16 東京タワー (2)
ハルさんにお礼を言って、僕と悠奈さんは東京タワーに向かった。ここからは本当に近く、歩いて十分程度だった。
「久しぶりに来ますよ、東京タワー」
僕はいつぐらいぶりに訪れたか思い出せないぐらい、随分と久しぶりにやって来た。
「私も最後に来たのは里奈と祖母と一緒の時でしたから、かなり前です」
そうはいっても勝手は知ったもので、裏道やタワーの入り口への回り込み方は手慣れており、するすると辿り着いた。
まだ朝早いため観光客もそれほどではなかった。僕等はフットタウンまで上がり、外階段の登り口まで来た。階段で上る人は、この日はまだ全然いないようだった。
六百段の階段、悠奈さんと共に景色を見ながら上がっていく。自分の足で、自分の力で、徐々に高い景色になっていくのは楽しく爽快だった。
風も心地よく、朝もやはすっかり消えて快晴の空ばかりだった。二百段を迎えた時、先を行く悠奈さんが踊り場で立ち止まっていた。
「どうかしました?息が上がって一度休憩ですか?僕はまだまだ音を上げませんよ」
と僕が尋ねても彼女は固まったままだった。側に行き踊り場から見上げると、外を眺める女性の姿があった。
それは里奈さんの姿だった。
僕等は息を呑みその姿を観察した。武蔵丸子の神社前で見た姿と同じで、実像ではなくもやがかっているあの姿であると認めた。僕等はそっと近づいていく。
もう少しで手が届きそうな距離となったとき、悠奈さんが思い切って手を延ばした。その瞬間に姿が消えるのであった。何が起きているか解らないまま登り続けると、また里奈さんの姿があった。
外の景色を眺めている横顔は真剣そのもので、僕等はまた近づくものの、間際で消えてしまうのに変わりはなかった。
そしてまた登り、また彼女の姿が現れる。次は駆けて近寄ってみたが、結果は同じであった。
僕と悠奈さんは息を荒げながらも必死でその影を追い求めた。駆け上がり、近づいては消える。
繰り返していくうちに展望台の入り口まで登り切ってしまい、僕等は諦めた。
もう少し、もう少しで里奈さんを引き戻せる。でもそれが出来ない歯がゆさで、押しつぶされそうだった。
展望台間際の階段は、何度か折り返してももう外が見えず、二人の心も閉ざされる思いだった。
展望台に入るものの、必死に登り切った達成感のないまま、むしろ徒労感で包まれた。
だがそこで奇跡が起きた。
そこには朦朧とした里奈さんがいた。
あの幻覚のように、寂しい色のワンピースで体を包んでいた。
足はといえば裸足でそこに立っていた。
悠奈さんが一心不乱に駆け寄った。また里奈さんの幻影は消えてしまうかも知れない。それも構わず駆け寄り、二度と離さないように、この世界に引き戻すために全身で抱き締めた。
思わず転びそうになる勢いでぶつかり、里奈さんはついに実体となった。
僕もすかさず駆け寄り、ふらついた二人を強く支えた。
悠奈さんは泣きじゃくっており、里奈さんは呆然としていた。
彼女の髪の毛は元の通りの色に戻っていたが、睫毛と眼は色が抜け、切ない色のままだった。
悠奈さんは里奈さんの姿を一通り確認した後、強く手を掴んだ。指を絡ませて、二度と離さないように強く強く握り締めた。
僕はそれを見届けて直ぐにエレベーターでフットタウンまで降り、お土産屋で売っていたサンダルを手に取り購入して戻った。
その頃には二人はベンチに座って落ち着いていた。僕は里奈さんにそのサンダルを履かせた。里奈さんの足は冷たく、僕は何も考えないままその足を温めようと擦っていた。
「ありがとう」
そう里奈さんが言う。
久しぶりに聞く声は僕の耳を優しく撫でて響き、僕は感極まってしまった。
そうしているとスタッフの方が近寄ってくるので、僕等の騒ぎを注意されるかと警戒した。
「あの・・・外階段登られましたよね?こちらは認定証です」
とノッポン公認の認定証を受け取った。予想もしていなかったので思わず三人で笑った。
里奈さんが言う。
「私、うっすら見ていた。二人が階段を駆け上がるのを。ついに階段で登ったんだね」
「そうだよ。今朝おばあちゃんちに居たんだよ。それで、里奈がタワーをいつか階段で、おばあちゃんと登ろうとしていたのを思い出して、今日二人で登ったんだよ」
里奈さんが弱々しく微笑む。僕は里奈さんを、悠奈さんと挟む形で座った。里奈さんはうつむき加減で少しずつ体を空気に慣らしているようだった。そして囁くような声で僕等に尋ねた。
「・・・それで・・・読んだ?」
「読んだ」
「読みました」
里奈さんは、はずかしいと言って手で顔を覆った。
「その、なんというか。すごく素敵でした」
と僕は感想を告げた。それが心から溢れるそのままの気持ちだった。
「嘘よ」
「元々僕を初めの読者にしてくれるということでしたから」
「それはそうですけれど・・・」とため息をついた。「私は卑怯な人間ですよ。読んだでしょうに」
「読みました。想像もしていませんでした。里奈さんの考えていたことを知っても、それでも僕は里奈さんが好きです」
里奈さんは驚いてこちらを見据えた。
「あの、好き、というのはその・・・ラブとかそういうのではない好きという意味で」
彼女はその端麗な顔立ちで、穏やかに微笑みながら、
「・・・ありがとう。私もあなたや悠奈のことが好きです」
と言った。
彼女は力なく立ち上がり窓際まで歩こうとするので、三人で寄り添いながら景色を見晴らせる所まで進んだ。
「三人で来られたね。この景色、みんなでみたかったの」
里奈さんの姿は、僕にとってはその様子が、映画のワンシーンのように切り取られた、別世界の存在に見えた。
でもそれは決して演技では無く、彼女そのものだった。里奈さんは色彩のないまま窓外を隅から隅まで見つめた。
「私、本当に幻覚が酷くなって。現実と幻想の境界が無くなって、私があちらに引き込まれたような感覚だった。いつか話したように、気づけば雲の稜線に浮かんでいた。とても高かったけど、でも怖くは無かった。
「空から見ていて唯一怖かったのは、町から私の記憶が消えていく事だった。私の姿、作品、色々な物が少しずつ消えていき、世間は私を求めていないと知った。戦争の記憶達と同じく、少しずつ消えていくのが怖かった。
「でもそれは私的な話。見下ろした東京の町は黄金の大麦畑に見えた。どこまでも近くで見えて、どこまでも広く見える視野には、沢山の人が行き交う姿を見た。あなたたちの姿も。
「高い所から見下ろすと人が小さくみえる。でも誰もが大麦を育てる大切な命だった。私はずっとその眩しいばかりの黄金の畑を眺めていたかった。愛おしくて仕方がなかった。いつまでもそうしていてもいいなって。
「でも、残してきた事への未練は変わらずあって。投げ出してしまったら、いつまでも何も変わらないのではないかと。正面から向き合って解決するべきだと。
だからあなたたちがタワーを登る姿を見て、私も行かなければと思った。もう私はあの雲の彼方に戻れない。でもそれでいいの、それで」
空を見上げる彼女の目には涙が浮かんでいた。
透き通る睫毛を濡らして、一筋流れ落ちた。




