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1 女優との出会い


 それは本当にふとしたことで、全く予期していなかった。まさかあの憧れの女優と知り合うことになるとは。


 あれは憧れていたとは言えない。今思い返してみるとそうだったのだと、自分の気持ちに今更ながら気づいたのだった。


 その女優のことは前々から知っていた。いや、知らない人が居ないぐらいとても有名で、国民的女優と称されることが多かった。


 毎日のテレビのコマーシャルでは見かけない日がなく、それどころか日に何度も見かける程だ。誰もが親しみを抱いて誰にでも愛される、まさに国民的な人だった。


 その女優は読書好きで知られている。過去に様々な雑誌のインタビューでお気に入りの本について語っていた。


 僕はといえばそのことを知りながらも、どういう物が好みかも知っているにもかかわらず、実際にそのおすすめの本を手に取って読むことはなかった。


 それはある種、その女優の内面を少しずつ知ってしまうことになるかもしれないという、自分でもあきれてしまうが、一般人が気にすることもないことを気にして避けていたのかもしれない。


 彼女が身近な人であれば読んだ物を避けるかもしれないが、身近でもなんでもない、手の届かない遠くの世界の人だ。


 では僕がその女優のファンかというとそういうわけでもなかった。


 ただ、テレビで見かければなんとなく終わりまで姿を追いかけてしまうし、雑誌やウェブで見かければ一通りの内容を確認してしまう。そういう存在だった。



 その日は昨日からの雨で、いつものように近所の喫茶店まで出向いて本でも読もうかと傘を片手に、もう片方にむき出しの本を持ち出かけた。


 その日が水曜日で、喫茶店の定休日であることをすっかり忘れていた。


 それであれば少し遠出しようと、電車に乗って神保町まで足を運んだ。たまには雨の日に古書を近くに感じながら過ごすのも良い。


 湿気が本に悪そうだが、なにかあの古い本特有の匂いは、晴れよりも雨に伴って立ち上がるように感じる。


 神保町に着いたものの、特に贔屓にしている店があるわけでもなく、傘を差しながら街をぶらついた。


 ふと見つけた喫茶店は、広い間口が半地下で造られており、年季のある建物ながらモダンな調度品で飾られていた。


 僕には不釣り合いな雰囲気で、入るには勇気が要りそうな店だった。日中でも暗くなっている街の雰囲気が非日常的で、通っていく車のフォグランプに薄ら照らされた入り口を見ていると、自然と足が店内に赴いた。


 平日の朝だからか店内はがらんとして客はおらず、奥へ奥へと延びる店内を進んで行くと、右手に折れ曲がる形で店内が続いていた。


 そのまま一番奥のテーブルに座った。この街がそう言うネーミングをつけさせるのか、漱石ブレンドという味の見当もつかないホットコーヒーを注文してから、持参した本を開く。


 海外作家の小説の翻訳版だ。原文で読めればより面白いだろうが、僕の英語力では少しも歯が立たないため、こうして翻訳を読んでいる。


 だがいつもどこかしら後ろめたさがある。人の手を借りなければ読めない物を、わざわざ選んで読む必要があるのかと。海外の映画を見ていても明らかにしゃべり言葉と字幕が違うと分かるときがある。


