8 森下・銭湯 (1)
「このあと夏美と彰は連絡先を交換して一度別れます。次の章では下町や戦争の話ではなく、夏美の芸能界の話になります。六本木で鉄板焼きを食べています。具体的な店内の描写があって、高級ホテルで鉄板焼きなので場所は特定できます」
「それ本当に行きますか?」
悠奈さんは普段そういった所に出向くことがないのか、少し不安そうにしていた。
「もしよろしければ。今から電話で予約しますが」
「え、今から六本木に行きます?どうしよう・・・」
悠奈さんは、今日は歩くための格好で来ているため、格式のあるレストランにそのまま入店出来るのかと迷っているようだった。僕は一刻も早く、里奈さんの残した謎解きに取り組みたい気持ちになっていた。
「ご都合悪いですか?」
「いえ、その、ちょっと疲れたというか」
悠奈さんはしきりに体のべとつきを気にしていて、このままそういう所へ行くのは、と困惑していた。
東京は日本有数の銭湯の町だ。歩けばすぐに銭湯が見つかる。この森下でも調べれば数件の銭湯が見つかった。六本木までは電車一本ですぐに着くので、その前に銭湯に寄って今日の疲れを洗い流すこととなった。
銭湯に向かう道すがら、僕は早速レストランに予約の電話をした。平日というのが幸いしてか高級店だからか、それほど混んでいないようですんなり予約を取れた。
「私銭湯に来たのってかなり久しぶりです。両親はまったく行かなかったので、子供の頃に祖母に連れられて行ったきりです。だから、もう二十年ぐらいぶりじゃないでしょうか」
少し不安そうであったが、同時にちょっとしたアトラクション気分で悠奈さんは楽しそうでもあった。
町並みの隙間から突き出る長細い煙突を頼りに銭湯に辿り着いた。外観は特別なものではなく、屋根の上の高さに掲げられている看板にはごちゃりと「コインランドリー」「天然温泉」「サウナ」と書かれていた。
僕は日常的に銭湯を利用していたので、勝手について悠奈さんに説明した。
「下駄箱で好きな番号の所に靴を入れます」
「どれにしよう」
ほとんどの下駄箱は空だったが、開いているとむしろ選ぶのに迷う。彼女は並んだ番号に目移りしていた。
「こういうのって皆さんこだわりの番号があったりするんですか?」
「僕はいつも二十一番に入れます」
「それはなぜ?」
「小六の頃の出席番号」
未だに出席番号を覚えているんですか、と悠奈さんは一日張り詰めた思いで過ごしていた反動からか、笑顔になってくれた。僕はありがたかった。あまり強い緊張感が続くと気づくはずのことを見落としかねない。どんな時も多少は力が抜けていた方が良い。
「次に番頭で料金を払います」
「昔テレビで、男風呂と女風呂の間に番頭があるのを見ましたけど、もうここで別れます?」
「昔の作りだとそうですね。今も時々そういった作りのところもありますが、大抵は下駄箱の先がロビーになっていて、料金を番頭、いや、カウンターと言った方がいいですね、そこで払います。最近は券売機で払う所も増えています。それから男女別に別れた浴場に行きます。ほとんどスーパー銭湯と同じですよ」
ロビーに入ると、左手前にカウンターがあり、おばあさんが座っていた。奥には猫も鎮座していた。
僕が二人分の支払いを済ませると、二人分の入浴セットも購入した。悠奈さんはしきりに恐縮していたが、僕としては銭湯好きが増えることがうれしかった。それぞれ男湯と女湯に別れる前に、待ち合わせの時間を決める。
「私、髪も洗いたいので、ちょっと時間かかりますけど構いませんか?髪が長いので大変なんですよ」
「では一時間後ぐらいにこのロビーで待ち合わせで、大丈夫ですか?」
「それで大丈夫です。ありがとうございます」
悠奈さんが女風呂ののれんを押しのけながら「・・・石けんって、あれですか。上から投げてもらえるんですか?」と聞く。
「え、それは昔どこかで聞いたようなシチュエーションですが、今時それはないですよ」
悠奈さんは急に顔を赤くしながらうつむいた。
「ここは洗い場にボディソープやシャンプーがあるそうなので、そちらを使ってください。あと、この先にまたロッカーがあるので、先程みたいに好きな所を選んで服と下駄箱の鍵を入れてください。ロッカーの鍵は防水なので、洗い場に持って入って大丈夫です」
「案外覚えること多くて・・・」
と彼女はうつむいたまま答える。
「慣れないと、手順が多いですよね」
僕は申し訳ない気がしたし、これで銭湯を嫌いになられると困ると思い、
「すみません、入ればすぐにわかりますので大丈夫ですよ。それに僕だって本当は壁越しに『そろそろ上がりましょうー』と声をかけるのに少し憧れているというか・・・」
とフォローにもならないフォローをした。ますます悠奈さんは下を向きながらのれんをくぐった。
僕はコーヒーのように黒く、そして少し埃っぽい古い樹の匂いのする黒湯に沈み込みながら、今日これまでの事をまとめようとした。
里奈さんにつながる、居場所をほのめかすものがなかったか丹念に思い返した。何か近いところに辿り着いている手応えはあるが、全てがふわふわとふらついていて実像を描かない。小説の中の空想とも、現実世界ともつかない狭間を彷徨いている感触のままだ。
常識的に考えて里奈さんが姿を消したなら、それはこの日本のどこかに黙って出かけて連絡が無い、ということだ。
だがそれを実行するのは現実的になかなか難しい。特に彼女ほどの有名人であれば。そうなるとどうしても事件の方に頭が行ってしまう。この点については事件性はないという、警察の見解を信じたい。そのどちらにも当てはまらないで消える方法なんてあるのだろうか。
じっと観察する黒湯は深々としており、水面に置いた指先を沈めるとすぐに暗闇に隠れてしまう。
一日歩いたこの町も、表面から少し沈めば漆黒の中で何かがうごめいている。それは震災や戦争の歴史だ。
里奈さんに迫ろうとするとすぐに闇に消え失せてしまう感覚はそれに似ていた。近づくと闇に消える。ただ、その中でも手を動かすと感触はあるのだった。
下町の湯の温度は少し高めで、考えがまとまる前に音を上げて早々に湯から上がった。
僕がロビーに出てきても悠奈さんの姿はなかった。随分と年季が入って柔らかくなったソファに席を取り、流れているテレビを眺めながら悠奈さんを待った。




