第115話 アリアーヌが征く
「う……うぅん……」
アリアーヌの朝は早い。いつもは五時に目を覚まし、そのまま彼女はすぐに支度に入る。
「よし。これでいいですわね」
軽装に着替えた後、その美しい白金の髪をポニーテールに纏めると階段を降りていく。
貴族のパーティーが昨夜にあったので、今日は平日だが実家に戻っていたアリアーヌ。そして、このままディオム魔術学院の寮へと戻る予定だ。
しかし、毎朝彼女にはやるべきことがあった。
「お父様。おはようございます」
「お! アリアーヌか! おはようっ! ふんっ……ふんっ……ふんっ……!」
オルグレン家の王都別邸内一階に設けられているある広めの一室。そこに入ると、アリアーヌの父であるフォルクハルト=オルグレンがスクワットを行っていた。もちろん両手にはダンベルを抱えて、負荷を増やしている。
迸る汗。
すでに五十代だというのに、その巨躯は依然として維持されている。もちろんそれは生まれつきのものでもあるが、フォルクの場合はその上からさらに圧倒的な筋肉の鎧に覆われていた。
高位の魔術師になると、老化が遅くなる現象が確認されている。もちろん全ての魔術師ではないが、フォルクはその典型。そのため、その筋肉もまた五十代のものとは思えないほどの筋肉量がある。
「ではお父様。わたくしも失礼して……」
「うむ。今日も励むといいっ! ガハハっ!!」
オルグレン家は筋肉に侵食されている。
そんな揶揄を言った貴族が中にはいるそうな。しかしそれは的を射ている。
アリアーヌもまた、物心ついた時には体を動かすことが好きだった。それこそ、アメリアと一緒によくかけっこをしたのは彼女もよく覚えている。
幼い頃から筋トレもしてみたかったのだが、まだ体ができていないから今はダメだ。と、フォルクに言われアリアーヌはずっと我慢して来た。
そして現在。
すでに体も完全に成熟しきった彼女は毎日筋トレに励んでいる。
質実健剛。
その家訓を元に、アリアーヌもまた汗を流す。
「ふっ……ふっ……ふっ……!」
一人で淡々と、父親の隣で筋トレを行うアリアーヌ。昨日は背中を鍛えたので、今日は脚の日である。フォルクが用意しているダンベルを両手に掴むと、アリアーヌはスクワットを開始する。
両脚に乳酸が溜まり、筋肉が悲鳴を上げる。それでもアリアーヌはやめない。この研鑽の日々は確かに辛いことも多い。楽なことなどありはしない。
でも今の彼女には目標があった。
「今度こそ……ふっ……負けませんわ……ふっ……ふんっ!」
今度こそ負けない。
それは魔術剣士競技大会新人戦決勝のことを指している。アメリアが優勝したのは嬉しい。彼女はずっと迷い、惑い、自分を探し続け……そしてやっと自分の居場所を見つけたのだから。
それでもやはり、負けは負け。全力で戦い。砕け散った事実は消えはしない。その敗北は心に永遠に刻まれる。
試合後の夜は、アリアーヌは涙で枕を濡らした。でも翌日には切り替えていた。
──今度はわたくしが追いかける番になっただけですわ。だからいつものように、研鑽の日々を重ねる。それでいいんですわ。
アリアーヌはタフだった。それは肉体的な意味でもそうだが、精神的にも強かった。
そして今日も今日とて日課の筋トレに励む。急激に変わることなどありはしない。日頃の小さな積み重ねこそが、自分を遠くまで連れて行ってくれると分かっているから。
健全な精神は健全な筋肉に宿る。
父の教えに従いながら、彼女はそのまま筋トレを続行するのだった。
「ふぅ……」
「アリアーヌ。今日もよく頑張ったな」
「お父様」
「ふっ……我が娘ながら、よくやるものよ」
「わたくしもたどり着きたい場所がありますから」
アリアーヌとフォルクは仲がいい。母は筋トレに熱中する二人によく苦言を呈しているが、それは仕方がない……と割り切っている。
普通は思春期の娘は父親を毛嫌いするものだが、アリアーヌはそんなことはなかった。ただその圧倒的な筋肉を蓄えている父に憧れた。
周りの女の子がお洒落に興味を持つ前に、彼女は筋肉に興味を持った。もちろん三大貴族として最低限の身嗜みを整えるだけの技能はあるし、勉強もしている。それでもやはり、体を動かすことの方が彼女は好きだった。
