第21話 躊躇い
それから一週間が過ぎたが、この日は彼女にとって気が重かった。捕まったある男を、石にしなければならなかったのである。
ここ三ヵ月ほど、『石膏者』としての制裁がなかったので久しぶりのことだった。
メレンケリはいつものように軍人の言葉に従って取調室に入り、「この者を石にせよ」という命令を受け、右手の手袋に左手をかける。いつでもそれを取れるようにしておきながら、じりじりと捕まった男に近づいていく。
「うー! んー!」
男は舌を噛まぬように、口に布を巻き付けられていた。しかしそれでも声を出して抵抗する。
メレンケリはその男にゆっくりと近づく。だが次の瞬間、石にされることが恐ろしくなった男は、部屋の中をあちこち逃げ回り始めたのだ。
「あっ! こら! 待て!」
「うー! うー!」
取調室には大して物はないが、なりふり構わず逃げ惑うせいで、中央に置かれたテーブルと椅子が端っこに追いやられたり、ひっくり返ったりした。
「こんのっ! ちょこまかと面倒な奴め!」
メレンケリの補佐として、取調室に入っていた軍人の一人が悪態をつく。そしてもう一人いた軍人は、その背にメレンケリを隠す。
「アージェさん、私の後ろに。奴があなたを襲って来ないとも限りませんから」
「……すみません」
メレンケリは仲間の背に隠れながら、その時を待つ。男を石にするその時を――。
五分ほど部屋の中で追いかけっこをしていただろうか。
よくこの狭い部屋で逃げ回ったと思うが、男は鍵のかかった取調室から出ることは出来ない。鍵は今、彼を追いかけている軍人が持っている。しかし仮に、追いかけまわしている軍人を倒して、鍵を奪い取ったとしても、部屋の外には五人の軍人が控えている。男が逃げられる確率は相当に低い。
結局のところ、どうあがいたとしても彼が石になるのは時間の問題だった。
「暴れても無駄だ!」
追いかけていた軍人が、ついに男を捉え羽交い絞めにする。メレンケリを背に隠していた軍人はそれを確認した瞬間、加勢するために飛び出し、暴れようとする男の足を押さえつける。
「メレンケリ! 俺たちが押さえているから、早くこいつを!」
羽交い絞めにしていた仲間が言った。メレンケリはその声に反応する。
「はいっ」
男はなおも軍人の腕の中で暴れたが、彼らにとっては好都合だった。お陰で、図らずとも部屋の角に追い込むことが出来たのである。
「んー! んー!」
男は声の限りに拒絶する。しかし、その間にメレンケリはさっと距離を縮めた。
「うっぐ……!」
『石膏者』が目の前に立った瞬間だった。男の表情は引きつり、脂汗をダラダラとかき始める。
その一方で、メレンケリはいつも通り冷ややかな瞳で男を見つめ、右手の手袋をゆっくりと外す。
(あとは、この男に触れるだけ……)
そう、思った瞬間だった。
兄トレイクが持ってきたクリームパンのことを、前触れもなくふと思い出してしまったのである。
何故、そんなイメージが浮かんできたのか。メレンケリにもよく分からなかった。だが、その一瞬メレンケリの手が止まり、兄の言葉が浮かんでくる。
――相手を思う気持ちがなければ、美味しくなんて作れないんだ。
(相手を思う気持ち……)
メレンケリが、男を見ながら彼に触れることを躊躇ったとき、軍人が大声で叱咤する。
「おい! メレンケリ、早くしろ!」
その声にびくっと驚き、その勢いで男の左手に触れる。
すると男の手は灰色になり徐々に体が灰色の石になっていく。パキパキという乾いた音が取調室に響いた。男はできるだけ腕と首を伸ばし、石になる時間を稼ごうとする。
「んっ! んー‼」
しかし男がどんなに抵抗しようとも、石になる速度は変わらない。メレンケリが一度触れてしまってからは、止めることもできないのだ。
男は目に涙を浮かべ、石になっていく自分の体を見下ろす。腕から胸、首、腰と徐々に無機質な灰色になっていくと、軍人はもう押さえている必要もないと判断し、男から手を離す。その判断は正しく、男は自分の身に起こっている出来事を見ているので精一杯のようで、逃げるようなことはもうない。
軍人が「部屋を出よう」とメレンケリの背中を押しながら言うので、彼女はそれに従おうとする。すると男がそれに気が付き、メレンケリの背に声をぶつけた。
「ん、んー! んんー‼」
口に布を巻き付けられているので何を言っているのかは分からない。だが、それは恨みや、苛立ちであることは想像せずとも分かった。
――今度はお前を、呪い殺してやる‼
メレンケリは瞳を閉じ、その声を聞きながら部屋を出る。彼女が振り返ることはなかった。




