15 武蔵丸子神社・麻布 (3)
お婆様は簡単に自己紹介をしてくれて、名前はハルだと言うのだった。それで僕はハルさんと呼ぶことにした。若い友達が出来たみたいでうれしいわと喜んでいた。
夕飯はこれから準備するということで、三人揃って台所に立った。エプロンが足りないねとハルさんがいうので、僕の分は無いままでも大丈夫ですと答えた。
「今の時代は男も台所に立たないとだめよ」
「おばあちゃん古いー。もうそういう事自体いちいち言わない時代だから」
と悠奈さんがジャガイモの皮を剥きながら言う。
「ニンジンも皮剥く?」
「ニンジンは皮剥いちゃ駄目よ。一番栄養があるんだから。もったいないわよ」
「その話本当なの?いつも言うけど」と悠奈さんが僕に「皮なんてこんなに薄いのに。身の方が栄養が多いに決まってるのに」と小声で言う。
でもそれが聞こえていたようで、
「食べられるところは全て頂く。味だってそういうキワの部分の方がおいしかったりするのよ。お肉だって骨についた辺りがおいしかったりするでしょう」
とハルさんも全く引けを取らず応戦する。僕はそのやりとりを見ていて、まるで桜上家の一員になったような気がして嬉しかった。
味噌汁のニンジンは皮付き。昔は裏庭で畑をやっていて、ニンジンや季節の野菜を収穫していたそうだ。
「前は自家製の味噌でしたが、独り暮らしでは余るので、もう今は市販の物ですよ」
とハルさんは言い、でもぬか漬けだけは今でも漬けていると補足した。
「おばあちゃん、この小松菜の葉は虫に食べられてるけど、使う?」
虫食いの野菜は虫が食べるほどおいしい野菜ということ。きれいな野菜は虫も食べない。今は昔のような残留農薬もないでしょうけど。とハルさんはどんどんお湯の中に小松菜を投入した。
二人のペースになかなかついていけない僕は、ご飯を炊くことにした。古い炊飯器を見つけると、それは普段見ない種類の物だった。僕に気づいた悠奈さんが、
「ああ、それガスのが未だに動いているんです。お焦げが出来ておいしいですよ」と、使い方を教えてくれた。
お米を研ごうと水道を出すと出が悪い。いくら回しても出が悪いのでよく見てみると、細い水道の蛇口には何か白いボールが付いていた。
「その謎の蛇口は今どきみかけないですよね。水があまり出過ぎないようにして、節水するためのものなんですって」
炊飯器にセットすると、次は皮を切り取られた里芋を渡された。簡単に洗い、ハルさんに渡す。
「おばあちゃん、里芋好きよね」
「体に良いし、おいしいからね。いっぱい食べなさいよ」
「でも下処理が面倒じゃない?」
「全然そんなことないわよ」
悠奈さんは時々こうしてハルさんの家で一緒に食事を作っているようだった。僕は悠奈さんに小声で聞いた。
「あのう、ハルさんは里奈さんのことご存じで?」
彼女は頷きながら「知っています。初めはここに来ていないかと思いましたし、もし戻ってくるならここの可能性もありますし。でも小説のノートのことは伝えていなくて」と教えてくれた。
そしてハルさんにも、僕が今回の件を知っていて手伝ってくれていると説明してくれた。ハルさんは改まって丁寧に僕にお辞儀をしてくださった。
そして里芋の入った雪平鍋を木のしゃもじでかき回しつつ、
「これだけ食べてくれる人がいるなら、ごちそうもだそうかね」
と言い、シンクの下から缶詰を取り出した。
缶詰がなかなか開かずに格闘しているのに気づき、僕は手伝おうとしてそれを受け取るとスパムの缶詰だった。悠奈さんが「ほらね」とウインクした。
悠奈さん、ハルさんと一緒に台所に立つのは楽しかった。三人で段々と連携が取れるようになるとうれしかったし、上の棚にある鍋や大皿を取り出す時は、背の高い僕が重宝がられた。ついでに何ヶ月も後回しになっていた電球の交換もした。
「踏み台が見つからないのよ」
家全体の天井が低いので、そのまま電球に手が届いた。
