3 女優との再会 (2)
「え、拝見していいのですか?」
彼女はにっこりと頷く。初めて彼女の持ち物を手にして、不思議と指が震えるようだった。
思いもよらず近く感じてしまい、まるでドラマの中で演じる彼女が物を通して耳元でささやいてくるような、そんなこそばゆさがあった。
ノートを開いてみるとそこには落書きがあった。落書きというか、グリッドが書かれていたり、丸や三角といった幾何学形状が描かれていたり、ぐるぐる書いてあったり塗りつぶしてあった。
「ああ、これは、ずいぶんと不真面目が極まっていますね」と思わずつぶやいてしまった。
「あ、なぜいきなりそのページが。そこは一番そういう感じのところでして。他開いてください」
そう言って手を伸ばしてきて、別のページにめくってくれた。
そこには本の登場人物の名前らしきもので、人間関係をまとめた関係図があった。他のページは役作りのためとおぼしき、仕事に関わる記載があった。
「これは見ても良いんですか?機密事項ですよ」
「大丈夫です。仕事のメモは昔の物で、書いてあっても既に公開されたものばかりですので」
最初はパラパラとめくっていたが、逃してしまうと惜しいぐらいの貴重な機会だと気づき、改めて最初のページから丁寧にめくりながら見ていった。
「誰かに見せたの初めて」
「良いんですか僕で。こう言うの恥ずかしいのでは?」
「良いんです。あの本の感想を言い合った同志ですよ。他にふさわしい人はいません」
子役から活躍している彼女は学業も優秀で、進学の時期になる度に世間に取り上げられていた。ノートの字はとても丁寧な書かれ方をしていた。僕には彼女が、どこまで切り取っても真面目で誠実な女性に思えてならなかった。
ページにはいろいろなことが書かれていて、僕は興味を掻き立てられた。
「このノートはいつの、というか、いつ書き始めた物なのですか?このページは『ライ麦畑でつかまえて』についてですよね。あなたのような読書家が今読む物ではないでしょうし、中学生とか高校生の頃の書き込みですか?」
「鋭いですね。他にもノートがいくつもあって、これは久しぶりに取り出して。空白のページが沢山残っていたので使い切ろうと思いまして。一度はみんな薦められて通る道じゃないでしょうか?このタイトルは」
「僕は初め、ライ麦畑でつかまえるという話なら、舞台はライ麦畑のあるアメリカの田舎の広大な土地の話だと想像していました。それで、アメリカだから野球を夢見て」
「それは・・・『フィールド・オブ・ドリームス』と混ざっていますよね。しかもあれ、ライ麦畑ではなくてトウモロコシです」
「あれ、トウモロコシなんですか。それは今まで知りませんでした。さすが女優さん。映画も詳しいですね」
「古い映画は好きですよ。演技がそのままスクリーンに出てきますから、本当の実力が試されます」
「でそのライ麦畑の話、どう感じました?」
「私はこの話結構好きなのです。若い頃読んで感じたこともよく覚えています。若者の感性と共感するところが多くて、社会に対する反感にも共感できました。全てではないですけれど。まあ正確に言えば、共感したのではなく、私は出来ないながらもそういう生き方があっても良いなと」
「・・・大人になると違って見えますよね」
「わかります?小説によっては読む時期、心の状況で登場人物や作品全体のメッセージや印象が変わります。そういう作品は人生の中でも特に大切な作品ですね。作品を通して昔の自分と向き合える気がして」
「僕も、昔の自分と隣り合っている気になれます。一つの本を前にして、集中しているから目は行を追っているのですが、体の隣に気配がするというか。昔や未来の自分が隣にいて、絵本を囲んで読む親子や兄弟のように感じられて」
僕がそうやって隣に子供時分の姿を手でかたどっていると、彼女もそんな手触りを想像しようとしているのか、息を吸い込みながら目を閉じた。
それはどのように役を演じるべきか、演技の想像をしている姿を見ているようで、目の前で演じられる特等席は主演女優を独り占めできた。
他のページにも読書感想が書かれており、一つずつ本当に見て良いのか確認しながら、時にそこに書かれていない本についても話題が飛び、思いつく限り感想を伝え合うのはこの上ない楽しい時間だった。
僕は彼女が読んだことのない小説を取り上げて解説もした。
「・・・・・・という流れで、最後のシーンは浜辺から望む漆黒の海。遠くには赤く巨大な太陽。地球の終わり。生き物の気配がない中で、主人公の男は地球の最期の傍観者となります。人類や生きとし生けるものは無いはずですが、静かな黒い海で、得体の知れない魚のようなものが一匹だけ跳ねるのです。戦争や平和があって、どんなに人類が努力したとしても、人も自然もいつかはこうして虚しく歴史を閉じていくとすれば、あらゆる事が虚しく思えます」
「でも同時に、私にはあらゆる物がキラキラと輝きはじめます。あなたの語る景色だけを想像すると確かに虚しいですけれど。どのみち人が辿り着けない遥か未来の話ですから、今がいかに煌めいているか、それを理解して生きる糧に出来た方がいいと、私は前向きに捉えたいです」
私はその本を読んでなかったなあと、とてもうれしそうに微笑む彼女は、今度手に取ってみますと付け加えた。
このように話題は鳥が木々を飛び交うようだった。徐々に彼女の、世間では知られていない一人の人物としての形が浮かび上がる。
もっとも、それはただそう思ったという勘違いでしかなかったと後々分かるのだが。
そうして気づけば二時間も経った頃、終わりのページに差し掛かった。




