16 東京タワー (1)
ハルさんは真剣に里奈さんの手記に向き合った。そして小説にも。ハルさんは普段からよく本を読んでいるのか、速く的確に読み進め、一時間経った頃には全てを読み終えていた。
「そういえば、里奈ちゃんは時々ここに来ては、いきなり当時のことを聞いてきたけれど、今思えばそういう事だったのかと腑に落ちました」
悠奈さんが急須にお茶を入れ、それぞれの湯飲みに注いでいく。
「話は概ねおばあちゃんが里奈に話した通り?」
「ああ、そうね。ほとんど私の通りだね」
「私たちもその話に沿って、同じ所を巡ってきたの。波除白山神社で蔵の前に立った時、不思議なことなのだけれど、当時の感じがした。子供の頃のおばあちゃんや里奈が側にいるような感触がした」
「いやだよ、それじゃあまるで生き霊じゃないか」
「僕も一緒にいて、実は同じように感じました」
それを聞いてハルさんは真剣なまなざしを僕等に向けた。
「にわかに信じがたいけれど。でもそういうこともあるのかね」とお茶をすすった。
「・・・里奈に伝えていない話もある。あの空襲の夜のことは思い出したくもないし、その後の生活のことも思い出したくもない。でも、小説に書かれているように、あの夜日本橋の銀行前の石畳に居た子。
あの子の幻覚を私は何度も見た。街角であの子の姿を見かけた。実は今もある。幻覚だと解っている。でもまるであの子が、自分を忘れないで欲しいとこちらを見ているんだよ。
それだけじゃあない。叫び声が聞こえるような時もある。今も上野駅には行けやしない。それはそういう声が聞こえそうな気がするからだよ」
里奈さんの体験は、ハルさんのそれと似ていた。彼女はあまりに深く自分の身を体験者として委ねた。それは俳優のある種、人に憑依するような能力がなせるものなのかと考えた。そして、幻覚や幻聴までも実際に起こるようになってしまったのかと。
「里奈は昔から鋭い子だったからね。人を見抜くのが上手というか、だから役者としてもあれだけの能力を発揮したのかも知れないよ。
共感性や共鳴性の高さは少し心配していたのだけど、それが現実になったのなら、かわいそうなことをしてしまったよ。
私は壮絶な死を見届けているから、もう超自然的なものも受け入れてしまうけれど」
そう言ってハルさんは里奈さんの書き物を机にそっと置いた。
僕の祖母はもういない。その代わりにハルさんに聞きたかった。僕は祖母の話をハルさんにした。ハルさんの知らない満州の出来事。もちろん僕も直接は知らない。でも同じ時代を生きた方の意見を聞きたかった。
「僕等は誰かの死によって生まれた命なのでしょうか?」
ハルさんは目を閉じて考えていた。遠い場所の記憶を想起し、想像し、的確な答えを求めていた。
「それは、あなたたちが答えを出すしかないでしょう」
と答えた。そして僕と悠奈さんを真っ直ぐ見据えて、まるで遺言を託すかのように、
「人生は短いですから、自分が思うように、自分がやりたいようにやらないといけません」
とも答えた。
僕等は里奈さんの居場所について答えを出せなかった。武蔵丸子神社で見たあの幻が手記通りであるなら、そこにあった戦災樹木が依り代となり、里奈さんの行き着いた場所となる。
でも僕はそれに納得できなかった。命ある限り、いつかはどこかで逢えるはずだ。でもどうすれば良いかは全くわからなかった。
その夜は里奈さんのことをみんなで話した。
僕は数少ない喫茶店での話をした。ハルさんはもちろん、悠奈さんも興味津々に聞き耳を立てて、しまいにはまた里奈さんに逢えたなら、付き合いなさいよと家族の同意を得るまで話が展開した。
僕にとっては未だに里奈さんは桜上里奈であり、住む世界の違う人だからと断った。それは本心であるとは言えないが、現実的だった。
夜遅くなったため、僕と悠奈さんはそのまま泊まらせてもらうことになった。窓を開ければいつまでも車の音が遠くに聞こえていた。
僕は朝早く目が覚めた。慣れない環境だから眠りが浅かった。外に出てみると、まだ空はもやがかっており、淡いベージュの空だった。
昨日は辺りが暗くなっていたのでそれほど周りの圧迫感はなかったが、改めて見るとすっかりビルに囲まれていて、その上に東京タワーの天辺だけがにょきっと生えていた。僕はそれを見上げていた。
「おはようございます。面白い景色ですよね」
いつの間にか悠奈さんも表に出てきていた。
「自宅から一歩出たら東京タワーが見えるなんて、観光に来る人達からしたら驚きじゃないですか?」
「たしかに」
二人で並んで見上げる。いつもと変わらない白と赤のタワー。
「・・・里奈は東京タワーが好きだったんですよ。ここに遊びに来ると、二人で両親や祖母を連れて行くこともありました。それで展望室からおばあちゃんちを見つけるのが楽しくて」
「近いから見えますよね。自分の家が見えるのは、なかなか出来ない生活ですね。普通は東京の景色をなんとなく眺めて、東京はどこまでも隙間無く建物が続くなあって感想を言い合うものですから」
「里奈が言うように、いつか三人でこの町を一望できるのでしょうか」
「どうしてそんなに里奈さんにとって、東京タワーは特別なのですか?」
「どうしてでしょう。家族の思い出があるのと、そうですね・・・」
そういって悠奈さんは片足ずつ、ゆっくり前に出しながら円を描いて歩く。立ち止まると、
「低いから?」
と言った。
「低いから?」
僕は思わず確認した。
「そう、低いから。タワーだから高いですよ。でも最近はとっても高い建物ばかりじゃないですか。東京タワーって適度に高くて、適度に低い。
あの低さが好きだったかも。下に見える人達や町の鼓動が聞こえてくる高さ」
それは僕もなんとなく納得できた。
三人でまた台所に立ち、朝食の準備をした。
食事の時に今朝見た景色のことをハルさんに伝えた。ハルさんはご飯に味付けのりをのせながら耳を傾けていた。
「ああ、そうそう。里奈ちゃんは好きだったね、あそこに行くの。最後に行ったのは随分前だけれど」
「そういえば私思い出したことある。おばあちゃんを連れて行くと、いつも里奈は『いつか階段で上がってみよう』って誘っていたよね」
「そうだったね。いつもいつも、毎回あたしは足腰がそこまで丈夫じゃないから無理だと言っても、いつも繰り返して、階段で上がろうってね」
「結局いつまでも登らずじまいで。里奈もどこかに行ってしまったから、もう登れないけれど」
と言って、悠奈さんは箸を止めた。僕は提案した。
「それなら、今日登りませんか?僕で良ければ」




