第29話 左手首
メレンケリは顔を伏せる。すると目がじんわりと熱くなった。テーブルの木目がぼんやりと滲む。
(どうして……今、こんな風になるの)
悔しい。
この男は犯罪者なのに。
自分の感情をさらけ出すつもりはなかったのに。
彼と話していると、いつの間にか自分の本心が顕わになって、今まで見てみぬふりをしてきた矛盾を突き付けられる。
だが、それは不快なものではない。知ったことで父に対する嫌悪や、自分の立場が如何に汚れていたかを認識することにはなるが、本当の自分の気持ちを向き合った気がして、寧ろ楽だった。
「……大丈夫か?」
心配されていることに気が付き、メレンケリは顔をそっと上げる。彼女の目は赤く、それを見たグイファスは謝った。
「すまない、きついことを言った。泣かせるつもりはなかったんだ。ただ君の気持ちが、少しでも楽になったらいいと思って話していたつもりだったんだが……」
「泣いていないわ」
彼女は気丈に振舞う。
「大丈夫。泣いていないから」
「……そうか」
「あなたって、おかしな人ね」
メレンケリは、そう言いつつもグイファスのことを不思議そうに見た。
それは先ほど犯罪者を監視する監視者として向けられたものではなく、少女が新しいものに出会ったときのように、興味が惹かれたような瞳だった。
「おかしい、かな?」
「だって私はあなたを監視している人物よ。それなのに私に気遣うなんて。おかしな人よ」
「気遣い……」
そう呟いたときグイファスの金色の瞳が、メレンケリを射貫いた。
(あ、れ……? この人って、こんなにきれいな人だったかしら……?)
浅黒い肌に、金色の瞳がきらりと光る。まるで夜空に浮かぶ、一番星のよう。そして真っ直ぐな鼻筋が目立つ、端正な顔立ちは、急に彼女の知らない感情を湧き立てた。その感情は、メレンケリの頬を熱くした。
(私、今、……すごく変!)
犯罪者の男に、取引だと持ち掛けられ話したのはいいが、思いがけず自分の本心に気づくことが出来て心地よくなってしまった。もしやこれはこの男の作戦なのか。もしそうだとして乗っかったとしたら、なんと恥ずかしく、愚かなことをしてしまったのだろうかと思ったのである。
「あ、ええと、今のは忘れて! 忘れなさい!」
メレンケリはグイファスに命令する。その間にさらに顔を真っ赤にし、慌てて立ち上がると脱兎のごとくドアに向かう。兎にも角にも、一度部屋を出て自分の気持ちを整えたかった。こんなに熱い感情が巡るのは生まれて初めて、どうしたらいいのか分からない。
――恥ずかしい! 何であんなこと言ってしまったの⁉ あの男は犯罪者なのよ、マルスさんとは違うの! それなのに「気遣っている」ように感じるなんて、私、どうかしてる!
どこかに身を隠したい思いで部屋を出て行こうとしたが、思いがけずグイファスは彼女の左手首を掴んでそれを止めた。
「え⁉」
メレンケリは急に手首を掴まれ、思わず振り返る。
(て、手が……!)
自分の手を凝視すると、グイファスが触れている。メレンケリは驚愕した。
(この人、私のことが怖くないの⁉)
軍事警察署にいる者も、家族でさえも、メレンケリに触れる者はいない。それは彼女が右手に手袋を掛けていたとしても、万一のことを考えて距離を取るようにしているからだ。またメレンケリ自身もそうならないように、常に人とは距離を取るように心掛けていたのである。
しかし、グイファスはなんの躊躇いもなくメレンケリの手首を掴んだ。それが彼女にとって驚きだったのである。
(……温かい)
左手首に、彼の温もりを感じる。自分よりも大きな手。そして乾いている。がさがさとしていて、固い。
グイファスの手から読み取れるだけの情報を、彼女の意図とは反し、体が瞬時にして受け止める。人に手を握られたことがない彼女にとって、この体験を必死に記憶しようとしていた。
「忘れて、なんて言わないで。きついことも言ったのに……それでも気遣いだと感じてもらえて、とても嬉しかった」
メレンケリははっと顔を上げる。すると、金色の瞳が真剣なまなざしで彼女を見ていた。
「ありがとう」
そして彼は、ふっと金色の瞳を細めて、優しく微笑む。メレンケリはその表情に思わずどきりとした。
「それからもう一つ」
メレンケリは自分の心臓の高鳴りを聞きながら、静かに彼の言葉を聞いていた。
「さっき言ったことだけど、今までなりたいものがなかったとしても、今からだって考えられる。『石膏者』という仕事が嫌なら、別の仕事を探すのも選択肢の一つだ。もちろんそれは君にとって、簡単なことではないとは思うけれど……」
グイファスはそこまで言うと、ずっと握っていたメレンケリの手をぱっと放して謝った。
「急に掴んで悪かったね」
二人の間に静かな時間がわずかに流れる。
「……別に謝ることじゃないわ」
メレンケリはそう言うと、グイファスが握っていた手首を手袋を掛けた右手で、そっと触れるのだった。




