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10 浅草・梅屋敷 (3)


 悠奈さんが思わず「こちらは初めてなのですが」と言った後で「もしかしてそれは、私の妹かもしれません」と聞いてみた。


「それはそれは、とてもよく似ていらっしゃる」とおばあさんは答えた。


「どんな様子だったが覚えてらっしゃいますか?」と僕も確認した。


「ええとね、覚えていますよ。それはあの、いつもテレビで見る女優さんですから、思わず声をかけてしまって」


 とおばあさんは照れながら話す。


「一人でお見えになられていました。お嬢さんと同じアイス最中を頼まれていました。よく覚えています。実物の方がテレビよりずっとお綺麗でしたから、印象的で。ええと、あとご注文は白シロップのかき氷でしたっけ?」


 そう言いながらおばあさんは手元のメモ用紙に、それは新聞に折り込みの広告を小さく切り取って束ねたものだが、注文を書き込んでいた。


「それに、若い方にしては珍しく、戦争の資料を広げて何かされていましたからねぇ。あれはなんでしたか、東京の空襲と広島の原爆と、あと満州ね。私は満州からの引き揚げ組ですから、それで特に印象的でね」


 そう言ってお婆さんは厨房へ注文を伝えに戻っていった。僕は新しい情報を得て興奮した。


「原爆と満州。それは、里奈さんの小説には出てきていない話です。これは手がかりになるかもしれません」


 悠奈さんは夏美がやったように、テーブルの枠を撫でながら庭園に目を向けた。


「本当にここに里奈が来たのですね。覚えている方も居る、それがこんなに心強いなんて思わなかった」


「悠奈さん・・・」


「でも、祖母は東京生まれ、東京育ちです。祖父は東京の西の郊外ですから、原爆とはまったく縁が無いはずですが」


「祖父が一時期満州に行かれていた、ということは?」


「それは無いと思います。それは言っていなかったです。生まれも育ちも同じ場所だったはずです」


 せっかく捕まえた手がかりだったが喜んだのも束の間で、そこから何かを紡ぎ出すことが出来なかった。テーブルに運ばれた最中とかき氷を食べながら考えたが、何も浮かばなかった。


「私、こうして東京大空襲のことを知ったのは祖母がいたからです。でも広島や長崎の原爆のことは分からないです」


「僕は元々広島に住んでいたので、むしろ東京大空襲のことは知りませんでした。学校の授業では平和学習といって頻繁に広島の原爆について学びます。高校生の頃に東京に引っ越して驚いたのは、学校でそういった平和教育として原爆を取り上げ無いことでした。


それは本当に驚きました。あれほど広島では原爆の授業があったものですから、同じ事を東京でもやっていると思っていた。ところが全然です。あまりに不勉強なのではじめの頃は憤りを覚えました」


「ああ、そうなのですね。こちらは多少空襲について授業で取り上げますが。あとは関東大震災。でも、自分達のこと、よくわかってないですね」


「広島の人はもっと原爆の事実を知って欲しいと願うものの、同じ日本でも場所が変われば全然知られていないのだと驚きました。でも今は、それはお互い様だと認識しています」


「どういうことですか?」


「だって、それだけ東京の人の原爆への不勉強さに不満があっても、広島で何を学んだかというと、むしろ原爆についての詳細しか学んでいなかった。東京大空襲のことなんてさっぱり知りませんでした。


それどころか、長崎の原爆も一応学びますが、地元の出来事では無いからあくまで予備的な学びです。原爆の惨事に予備も何もありません。これでは他の地域の人に何も言えないです。これでは戦争はいつまで経っても他人事ですよ。


それはそうですよ。他人事なんですから」


 僕はこうして考えをまとめながら、またしても僕ではどうにも出来ない大きな壁を掘り出していると分かっていた。それでも言わずにいられなかった。それは自分への戒めだった。


「里奈さんの導きでこうして下町を巡って改めて思いました。戦争体験者にインタビューしたはずなのに、これだけ全くの不勉強だったとは」


「空襲の被害は全国各地でありました。それぞれ自分の住む地域の事情を知っていても、それ以外の地域で発生したことまでは知らない」


「そういう不完全さは、確かにそれは人らしさですよ。時間的に全てを学ぶ訳にはいかない。全てを把握できない。そして忘れていく。それは人間らしさのように僕には思えます。でもそれは勝手な正義です」


「勝手な正義?」


「だってそうでしょう。自分達が一番の被害者だと学ぶ。他の地域のことは知らない。他の地域の人達が自分達の悲劇を知らないと非難する。でも自分だって他の地域のことは知らないのに。無知を非難する正義を振りかざしているのですから」


「学ぶには限界があるから仕方ないのではないでしょうか。それだって何も知らないより随分マシですよ。東京ではこの土地の被害すら知らない人も多くいますから」


 池の水は黒く、鯉が不意に跳ねた。それがいつだったか、里奈さんに語った本の感想にそっくりだった。全ての生命が潰えた遥か未来に、漆黒の海に跳ねる謎の生き物。諸行無常と宇宙の営みと、逆らえない運命。


「里奈さんはどうやって原爆を話に組み込もうとしていたのか・・・」


 そう僕は声に出しながら考える。里奈さんの気持ちになり、何か感じる所は無いか。自分が書くならどうするか。


 悠奈さんが小説のノートをめくりながら、ぼそっと呟いた。


「私気になるところがあるのですが。この『土地の記憶や人々の記憶は気づかない形で残っていることがある。どんな恐ろしい記憶も、さりげない日常の中に密かに入り込み』という部分だけ段落が分けてあるじゃないですか。この分け方は必要ですか?」