新しい灯り、普段は使わない食器、沢山のおかずの山。そしてお焦げのついたご飯。全てが何気ないことだけれど贅沢に感じられた。
それは戦災資料センターで見た灯火管制の再現展示と全てが真反対だったからだ。灯火管制の電球は薄暗く、小さな机には少しのおかずと、お焦げの付くことのない水っぽい雑炊だけがあった。
夕飯を食べながら色々と話をした。まずは普段の会話でハルさんと悠奈さんがデイサービスのことを話していた。
「・・・でもいつまでもこうしてはいられないからねえ。悠奈ちゃんは知ってるけれど、ここも再開発されるんですよ。だからこの土地は私の世代で終わりです。土地は売る予定です。それで私も老人ホームに入ろうと考えていまして」
ハルさんは室内を見回す。それはここの賑やかだった頃を目に浮かべているらしかった。
「コンビニは近いし、駅もバスもあるし、都会の生活は便利です。平屋だから出入りも簡単ですし。でもまあ、年寄りの独り暮らしは大変なところもあって。さっきのように電球一つ換えられないと、不便でして」
「おばあちゃん、それは言ってくれれば私だってやるよ」
「いやいや、そうやって迷惑かけられないよ」
「迷惑じゃないってば」
「私には身内はもう悠奈ちゃんと里奈ちゃんだけでして。やはり迷惑はかけられません。まだ足腰はどうにかもっていますが、一つ転ぶだけでも寝たきりになるかも知れません。それを考えると、ホームに入る方が気楽になってきました」
「私と妹でここを建て直して、一緒に住むことだってできるはずだよ」
「いやいや、そんなことは無理。もう今はここも地価が上がりすぎて、相続してもこの土地の広さじゃいろいろな税金で身が持たないよ」
どれだけ再開発しても飽き足りない東京の底知れぬ欲の深さに辟易するが、でも一方でこうして現実として、まとまったお金で助かる人もいるわけで、上手く回っているのか回ってないのか。僕はふと思ったことをそのまま伝えた。
「地形は残っても上物はどんどん変わっていきます。そこの狸穴坂?などは削らない限りは残るでしょうし」
「あの坂自体は変わらないね。周りは変わっていっても昔の浮世絵とか版画を見ても、坂は坂のまま同じです」
「東京は坂や暗渠が多くて、町自体が巨大なタイムマシンのようです」
「ええ、そうかもしれません。人や人工の物は老いていきますが」
そうしてしばらく沈黙があった後、ハルさんが不意に僕等の顔を見比べる。
「ところで私がうちに帰った時、あなたたち泣いてたけど、あれはどうしたの?」
僕等はいくつかハルさんに確認したいことがあった。もちろん小説の中に登場する夏美の祖母の話とどのぐらい近いかも聞きたかった。でも今はまず物置について聞かなければいけなかった。悠奈さんが切り出す。
「実は里奈から物置の鍵を預かって、さっき開けて確認したの」
「ああ、そういえば鍵が無いと思ってたけど、里奈ちゃんが持っていたのね」
このまま鍵が見つからなかったら倉庫は開かないままだったろうから、里奈さんも相当なことを思い切ってやるものだ。
「そうみたい。それで、開けたら封筒があって、里奈の日記があって。それで、それを読みながら泣いていたのだけれど・・・」
「倉庫に?あれ、里奈ちゃんいつの間に来たのかしら」
「ハルさんにお聞きしたいのですが、いつ頃鍵が無いと気づかれました?」
「そうですね・・・」しばらくハルさんは記憶を辿り寄せ、思い出そうと試みたが、一ヶ月か二ヶ月か、随分前だという。
いつ里奈さんが手記を置いていったか推定するのは難しいため、まずは里奈さんが残した小説のノートと手記を渡した。恋愛小説の原稿用紙は見せるべきか迷ったため、必要なら渡すことにした。
里奈さんの手記には、具体的な行方は書かれていなかった。でも何が起きたかは徐々に想像出来てきた。あと一押しの部分をハルさんから得られればと、僕は悠奈さんと共に、ハルさんの様子を伺っていた。