 小説も翻訳するのに、どこかニュアンスが変わることもあるだろう。


 ひょっとすると映画の翻訳ぐらい違いがあるのかもしれないが、翻訳家が精魂込めて行った作業の結果だ。違っていても概ね同じだろう、と自分を納得させている。


 それでもやはり後ろから誰かに指を差され続けているような気になる。


 いっときの憩いの時間を過ごしてコーヒーが冷めてきた頃、ふと隣の席が更に奥まった場所にあり、そこに誰か居ることに気づいた。


 目線を上げると、自然とその女性と目が合った。会釈したものかどうか迷っていると、話しかけてきた。


「その本、お持ちなのですね」


 そう言われて改めて小説の表紙を確認する。実は自分で買った物ではなく、兄が捨てようとしていた物をもったいないからと取っておいただけだ。


「これは、有名な本なのでしょうか。たまたま捨てられそうだったところを、もったいないと、捨てる前に一度読んでおこうと思いまして」


「その本大切にされた方が良いですよ。今は絶版で手に入らないですから」


「読まれました?」


「ええ、もちろん」


 そう言ってその方は元の姿勢に戻った。手元には本が置いてあった。この前雑誌か何かで、あの国民的な女優がお薦めしていた本と同じものだった。


 なぜかその方はまたこちらに向き直り、声をかけてきた。


「あの、以前どこかでお会いしたことあります?」


「ありますかね・・・。そう言われるとそのような気もしてきますが、おそらく初めてお会いしているかと」


「ごめんなさい、そうですよね。どこか親近感を感じただけかもしれません」


 その女性の仕草は優雅で、本のページをめくる指先には精巧な動きがあった。


 見られることを意識した動きで、僕は失礼だと思いつつも横目で見入ってしまった。


 神保町、小ぬか雨、古書、静かな喫茶店。そして憂いを感じさせる女性。まるでそこ自体が出来過ぎた小説の一舞台の様であった。



 女性は本を読みながら、時々何かを書いていた。白い軸の万年筆は紫の螺鈿が見事に施されており、動かすペン先から目が離せなかった。


 こんなにも美しくものを書く人がいるのだなあと、別世界を覗いているような気になった。


 何を書いているかと見入っていると、女性はこちらに目線を流して、ふとにこりと微笑んだ。


 まずいと思った僕は、しおりを差し替えるのも忘れたまま本を閉じ、立ち上がってレジへ向かった。


 お店の店主であろう老人に会計をしていると


「今日は運が良かったね」と話しかけられた。


 何のことかと首をかしげると


「あれ、気づいてないの?」と言う。


「あなた奥の席に座っていたでしょう?隣に居たの、桜上里奈さんですよ。ご存じでしょう、有名な女優さんだから」


「え、あ、あれ、そうなのですか。もちろん知っていますよ。でも居るわけがありませんよ」


「昔から通ってくれていて。あ、これ言っちゃうと良くなかったかな。でもあなたたちはどうも雰囲気が良さそうだったからつい」


 そう聞くとじっとしてはおられず、店の奥に引き返した。


 慌てて彼女の方に近付いていくと、すでにこちらを上目づかいで見ている彼女がいた。


 やりとりが聞こえていたようで、悪戯めいて微笑んでいる。


 僕は「ごめんなさい、まったく気づかずに話しかけていて。失礼しました」と謝った。


「本当に気づいてなかったのですか?」


「いえ全く。ただきれいな方が居るなと思っただけで」


 彼女は右上に目を向け、少し考えてから「それは・・・うれしいかな」と言った。


 少し開いた唇からは華奢に並んだ白い歯が覗き、やはり彼女は芸能人なのだと信じさせてくれる。


「いつも拝見しています」


「無理しないでくださいよ」


「いえ本当です。そりゃ、ファンとはいえないですが、いつも気になっているというか」


 僕は何か彼女のことを分かっていると証明できる話を必死で探した。


「知っていますよ、本がとても好きだということも」


 彼女は読んでいた本を左手にして、ひらひらと揺らした。


「その本、お気に入りだとおっしゃっていたのも、どこかで見ました」


「それは、本当に私のことご存じなのですね」とうれしそうに答えた。


「いつもこちらにいらっしゃるのですか?」


「時々です、残念ですが。本業が忙しくて。休みが取れた時に雨の日だったらこちらにお邪魔しています」


「一般人が知らない秘密のルールですか」


「そういうルールがあると謎めいて面白いでしょ?」


 僕は彼女の意外な話に思わず「ますます好きになりそうです」と言った。


「あなたの読んでいたその本、読み終わったらぜひご感想を聞かせていただけますか?同じ本を読んでいる人に会うことってほとんど無くて。ましてやそんな珍しい本だと。だから感想が聞けるとうれしいです」


「捨てなくて良かったです。ぜひまたお会いできれば、その時までには読んで、気の利いた感想が言えるようにしておきます」


 国民的女優はテレビや映画では見せない、自然な一人の読書好きとしての笑顔をくれた。


 僕はと言えばむしろ段々と緊張してきて、ぎこちなく微笑んでその場を後にした。


 店主は相変わらず聞き耳を立てていたようで、読んでいる新聞から目を上げると「また来なよ」と送り出してくれた。


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