 僕は彼女が示す箇所をのぞき込む。確かにここだけの段落になっている。


「なんとなく突然ですね。これは・・・もしかすると物語の一部ではなく、覚え書きではないでしょうか?」


 そう考えながら前後を読み比べると、不自然な段落が自然に見えてくる。


「どんな恐ろしい記憶、これが何を意味しているのか・・・」


 店内に何かヒントが無いか改めて見回す。店内は空調の代わりに天井に架かった扇風機があり、豪勢に音を立てながら店内の空気を掻き回している。


 ぶっきらぼうに大きく数字の書かれた月めくりカレンダーをみながら、今日は八月の中旬、お盆の時期だと気づいた。


「お盆ですね」


「お盆ですよね。私、毎年お盆の時期がいまいちカレンダーから読めなくて。八月の何週目、何日から何日って決まっていれば分かりやすいのに。地域によっても違いがあるから仕方ないのでしょうけれど」


「毎年時期が近づいてから気づきますね」


「東京生まれは実家に帰る、という故郷がないのでお盆が来てもさらに特に何にも無いというか。観光の人が増えても、それは観光エリアだけですから。それ以外の地域はむしろ人が減りますね。あ、それは地方から出てきている人が多いからか」


 と悠奈さんが自分で納得してうんうんとうなずく。


「お盆に実家に帰られないのですか?」


「帰るなら広島に帰るのですが、混みますからどうも避けてしまいます」


 僕はそう言いながら、お盆の様子を目に浮かべた。


「お盆は、お寺が賑やかですよ」


「それはどういった?」


 悠奈さんが小首を傾げる。


「東京だと木の札がお墓にありますよね。広島のお盆は灯籠といって、色とりどりの色紙をつけた四角錐の漏斗の様なものを立てます。それが沢山並びますから、とても華やかなのです」


「へぇー、それは知りませんでした」


「しかも紙には泊が散っているものもあり、子供の頃はそれを持たされて墓まで歩いて行く。歩きながら色紙を見て、きれいだなあと。時々白い紙だけの灯籠があり、子供にはそれが当たりに見えるのですが、それは新盆の意味でして。今考えるとなかなか不謹慎でした」


「よく覚えていますね、その頃のこと。可愛い子供だ」


 悠奈さんは想像しようとする。


「確かによく覚えています。あと子供の頃に不思議に思っていたのが、あ!」


 僕が不意に声を上げたので、悠奈さんが「どうされました?」と心配する。


 そう、僕はすっかり忘れていた記憶を思い出した。悠奈さんが手にしているノートの一節を改めて見返す。


「これは僕にとっての『どんな恐ろしい記憶も、さりげない日常の中に密かに入り込み』です。広島の原爆の爆心地そばに寺町という、文字通り寺の集まった地区があります。僕のところの墓もそこにありまして。


それで子供の頃、墓石に刻まれた故人の没年を見て回りながら不思議だなと思ったのです。どの墓にも必ず昭和二十年八月六日で人が亡くなっている。どの墓を見て回っても、大抵必ずそうなのです」


「それは・・・原爆の日?」


「そうです。どの寺もどの墓も、誰も気づかないのか、でも子供の僕は気づいた。誰もが八月六日なのです。この町に一体何があったのかと恐ろしくなった。この日に何かとんでもないことがあったのだと。


それからは、寺に設置してある井戸の古いポンプがなんだか怖くなった。古い手汲みのポンプで、かなり昔から在るそうで、何か僕の中で過去と結びついて怖かった」


「そういう話は今まで聞いたことが無いです。誰もが知っているはずなのに気にかけないから気づかない。町に記録され、将来誰かが気づくかもしれない。その裏に隠されている恐ろしい記憶に」


「僕はあの日体験したのです。周り全てが昭和二十年八月六日に埋め尽くされて、静かにうごめいているのですから。今思えば、あれが僕にとっての戦争の原体験だったかもしれません」


「戦争の原体験・・・」


 悠奈さんは下唇に人差し指を押し当てながら天井を見上げて一考し、こう切り出した。


「今ちょうどお盆ですよね。行ってみませんか、広島?」


「え、これからですか?」


「これから」


「いやあ、さすがにもう遅いですよ」


 店内の時計を見ると午後四時を過ぎていた。


「これから出るとすっかり夜です。新幹線で行くなら昼前に出てようやく夕方前に着くぐらいですから、今日は難しいです」


「では明日は?」


「・・・明日ですか?まあ明日なら大丈夫、ですかね」


「であれば、品川から行きますか」


「・・・ここからだと品川が近いですね」


「であれば、ついでに里奈の部屋に行きますか?」


「え?どうしてそうなります?」


「里奈の借りている部屋が高輪にあるので、ここからなら電車一本ですし、明日もそこから始められます。そろそろ空気を入れ換えに行かないといけないし、あそこに泊まってしまえば全てがちょうど良いなと」


 姉だから気軽にそう言うのかもしれないが、僕には全く心の準備が出来ていない。あの里奈さんの部屋?


「いや、それは、まずいですよ」


「まずくないですよ。姉が許可しているのですから」


 その許可にどのぐらいの正当性があるのか。一方確かに合理性もある。ええい、ままよ、と悠奈さんの提案に乗った。

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