第16話 兄の仕事
「はあ……」
メレンケリがため息をつく横に、パンを運び終わったトレイクが座った。
「ほら」
そして彼は彼女の目の前に、油紙に包まれた焼き立てのクリームパンを差し出す。
「お腹空いてるんだろ。これやる」
「……そういうわけじゃないんだけど」
だが言われてみると、今朝はリッチャー大佐のせいで何も食べていない。母は朝食も持たせてくれたが、結局時間がなくて食べていなかった。
「いいから、食べなって」
メレンケリは差し出されたクリームパンを左手で取る。すると食欲をそそる香ばしい香りがした。
彼女は油紙をはがし、「いただきます」と言ってから一口食べる。
「あっ……」
すると小麦の優しい香りが鼻を通り、クリームのほんのり甘い味が口に広がった。パンの生地とクリームの量が絶妙で、驚くほど美味しい。
「どうだ、美味いか?」
トレイクはメレンケリの顔をそわそわした様子で覗き込む。
メレンケリは、何度か首を縦に振った。
「うん、美味しい。とっても美味しい」
「だろっ!」
トレイクはにっと歯を出して笑う。まるで雲一つない晴れた空のように、清々しい笑顔だった。
「これ、俺が作ったんだ」
「お兄ちゃんが?」
トレイクがパン屋に勤めてから、五年になろうとしていたが、彼がパンを作ったという話は聞いたことがなかった。パンを作るには技術がいるため、最初はやらせてもらえないと嘆いていたことを覚えている。それに近頃は仕事が忙しく、家に帰ってくる暇もなかったし、こうやって軍事警察署に売り込みにくるお昼ときにばったり会うこともなかったため、話を聞くことが中々なかった。
「ずっと練習してたんだ。作れるようになるまで大分時間がかかったけど、最近はこうやって、お店に出せるくらい美味しいパンを作れるようになったんだぜ」
「……すごいなあ」
メレンケリはクリームパンの残りの分を、ゆっくりと食べる。兄が沢山練習して、丹精込めて作ったというからには、丁寧に味わいたかった。
「それにしてもどうやったら、こんな風においしく作れるの?」
すると、トレイクは声を潜めて言った。
「誰にも言わないか?」
「う、うん」
「よし、分かった。これ本当に秘密だからな」
「うん」
何か特別なことでもあるのだろうか。メレンケリはドキドキしながら、兄の話を聞く。
「俺が上手にパンを作れるのは、想像するからなんだ」
「想像?」
メレンケリは小首を傾げた。
「そう。俺のパンを美味しそうに食べているお客さんのことを、想像するんだよ」
「……え?」
メレンケリは何度か目を瞬かせた。
「何?」
「それだけ?」
メレンケリがきょとんとすると、トレイクは「大事なんだぜ」と言って笑った。
「相手を思う気持ちがなければ、美味しくなんて作れないんだ」
「そうなの?」
「そうだよ。それがあるから、もっと上手になろうって思うし、工夫するし、沢山考えるんだ」
「技術はいらないの?」
「いらないわけないけど――」
すると、トレイクは自分の胸を軽く、とん、とん、と叩いた。
「心が籠ってなくっちゃ。それがなかったら、どんなに技術があったって駄目なんだよ」
「心……」
すると、建物の中からトレイクを呼ぶ声がした。
「おっと、いけね。じゃあ、呼んでるから俺行くね」
「うん、クリームパンありがとう。美味しかった」
「そりゃ、良かった! また、持ってくるな!」
兄の背を見送り、メレンケリはまたため息をついた。
美味しそうに食べているお客さんのことを、想像する。
そうやって、人々を幸せにできる兄が羨ましい、とメレンケリは心の底から思ったのだった。




