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10 浅草・梅屋敷 (2)


「もしこの場所に私たちが来ることを狙っていて、この広告がまだあると見込んでいたなら、なんだか出来過ぎているようですが、つまり平和という事を私たちに伝えたかったのでしょうか。


でも里奈はこの場所でこの広告が見られることを知っていたのでしょうか。小説を書いたのは数ヶ月前かも知れませんし。たまたまの一致でしょうか」


「彼女がお婆様の話を聞き、特に戦争と平和について考える時間が増えていたのは小説からも分かります。でもわざわざこの場所で、平和についてその言葉だけを伝えたかった、とは考えにくいと思いますが」


 僕も頭をフル回転させて、これが単なる偶然の一致か、はたまた里奈さんの狙ったものか、もしそうなら何を導き出すべきか考えた。


 そうして五、六分沈黙していると、ビルボードの下に足場があることに気づいた。そして二人の作業員が出てきて、ビルボードの撤去を始めた。


 実際には取り除くのではなく新しい広告で張り替える。巨大なビルボードは複数枚の印刷を並べて貼っているから、徐々に一枚ずつ上書きされていく。


 僕等は為す術なく、消えゆく里奈さんを見つめていた。昨日のポスターもそうだが、こうして少しずつ巷に残る里奈さんの記憶は消えて、上書きされていく。


 それは町に残る戦争当時の記憶や史跡が徐々に消えていくのに似ている。そうして残っていた遺恨も消し去ろうとしているのか。それは忘れてはいけない記憶だったはずだ。


 僕は里奈さんの姿が張り替えられたとき、どうにも出来ない自分に苛立った。


 結局いつだって何だって、どうにかしないといけないと思うだけで実行する術がない。自分がその程度の存在であることをまざまざと思い知らされたのだから。


 たったこれだけの広告ですら、僕は守ることが出来ないのだから。


 悠奈さんも僕同様に上書きされる広告を見つめていた。そして諦めたのか、ビルボードに背を向けて手すりに寄りかかった。


「平和ですよね。うん、至って平和」


 静寂のままの屋上でそう言い聞かせながらも、彼女の目は潤んでいた。


 刻一刻と里奈さんが僕等から遠くへ、二度と戻って来られない所まで離れていくような気がしたため、僕は焦っていた。


「そういえば妹は、大学の卒論で海外の演劇を取り上げていました」


 悠奈さんの声は少し震えていた。


「それで今思い出したのですが、彼女、出来れば卒論では英語力を生かして、アメリカから見た戦争を調べたかったと言っていました。それは祖母に対する、何かしら折り合いをつけてもらうための力添えとして考えていたのかもしれません。


とはいえ実際はそういう重い話を取り上げて欲しくないと所属事務所に言われたとかで、諦めていました。それはそうですよね、卒論は一般にも公開するわけで、彼女のイメージが損なわれる」


 悠奈さんは話しながら、頬に涙を伝わせながら僕に訴えた。


「今考えてみれば悔しいですよ。どうしてそうまでして目を背け続けるのでしょうか。この社会や日本人は。自分に素直になって、知りたいことを知り、考えたいことを考え、伝えたいことを伝えれば良い。あるがままに生きれば良い。なのにそれができない。


私なんてアーティストと言ってしまえばむしろそういう、既成概念をぶち壊す事を求められるのに、里奈の場合は出来なかった。


私たちは与えられた枠の中でしか自由に出来ない、金魚鉢の中の金魚ですか?与えられた狭い世界の方が居心地が良いと自分達に言い聞かせているのですか?」


「悠奈さん・・・」


「悔しいですよ。悔しくないですか!」


 悠奈さんは何度もビルボードを指さし、手すりを激しく叩いた。


 金属で出来た手すりは揺れてゴンゴンと鳴り響き、静寂の屋上で大きく鳴り響いたが、それだけであった。


 地上に行き交う人達にはひと鳴りにも聞こえはしなかった。


 僕等は暑さから避難して建物に入り、屋上へと続いている階段に腰掛けて気持ちが落ち着くのを待った。僕は悠奈さんの真っ赤になった拳を手で包み擦った。


「次にやるべきことは、あの甘味処です。あそこも当時のまま残っているなら、昨日のようになにか僕等に気づきを与えてくれるかもしれません」


 悠奈さんの肩に手をかけ、彼女を見据えた。


「僕としては、具体性は全くないのに、里奈さんに近づいている気がしています。だから、行ってみましょう」


 彼女はそうですよねと言い、立ち上がった。ほど近い浅草駅から一本で梅屋敷まで行ける。僕等の気持ちが落ち着いてきた頃には梅屋敷駅を下車し、小説通り改札を出て右手方向に向かって進んでいた。


 商店街の街灯には商店街のトレードマークと思わしきキャラクタの印刷が載った旗が掲げられており、揺らめいてきた。随分と歩いて行くと徐々に道が狭くなり、やっと軽自動車が通れるぐらいの幅になると例の甘味処があった。


 店前に立つとなるほど、かなり年季が入っており、確かに昭和初期からあると信じさせてくれる。


「東海道沿いには百年、二百年と続く老舗もありますから、この辺りも焼けずに残ったのか、代々引き継いでいるのでしょう。お店に関してはそういった老舗でも、大半は戦争のあった時期の建物は残っておらず建て直しですが。石碑であれば明治や江戸時代のものもあるようです」


 と僕は昨夜調べただけの、付け焼き刃の知識を披露した。悠奈さんは一旦気持ちの整理を付けたようで、


「東京は新しい町ではなく、数百年前からの地続きです。東海道という道自体が江戸時代からありますし。そうやって歴史が所々で顔を覗かせることがありますよね」


 と朗らかに答えてくれた。


 ガラガラと古いガラスと枠で出来た戸を引いてみると、そこにはタイムスリップしたかのような空間が開けた。全てが昭和初期の感じだ。


 床も天井も壁も、壁に掛かるメニューも時計もあらゆるものが、時間を止めたようにそこに存在していた。全てが夏美と彰が体験した通りで、僕と悠奈さんはここに里奈さんが来たことを確信した。


 日本庭園の見える窓際の席に座ると、おばあさんが細い飲み口の、小さなガラスのコップに水を入れて運んできて下さった。コップの水は冷えておらず、常温のものだった。


 アイス最中とかき氷を注文した。注文する際におばあさんが悠奈さんに目を留めて、


「またいらしてくださったんですね」


 と言うものだから僕等は驚いた。


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