6 本所・両国 (2)
もうすぐ電信社の慰霊碑に辿り着きそうだった。街角の地図の掲示板にもその場所はしっかりと記してあった。
周りの町工場では壁を伝う無数の配管にハンガーで吊してある作業着が時折風になびいた。毎日がこの調子で静かに一日が過ぎていくのだろう。
「こうして歩いてみると本所は、今ではそこまで広い地域ではありませんね」
悠奈さんは先程の路地裏を見つけてから何か手応えがあったのか、軽快に話しかけてくる。
「そうですね。あの頃の面影が町から消えていますが、あの路地裏でなんとなくでも当時の空気を想像できてよかったです。僕等の掴んだ感覚は大きくは間違ってはないでしょう」
南北に通じる大通りに出ると、車通りが急に激しくなった。電信社のビルの入り口脇に慰霊碑を見つけた。小さな物だが、当時の記憶を今につないでいる貴重なものだ。
一段上がって慰霊碑の前に立つ。慰霊碑が建てられた経緯と殉職者の名前を見つめる。悠奈さんと僕は手を合わせる。悠奈さんは僕よりも長くそうしていた。目を伏せて手を合わせている悠奈さんが静かに顔を上げて、
「なんだか、泣けてきますね」と言った。
「この殉職者の中に、祖母の知り合いがいたりするかもしれませんね。そう思うと」
悠奈さんは殉職者名の彫られた石版の、上部分を人差し指で端から端までなぞった。一人ずつの命をたぐり寄せるように。彼女の指先は見る間に黒くなった。その指先を眺めながら何かを考えていた。
僕はその様子を見ながら漠然と心まで塗りつぶされた。里奈さんもここを訪れたのだろうかと考えてみた。考えて、彼女のことを想わないと、彼女もまたこの町の戦争の記憶と同じで、気づけば足音も立てずに消えていく気がした。
町にある彼女のポスターはいつか剥がされて消えていく。世間から忘れられていく。忘れないためにどうするべきか。いや、忘れていくべきなのか。忘れることが人らしさなのだろうか。
僕はふいに悠奈さんの手を取り、指先を拭った。悠奈さんは驚いた様子だったが、二人の指先が薄黒くなると、二人とも妙に納得出来た。
次にどこに行くべきかと考えながら道を南に下っていき、蔵前橋通りに差し掛かると、西の方面に大きな建物が見えた。
近づいていくとそれは病院らしかった。その手前には別の建物があった。窓の数からすると二階建てだが、それにしてはずいぶんとがっしりとした作りの建物で、壁面に「東京都復興記念館」と書かれていた。
横網町公園というところの敷地内で、正面から建物を見ると思ったよりもこぢんまりしていた。
説明書きによると、ここは震災と戦災の両方から東京の記憶を記録している場所で、元々この公園は多大な被害を出した被服廠跡地だそうだ。入り口には災害時の集合場所と書かれた看板があった。
「僕は戦争体験者に取材するとき、何度かここの名称を聞きました。広いから沢山の人が避難のために集まったのですが、風通しが良い分炎の勢いがすさまじく、逃げられず沢山の方が亡くなったと。元々関東大震災の時にその被害が出たため、人によっては昔の事を覚えていて、空襲の避難時には被服廠に近寄らなかったそうです」
僕は取材で復興記念館の存在を把握していた。ただ場所は知らず訪れてもいなかったため、今更ながら所在が分かり、無知に恥ずかしさを覚えた。
「私、修学旅行で広島の原爆ドームや平和公園、平和記念資料館に入ったことがありますが、東京でもこういった公園や記念館があるんですね」
「広島の平和記念資料館は大きいですし、国際的にも有名ですが、ここは・・・」
と僕は公園を見渡した。
「スカイツリー近辺といえども、さっぱり外国の方はいないですし、それに日本人も少ないです」
あまりの違いに、つまり観光地との違いや広島の平和公園との違いに驚くと共に、やるせない気分にもなった。
館内に入るとまばらな人がゆっくりと巡回していた。意外にも若いカップルも見かけた。おそらく夏美と彰、そして里奈さんも寄ったはずだ。
一階は関東大震災についてまとめられている。じっくりと展示を見つめる悠奈さんが、こちらを見てください、と僕を呼ぶ。
「昔のアメリカの新聞らしいです。震災でニューヨーク市から百五十万ドルの寄付、とあります。こうやって助けてくれた町並みを、自ら破壊したと。それってどういう気持ちだったのでしょうか」
確かに空襲する側はそのことを自認していたのか。それでもなお止められなかったのか、それとこれとは別ということなのか。
人間は矛盾した行動をとる生き物だろうけれど、博愛と暴力は同じ人から同じ人に向けて発生するのか、にわかには理解が出来ず自分の中で気持ちに折り合いが付かなくなった。
もちろん個々人で捉え方は違って、人によってはその矛盾に納得しないアメリカ人もあっただろう。国とは良心も呵責もなく、正義という危険な言葉を振り回している装置なのかもしれない。
二階は東京大空襲の展示で、僕の気持ちは更に掻き乱される。
「焼失した町並みを写真で見ると、道幅は今とほとんど変わらないみたいですね」
悠奈さんがパネルを見ながらつぶやく。沢山の人が写っている写真もある。
「・・・どれかの写真に、祖母が写っていたりするのかな」
パネルが訴える惨状は熾烈さを増す。おおよそ手で目を覆いたくなるような残酷な状況であり、白黒の写真であったことがせめてもの救いだった。
後半には当時の手紙の展示があった。どれもあまりに日常的で、戦争があったという背景事情を知らなければ、微笑ましいやりとりだった。
親子の気遣い、お菓子について、気温の寒暖、温泉や旅行、試験や勉強。話題のどれもが今と変わらない日常。この裏に戦争があった。市井の人には本来は直接関係の無い戦争。
僕等と同じ生活の裏で、今は平和が、その時は戦争があった。同じような生活の裏ににじみ寄り、気づけば生活を一変させていた。そんな『後から思えばそうだった』と気づく事。
水から湯へと煮えていくのに気づかないまま釜に入っている。現代社会はその時代とは違う、というのは思い込みで、それ自体が既に危険にはまっている証拠かもしれない。
悠奈さんが戦争の報道記事を見つめながら僕に聞く。
「戦争についての記事、ライターさんとして何か思うことはありますか?」
僕は素直に答えた。




