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夏美と彰の話3 (1)


 どこまでも快晴だった。


 松屋浅草の屋上は他に誰も人がおらず、上がってくれば直ぐにお互いに気づきそうだった。


 この場所で本居さんと待ち合わせをした。本居さんもこの場所はご存じだった。


 東京大空襲の際に残された写真は数少ない。その中でも有名なのがこの松屋浅草の屋上からの写真だ。


 一面焼け野原の中で、この建物は破壊されずに耐えた。今も歴史を伝える貴重な建物だ。


 祖母は上野駅に行くのを嫌がった。


 戦後は孤児が溢れており、祖母はそこにいなかったと断じるが、当時の様子には詳しかった。


 実はどこかの時期にいて、どうしても思い出すことを拒んでいるのかもしれない。


 ただこの松屋浅草や隣の神谷バーに訪れることはあった。


 子供時分にかろうじて記憶があるのと、何よりもあの戦火を生き抜いて残る数少ない建物だから、絶望の中にどこか希望や可能性、そして同胞の意があるみたいだった。


「僕の祖母や祖父も同じです。地方の親戚に身を寄せたものの、よそ者扱いされてかなり苦労したようで。夜逃げのように逃げ出したそうです。なんとか辿り着いた上野駅で、他の孤児と共にその日その日を生き抜いたと。


だからとにかく上野駅には近寄らなかったです。行くと涙が出て止まらないと言っていました」


 そう本居さんが教えてくれた。


「どこにも似たような話があったそうですが。もしかするとどこかの時点で、朝田さんのお婆様も似た経験をされたのかもしれません」


 静かな屋上に二人の声が響く。


 戦時中からこれほど高い建物があったのが不思議に思えた。下を行き交う車や観光客の喧噪も、この高さではかなり和らぐ。


 私と本居さんは広い屋上を当てもなく端から端へ緩やかに進みながら話をした。


「・・・私の祖母の話では、空襲の夜のことは特にはっきりと覚えていて、それだけは記憶が変わらずあると言っていました。


いきなり火の手が上がって、その頃は森下に住んでいたそうですが、妹の手を引き、弟を背負って近所にいたものの、防空壕は既に沢山の人で入れず、


仕方なくその場から逃げ出したそうです。祖母の父も母も不在だったため、周りの大人たちの行方に合わせて新大橋に向けて逃げたと。


行く先々で叫び上がる人々、そして自分が逃げることに精一杯で激しくぶつかってくる大人がいた。その度に手が離れそうになり、必死で手を繋ぎあったそうです。一度離せば二度と会えなくなると。


初めは東に向けて行こうとしたものの、既に大きく火の手が上がっておりそちらには逃げられなかったそうで。


「新大橋から隅田川を渡り、振り返ってみると町全体が燃え上がり、煙が低空の雲のように固まっていたそうです。


一時間で町の様子が全て変わり、あらゆるものがなくなってしまった。川の上流側を見ると、他の橋から叫び声が聞こえてきて、川には徐々に遺体が流れてくる。そんな光景だったそうです。


日本橋方面まで抜けていくと、次第に火の手は無くなり、本当に運が良かったのだと言っていました。他では雨のように降り続く焼夷弾から抜け出せなくて、手間取っているうちに命を亡くした方も大勢いたわけですし。


「歩くのはなんてことのない距離なのです。平時であれば。でもこの二十分、三十分歩く間では困難だった。運良く火の手のない場所に出られたら生き残れた。


火の中に辿り着いてしまえばそれまでだった。祖母達は三井や日本銀行、三越の辺りで一度立ち止まり、一晩過ごしたそうです。


同じぐらいの歳の子供が独りぽつんと呆けたままだったのが目に焼き付いているらしく、あのあとあの子がどうなったか、未だに心が苦しくなると言っていました。


「次の日、一度森下に戻ってみたものの、自分の家がどこか分からなくなっており、おそらくここだろうという場所で半日待ってみたものの、ついに両親に会うことはできなかったのです。


そもそも人影が少なく、焼け跡を見に来る人自体が僅かだったのは、ほとんどの人が亡くなっていたからです。いや、皆そこにいました。


黒焦げの死体となって周囲に・・・。子供心に、この人達は何か悪いことをしたのかと、待ちぼうけの中ぼうっと考えていたそうです。


「親戚が大森蒲田方面に在ったことを思い出し、幼子三人で向かった。さすがに小さな体では一日で着くことが出来なかったため、途中で野宿をして向かったそうです。


親戚を訪ねて向かう前、焼夷弾の熱でこんがり焼けたサツマイモを近所でもらったそうです。それを食べて、歩いて・・・。なんだか滑稽な話に聞こえますが、現実が常識を越えると、にわかにそういう現実を伴いますね。


「大森に辿り着いても親戚の家が分かりません。見知らぬ人々に尋ねてみるものの、皆せわしくて構ってもらえず、なかなか見つけることが出来ずさらに数日。


最後には蒲田でようやく親戚の家をみつけます。当時はどこも食うに困り、あまりその家ではいい顔はされず、地方にいる遠縁の所に送られたようです。


その後また東京に戻ってきましたが、私の祖母もやはりその辺りの事情はどうしても話したがらず・・・。


「ただ唯一祖母の楽しい思い出としてあるのは、その蒲田の親戚の家のお兄さんの事でした。そのお兄さんだけはとても優しく接してくれたそうで、一度だけ梅屋敷という所にある甘味処へ連れ出してくれたそうです。


どういった道順でそこまで行ったかは覚えていないものの、そのお店は小さな池の日本庭園があり、素朴な味の最中やかき氷を出してくれたそうです。


その時の甘さは今の時代からしたら薄い甘さだったかもしれませんが、それが忘れられないと言っていました。実は今もその甘味処があるみたいです」


 こういった話を本居さんとしながら私たちは赤い電車に揺られ、梅屋敷の駅に到着した。



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