第307話 第零質料
「……ここは」
ボソリと声を漏らすフィーア。彼女の目の前には見渡す限りの真っ白な世界が広がっていた。それは文字通りの意味であり、水平線の彼方まで全てが特殊な領域で構築されていた。
彼女はこの領域の全てを理解しているわけではない。
だが、ここが先ほどいた世界から完全に隔離された別の空間であることは理解していた。
「どうやら、ここがどこか理解しているような顔ですね」
「真理世界と現実の狭間。どうしてこの領域をお前たち程度の魔術で辿り着ける……?」
ギリッと歯を食いしばりながらフィーアはマリウスのことを忌々しそうに凝視する。フィーアは特に、マリウスに対して憎しみなどという感情は持っていない。けれど、その視線は明らかに憎しみが含まれたものだった。
自分たちしか知らない領域に土足で踏み込んできたからこその怒りなのだろうか。
彼はフィーアのそんな視線も気にせず、ゆっくりと手を伸ばして虚空にある微かな第一質料をその手に掴み取る。
「そう。私は分かっていました。第一質料とコード理論を使用した現代魔術は確かに素晴らしいものです。汎用性が高く、それほど魔術の素質がなくとも簡単な魔術なら意識して使うことができる。しかし、ある領域にたどり着くとその先に進むことができません」
まるでマリウスは独り言のように語り始める。そんな彼の言葉にフィーアは耳を貸していた。彼女は知っていたからだ。
この世界の仕組みとそして、現代魔術の本当の意味というものを。
「お前……魔術を使う身でありながら、たどり着いたというのか?」
「いえ。この世界は決して真理世界ではありません。言うならば、狭間です。不完全な領域ではありますが、限りなく真理世界に近い空間……」
と、マリウスが人差し指と親指を閉じて横にすっと線を引くように手を横に滑らせた。
すると眩い光が輝いたと思ったら、フィーアの右足は閃光によって貫かれていた。知覚する時間などありはしない。
マリウスが使用する魔術の速度は光速に達している。それこそ、彼はこの空間における全ての第一質料を支配下に置いている。
溢れ出る燐光はアトリビュートに過ぎない。
彼の本質は、【接続】に他ならない。だがフィーアはまだそのことに気がつくことはない上に、徐々に焦り始めていた。
まだ足は動くし、思考もはっきりとすることができる。だが間違いなくこの場に於いて上なのはマリウスだった。
「う、うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
狂ったかのように叫ぶと彼女は両手を掲げ、空間の歪みを一気に生成していく。それはマリウス一人を飲み込むには十分すぎるほどの領域。並の魔術師であればその空間に触れた瞬間、原型を残すことなどなくバラバラになってしまうだろう。
しかし、マリウスに彼女の魔術──否、魔法が通じることはなかった。
溢れ出る燐光に、眩いまでの光の軌跡。
それらが宙を駆け巡ると一気にその歪曲した空間を元の通常の空間へと戻していく。いや、それは厳密に言えば破壊そのものである。マリウスは彼女の魔法に介入して、全てを破壊尽くしているのだ。
《第一質料=エンコーディング=物資コード》
《物資コード=ディコーディング》
《物質コード=プロセシング=接続》
《エンボディメント=現象》
「──燐光接続」
この空間には大量の第一質料が溢れ出していた。それこそ、その量は通常ではあり得ないほどに。これはマリウスが生み出した、擬似真理空間だからこそ為せる技である。
彼の本気を見たものはまだこの世界一人としていない。
それはマリウスが一度も本気を出したことはなかったから。
彼にとって人生の全ては生徒のためにあるものだった。教師は天職であり、子どもたちに知識を教えることこそが彼の人生そのものだった。だが、彼は知ってしまった。この世界が脅かされていることに。
このままでは世界は終わってしまうかのしれないと。
だから自分に為せることを為す。
それがたとえ、相手を殺すことになったとしても。
教師という天職を捨て、彼は前に進み始めた。自分が犠牲になった上で世界を守ることができるのならば、それでもいいと。決して死ぬことを許容しているわけではないが、死を覚悟しているのは間違いなかった。
いつもは柔和に微笑み、人の良さそうな雰囲気を纏っているマリウスだが今のこの時だけはまるで全ての感情が抜け落ちたかのような表情をしていた。
その顔を見てフィーアはゾッとすると同時に、彼女の視界は無限の光に包み込まれるのだった。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
絶叫。
耳を塞ぎたくなるほどの絶叫がこの空間に響き渡った。
マリウスの放った無限の燐光たちは全ての点と点を繋ぐようにして、幾多もの光の軌跡を作り上げた。その光の線を避けること、防ぐことは不可能。光よりも早く知覚できる魔術師など、この世界に存在しないのだから。
「──第零質料。過去、魔法と呼ばれていたものに明確な法則など存在していなかった。そこには根元とも呼ぶべき第零質料という物質と、それに適応する体……厳密には脳があれば十分だった。だがあまりにも強大すぎる力は封じられ、魔術の始祖であるフリージア=ローゼンクロイツによって魔法は魔術に変わった」
歩みを進める。
目の前に転がっているフィーアはまだかろうじて息をしているようだった。ヒュー、ヒューと喉の慣らしながら、マリウスのことを見つめている。
恐怖。
彼女は初めて自分が死ぬかもしれないという恐怖を味わっている。体の震えが止まることはない。溢れ出る血液も止まることはない。
だというのにマリウスは何の慈悲もなく、まるで授業でもしているかのように雄弁に語り始める。
この世界の仕組みを暴くために。
「魔法はコード理論によって体系化され、魔術に進化したのではない。魔法はコード理論という余計な不純物によって退化した。というのが私の仮説になります。けれど、別にモノは使いようです。魔法と魔術。どちらかが優れているなど、今となってはそこまで変わりはありません。といっても、それはある種の到達点にたどり着いた者に限られますが」
「う……あぁ……う……」
地面に這いつくばりながら、フィーアはマリウスのことを見つめて……こう呟いた。
「た……助けて! 殺さないで……っ! 死にたく、私は死にたくない……っ!」
涙を流し、鼻水を流し、なりふり構わず命乞いをした。もちろんそんな彼女に対してマリウスが今更慈悲の手を差し伸べることなどありはしなかった。
「あなたは今まで、そうやって命乞いをした人間をどうしてきましたか? 私が入手した話によると、嬉々として殺したそうですね。まるで殺戮を楽しんでいるかのように。自分がその立場になって、命乞いですか? それは……美しくない。とても醜い。でも、私は人殺しに悦など憶えません。たとえどれだけの人間を、私の教え子を殺したあなたであっても私も殺すのは感情では嫌なのです」
「な、なら……っ!!」
その目はわずかに輝きを見せる。マリウスの言葉を聞いて、フィーアはまだ生きることができるかもしれない、と思ったからだ。
彼は首を横に振った。
そして、右手をスッと差し出した。溢れ出る燐光はフィーアの頭部に集中している。この燐光が全て接続されれば、彼女は確実に死ぬだろう。
その脳を焼き切られるような形で。
「大丈夫です。一瞬で終わらせますよ」
「嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアア」
眩い閃光が彼女の頭部を貫いた──。
「……」
転がっている死体を見て、マリウスは天を仰ぐ。
「──どうか、安らかに」
溢れ出る涙はその頬を伝っていく。
感想、返せていませんが全て読ませていただいております。いつも本当にありがとうございます。
それでは今後とも本作をお楽しみください。そろそろ五章も大詰めですので。
また来週の月曜日には書籍版第二巻の発売日です。是非、ページ下部からご予約お願いしますー!




