5 曳舟・スカイツリー (2)
大通りに出ると、スカイツリーがよく見えた。あとはそのままこの道を進むだけで着きそうだ。
悠奈さんが陽差しを気にしながら、
「日が眩しいから、反対側に渡りませんか?」
と提案する。僕等は点滅する青信号を急いで渡った。大通りに並ぶビルやマンションの影に滑り込む。
「日陰だとずいぶん風が涼しいですね。今日は陽差しが痛いですから。日傘を持ってくればよかったです。慌ててすっかり忘れました」
悠奈さんは里奈さんと同じく、長く美しい髪をしていた。暑いからかアップでまとめているが、うっすらと汗がにじんでいた。
僕はというと、息をする度に体温と同じ温度の空気が入ってきて、湿度で重く苦しかった。何かを無理矢理飲み込まされているような呼吸だった。
「ところで、悠奈さんはお婆様からどういった話を聞かれていましたか?」
僕は、夏美が登場する小説に出てくる内容と概ね同じか、確認したかった。
「戦争孤児とは聞いています。本人は本当に話したがらないですけれど。でも、自分でも体の衰えを感じたようで、少しずつ話してくれました。ちょっとした脚色もありますが、夏美の話はたしかに概ね祖母の話に沿っています。祖母は本所に生まれてその後森下に住んでいたようです。夏美の話でもそこは同じですね」
「昔の本所は今の墨田区ということになりますが、たしか小説では今の本所あたり、と但し書きがされていましたね」
大通りをひたすら真っ直ぐスカイツリーに向かって進む。左側のマンションやビルのおかげで影は続くが、すっかりスカイツリーの姿は見えなくなってしまった。僕は里奈さんについても聞いてみたくなった。
「あの、里奈さんについても伺ってよろしいですか?」
「里奈ですか?なんでしょう」
「例えば・・・普段はどのように過ごされているかご存じですか?」
「里奈は仕事の時以外は割と家に籠もっているようです。一緒に暮らしているわけではないですが、そのような様子です。読書好きは割とみんなそうなのでは?」
「まあそうかもしれないです」
「でも全くの出不精というわけでもなく、カフェを巡ってみたりと、よくいる若い女の子という感じですよ。私とは三つしか違わないので、一緒にカフェを巡ることもあります」
僕はその様子を思い浮かべた。美人姉妹では流石に周りに素性がばれそうだと。それを悠奈さんが察してか「意外と誰かわからないものですよ」と言う。
「それに、去年里奈は大学を卒業して、今年は本格的に俳優業に取り組んでいます。だからこそ、自由の利きやすい今のうちに、積極的に町に出てみようと二人で決めて。里奈が有名になって、自由が利かなくなるぐらいの俳優になれば、それはそれでうれしいことです。でもそんな未来がくることを期待しつつ、今はなるべく多く出歩いておこうと」
他にも悠奈さんは里奈さんについて何か思い出そうと考え込んだ。
「彼女は時間があればふらっと知らない町を訪れては、その土地の図書館に寄っていました」
「それは面白そうな趣味ですね」
「ロケで現場に行くのも、車を出すと言われても電車とか公共交通機関を好んでいました。上手いこと時間を利用して見知らぬ町でも図書館に寄っていたみたいで。それぞれの土地にはそれぞれの特徴があるらしいです。図書館にも地域の個性が出るんだって。郷土資料だけでなく案内やイベントとか、二つと同じ所はないって。それに変な癖があって」
悠奈さんは里奈さんを想い出すのが嬉しいのか、朗らかに話を続ける。
「図書館に行くと返却された本がまとまっているところがありますよね。あれが好きなんですって。自分では絶対に手に取らない本が並んでいると、自分とは好みも考えも違う人達がいるんだって目に見えて面白いと。それでその本を手に取ってみて、何か発見することもあれば、やっぱり無理だなと戻すとか。そういう、人物を多面的に見ることが役者をやるうえで役に立つと、そう言っていました」
