6 本所・両国 (1)
大通りに出てそのまま交差点を渡ると信用金庫があった。窓に貼られたポスターが通りすがりに目に入る。
ローン、年金といった見出しがある中、なんと里奈さんが写っていた。祖父母、父母、そして兄妹。その妹として里奈さんが収まっていた。ポスターには『未来のために今できること』と書かれていた。
「このポスターもそのうち新しいものにかわるのでしょうね」
僕はそんなわかりきったことを悠奈さんに確認した。
「そうでしょうね。町の至る所に妹の陰がありますね。でも本人はどこに行ったのか・・・」
また歩き出す。歩きながら悠奈さんが続ける。
「それにしても、まるで妹から問いかけられているみたいです。彼女は小説を残した。私たちにそれを辿れとは言ってはいません。でも結局はこうして辿ることになった」
彼女は僕に振り向く。
「私たちのこの行動や妹の行動は、未来のためにつながるのでしょうか。世の中の誰もが皆、今をどうにかすることだけで精一杯だというのに」
道を南下するとスカイツリーあたりの喧噪は急激に失せて、閑静な住宅街となる。悠奈さんは自分の発見を見過ごさないためにできるだけ感じたことを口に出す。
「とても静か。下町というイメージとは違って、道路の一本ずつが広いですね。これだけの幅なら、火事になっても延焼しなさそうですけど。戦争後から広げたのでしょうか?」
「確かにどうですかね。この幅でも燃え広がるぐらい火の勢いがあったのか。飛び散って燃え広がる焼夷弾ですから」
交差点に差し掛かる度、遠くに提灯が沢山並んでいるのに気づいた。町の至る所で祭りの準備をしており、なんとなく僕等はそちらに惹かれて道をジグザグしながら進んだ。
家の住所を見るとまだこのあたりは業平だった。提灯の下では葦簀に何か施して調整している姿があった。
新しいマンションに埋め尽くされたこの頑丈な町なら、もう二度とあのような惨事は起きそうもない。
二人の歩く足音だけが響き渡り、時折気持ちの良い風が通りを吹き抜けた。でもこの町には陰がある。不意にあの日を思い出させる、思い出させようとするに何かがある。
何も気にせずにいればそうも気づかないだろうが、里奈さんの小説を読んだ後では、どうしてもそういう見方が支配した。
大きな建物が見えて来てその前を通り過ぎる。たばこと塩の博物館だった。周りはすっかり店がなくなり倉庫や工場が増えてくる。南の方を見るとホテルやビル群が見えた。両国近辺は思ったより近そうだった。
「このあたりは神社が多いですね」
そう悠奈さんが感想を漏らしながら横川橋という、親水公園をまたぐ小さな橋を渡る。すると住所表記に本所という文字が現れ始める。
「ああ、祖母が住んだのはこのあたりですね」
感慨深そうに悠奈さんは立ち止まって周りを眺める。
「でもというか、やっぱりというか、さすがに当時の面影はないですね」
と少し寂しそうだった。
そこからさらに西に向かって道を進む。猛暑日のアスファルトは焼ける熱さで、
「靴の底に熱が籠もって、足が腫れそうです」
と悠奈さんが言う。僕はそれを聞いて、以前取材をした時の話を思い出した。
「あの空襲の日も地面が熱かったそうです。焼夷弾で地面が熱せられて、石畳は焼け石となって、草履や下駄ではとても歩けなかったそうです。かろうじて土の上を歩いた。または倒れた人の上を歩いた。生きるためにはそうするほかなく、申し訳なくそうしていたと。そしてすぐに何も感じなくなったそうで・・・」
「生きるためとはいえ残酷ですね。その記憶がこの町には残っている。祖母はその体験をした・・・」
悠奈さんは黒々としたアスファルトの地面に手をついてじっとしていた。
そのままでは手を火傷してしまうと、僕は心配になり止めようとしたが、声をかけられなかった。
彼女が手を赤くして引き揚げると、ふと前方のマンションの隙間に狭い路地裏を見つけた。
二人でその路地裏に入り込むと、いくつか一軒家が固まっていた。それまでの通りとは違う雰囲気だった。
マンションに反射した光で優しい明かりが満ちていた。道路の一部は土のままだった。この物寂しい袋小路を前にして、悠奈さんは体が強張り、両手を胸の前で握りしめた。
「まるで時に取り残された・・・」
そう言って悠奈さんは一歩、また一歩惹きつけられるように進む。僕はその姿を後ろから見守っていた。
周りの小綺麗なマンションとは異なり、家の塀にはいくつもの植木鉢が置かれ、地面に立った物干し竿には洗濯物が仲良く並んでそよいでいた。
「ここなのでしょうか。なぜかわかりませんが、どうしてもそうとしか考えられなくなります。すっかり忘れられたような路地裏。ここではないかもしれないですが、それでもきっと祖母はこの路地裏に似たところで、他の子供達と日がな一日遊んで過ごす姿が見える気がします。貧しくとも幸せな姿が」
悠奈さんが僕の反応を確認する。二人でうなずいた。僕にもそう思えたからだ。里奈さんもここを見つけたのだろうか。悠奈さんと僕はしばらく、埃っぽい路地裏をじっと見つめていた。
普段は自分達の両親や祖父母が幼年期に過ごした場所に訪れて、その頃を想像することはない。しかし確実にその頃はあったし、僕等にもあった。
まだどういう人生を歩むのか何も決まっていなければ、何も想像できない幼い頃の姿を思い浮かべると、どうしても心が苦しくなった。
どうして人はそのままではいられないのだろうか。戦争により大人になることを強制された子供達。どこからか子供達の声が響き、聞こえてくる気がした。