「して、アリアーヌよ」
「なんでしょうか?」
「レイ=ホワイト。知っているか?」
「レイですの? もちろんですわ。お友達ですけれども、それが何か?」
「何!? 友人なのかっ!」
「えぇ」
父がこの手の話題を出すのは珍しい、とアリアーヌは思った。いつもは学校のことなど、特に友人関係は今まで話したことがないからだ。
「ごほん。そうだな……いつかうちに招待しなさい」
「うちの屋敷に、ということですの?」
「あぁ」
「どうして?」
「あぁ……えーっとそれは……う〜ん……」
逞しい胸の前に逞しい両腕を組んで何やら考え始めるフォルク。
質実剛健。愚直なまでにまっすぐな彼は、嘘が苦手だった。そのためレイを一目見たいと思っていたが、どのような理由で連れて来るかまでは考えていなかったのだ。
するとアリアーヌが「あ」と声をあげた。
「まさかお父様……」
「な、なんだ?」
明らかに挙動不審なフォルク。しかしそれを全く意に介していないのか、アリアーヌは顔を綻ばせる。
「レイの筋肉のことをご存知でしたのっ!」
「へ?」
「アメリアに聞いたんですの。レイは脱いだらすごいって……あの細い体の下には圧倒的な筋肉があると……でもよく考えれば、あのアーノルド魔術学院の環境調査部に所属しているんですもの。生半可な筋肉では、活動は不可能。でもレイはそこにいる。そのことで連れて来て欲しいと。そういうことですのね?」
得意げな顔でアリアーヌはそう言った。
まるで、「お父様の考えていることはわかっているんですのよ?」と言わんばかりに。
もちろんそれに乗らないフォルクではない。
「あぁ! 流石、我が娘! そ、そうだ。かのレイ=ホワイトの筋肉に興味があってなぁ……で、実際のところすごいの?」
その話を聞いて、フォルクは気になっていた。まさか、あの会議で出た史上最年少の七大魔術師であるレイの筋肉がすごいなどとは聞いていなかった。
当代の【冰剣の魔術師】が面白そうとは思っていたが、フォルクはさらにレイに対して興味が唆られていた。
「えぇ。アメリア曰く、物理的にあり得ないとか……」
「何? 物理的にあり得ない筋肉量という意味か? むむむ……見てみたい……」
「分かりましたわ。お父様。レイには声をかけておきます。彼はとっても紳士なので、来てくれると思いますわ」
「おぉ! よろしく頼むぞ、我が娘よっ!」
「えぇ。任せてくださいまし」
ということで、なぜか二人の話は最終的に噛み合うことになりレイを招待することが決まった。
◇
「さて、どうしましょうか……」
ディオム魔術学院に向かう道中、アリアーヌはいつレイを誘うべきか……と考えていた。その時、ふと最近アメリアと話したことを思い出す。
「私たちはメイド喫茶をやるのよ!」
「め、メイド喫茶?」
「そう! ふふふ……みんな超可愛くなるから、アリアーヌもぜひ来てねっ!」
「は……はい」
アメリアの目は爛々とし、両手を握ってブンブンと上下に思い切り振って来る。変わったのは間違いないが、本当に明るくなったものだとアリアーヌは思いながら、どこか戸惑ってもいた。
「でも……アリアーヌのメイド服姿も見てみたかったなぁ……」
──ぞくり。
背筋が凍るとはこのことか。
アリアーヌは彼女の視線に思わずたじろいでしまう。それはまるで、獲物を捕らえようとする肉食動物そのもの。滅多なことで恐怖心を抱かないアリアーヌだが、この時ばかりはその視線に恐怖した。
「そうそう。実はレイの女装も計画してるから、ぜひ来てね! 本人にはまだ言ってないけど、レイのメイド服も作ってあるのよ……ふふふ……あの美貌を逃すわけにはいかないわ。うふふ……」
と、アメリアの顔が貴族の令嬢とは思えないものになったのは記憶に新しい出来事だ。
「そうだ。わたくしが行けばいいんですわ」
思えば、レイとの出会いも彼が調査ということでディオム魔術学院へやってきたのが始まりだった。ならば、自分もまた真正面から行けばいいと。
アリアーヌはそう思った。
それにかのメイド喫茶がどのように進行しているのかも興味がある。自分たちの文化祭の方にも、もしかしたら参考になるかもしれない。
ということで彼女はその日の放課後、一人でアーノルド魔術学院に向かうのだった。