それは確かに面白そうだなと僕も思った。
「他にご趣味は?」
「これといっては、なんでしょうね・・・」
ちょうど渡ろうとした交差点が赤になったので、少し引き返して建物の影に収まる。通りすがりに高校生らしき二人の男子が自転車で駆け抜けながら「プール行こうぜ」と言う声が聞こえた。
「そうそう、里奈は水泳が得意ですね。昔習っていて、今でも気分転換にプールへ行っているようです。女優でもモデルみたいに、体型とか気を遣わないといけないらしいので」
信号が変わり僕と悠奈さんが渡ると、渡った先の建物の陰に小さな石碑があった。その隣にはこれまた小さな箱のような遺構があり、防火用水桶と書かれていた。
ふいに子供達の歓声が聞こえてきた。まさかここから?と思い立ち止まっていると、声は少し離れた所にある保育園からしていた。
この暑さだ、園児がプールに入って遊んでいる声なのだろう。
「なにか気づきましたか?」悠奈さんが首をかしげる。
「あ、いえ、なんだか」
と僕はそう言った。とても複雑な気持ちで、苦いものを突然奥歯に挟まれた錯覚がした。このまま押しつぶしてしまうとさらに苦みが増す。かといって取り出すことも出来ないような、そんなものを押し込まれた感触だった。
「保育園でプールでもやっているんでしょう。子供達の声が聞こえますね」
「そうですね。今日は暑いから」
と悠奈さんは保育園の方に目をやる。僕はどうしてもこの苦いものを吐き出すために、言葉を吐き出した。
「・・・この用水桶、東京大空襲の時のものです。あの日の出来事を体験者に取材したことがあります。このあたりは焼夷弾で焼かれて、とんでもない熱さだったそうで。逃げるにも熱すぎて、用水桶の水をかぶりながら逃げた方がいました。逃げるごとに用水桶の水もお湯のような熱さになり」
「・・・・・・」
悠奈さんはその情景を想像しようとしていた。
「逃げられたなら運が良いです。用水桶に入って火の手をかいくぐろうとした子供、学校のプールに飛び込んだ人々。その沢山の人が亡くなっています」
「水の中なら火の手から逃げられますよね?」
「それは、通常の火事なら可能かもしれません。その夜は焼夷弾です。普通の火事とは訳が違います。炎の地獄です。町全体が炎に包まれていました。いつまでも水面下にいられるわけなく、息を継ぐために顔を出せば熱風にやられる。吸い込んだ熱風に肺を焼かれる」
僕は熱い陽差しの照りつけるアスファルトに目を凝らした。
「今日なんかは暑くて空気が体温と同じぐらいですけど、それよりももっと熱い熱風に町が覆われていたそうです。空襲のあった三月では水はとても冷たかった。その水の中で茹で上がり、プールでは、次々に入ってくる人の山で潰されて水死したそうです」
プールの時間が終わったのか、いつの間にか子供達の歓声は聞こえなくなっていた。これからプールに涼みに行くと言う高校生達は今頃プールに着いて、すっかり涼んで楽しんでいるだろうか。
「お婆様の話と直接繋がりはしませんが、確かにここはあの頃と地つながりです。正直これが里奈さんのメッセージだとは思いませんけれど。偶然の気づきなので。でも、そうはいっても無視できない気もします」
悠奈さんは祖母もその光景を見たのかと思い至り、下唇を噛みながら、用水桶を見た。
「私たちってずいぶんと平和ですよね。祖母は戦争体験を語らないで、平和でぼけているぐらい平和ならそれでいいと。でもどこかで不安もあるのかなって、今気づきました。平和しか知らなければ自ずと平和になるのではなく、知らない危険の方がやっぱり大きいのだと。それで少しは話してくれたのかな、あの頃のこと」
しばらく歩くとスカイツリーが見えてきた。曳舟から押上の間は物静かな街だった。一変して、スカイツリーは日本各地、世界各地からの観光客でごった返していた。




