か思うところがあるようだ。
いつ尋ねてもごまかされる。本当は密かに書き足し続けているのかも知れないと、それで、
「いつか読ませてください」
とお願いしたことがあるが、里奈さんは、
「架空の話よりももっと大切なものがある」
と言い続けている。
そしてある時、
「これが続きです」
と何も書かれていない原稿用紙を僕に寄越した。
彼女は洒落ているのか捻くれているのか、いずれにせよ他人から見ればただの白紙だが、僕にとっては全てが書かれた宝物で、勝手にラブレターだと信じている。
そして肝心の僕と里奈さんは、ようやく連絡先を交換したところだ。僕はそういうのが申し訳ないというか、聞いても大丈夫なのだろうかと迷っていたから、聞くことを控えていた。
「え、そうでしたっけ?そういえばお互いに連絡先を知らないですね」
と驚く里奈さんは、体を寄り添わせながら連絡先を交換してくれた。というわけで僕等は付き合うとかそういう関係にはなっていない。
雨の日は決まってあの喫茶店の奥に座る。
どちらかが先に来ていて嬉しくなる。
以前のように本の感想を語り合う。
新しい物語を書こうと考えていると相談を受ける。
彼女はいつもの紫の螺鈿の入った白く美しい万年筆を指先に遊ぶ。
全てが穏やかに過ぎていく。それは恋人の関係でもなく、でもただの友人でもなく、男女として惹かれ合いながら、そして近づけない事を楽しんでもいた。
あれ以来里奈さんの部屋には行っていない。ポスターが良かったですよと告げたら、次に会った時にあのポスターをくれた。
本人が剥がしたがっていたはずだから、丁度良い処分先を見つけたというぐらいのことだと思っていたが、しっかりと彼女のサインが足されていた。例のニコニコマークも添えられていた。
今のところ僕の部屋にはそのポスター越しに里奈さんが居てくれる。未だに彼女とこうして知り合っている不思議な感覚が抜けない。
それと、今でも三人で会うときもある。里奈さん、悠奈さん、そして僕とで何かのタイミングで一緒に出かける。
先日は悠奈さんが個展を開くというので出かけたし、グループ展を開催すると聞いては出かけた。あの出来事以来、悠奈さんの作品は変わった。
時に厳しく、時に優しく、表現するものに対する愛に満ちていた。それだけではなく、技巧的にも信じられないような表現力を持ち、美術雑誌を見れば頻繁に登場するようになった。
他にもただ三人で集まって、浜離宮にコスモスや菜の花の写真を撮りに行くだの、里奈さんの映画を観に行くなど、色々な理由で集まった。
映画に関しては里奈さんは自分の姿をスクリーンで見るのは恥ずかしいと嫌がっていたけれど、劇場の一番後ろの席で、悠奈さんと僕とで挟み込んで観るのが常だった。
いつかは三人で広島の叔父と叔母の家に押しかけて驚かせようと相談している。
残念なことに、僕は何事も成し遂げられていない。
やはり今更新聞社に職を求める気にはなれず、かといってジャーナリストやノンフィクションライターのように活発に、積極的に世間の問題を取り上げて活動するバイタリティも無かった。
ただどうしても祖母の言葉は引っかかっていた。
里奈さんと出会う前と違い、少しだけれど戦争体験を自分の体験として置き換えることが出来た。
直接的に戦争を防ぐ方法はないものかと、この豊かな東京を歩きながら考えることもある。
だがいつまでも見つけられずにいた。
他の道で公平性や正義を貫く方法があり、間接的でも戦争抑止に貢献出来ないかと悩み続けていた。僕が自分の道を見つけるにはまだ時間がかかりそうだった。
ただ一つだけは揺るがない信念があった。僕等若い世代の命が、生かされた命だとしても、不幸から産まれた命としても、それを努力で肯定して、否定的な要素を消し去る必要は無い。むしろそうしない方が良い。
いつまでも僕等は烙印を背負いながら生きていく。その方が過ちを起こさないで済むから。
名残惜しいけれど話はここまでだ。後の里奈さんの活躍は世間が知るところだ。だから僕が何か付け足すのは不要だろう。




