第105話 いつかあの日の戦場
鮮明に描かれる、真っ赤な戦場。
悲鳴、怒号、爆音がいたるところで飛び交う。
灼ける身体。弾ける四肢。飛び出す双眸。砕ける頭蓋。爛れる皮膚。
灼ける戦場に立ち尽くしながら、彼は自身の身体を巡る痛みを受け止めていた。身体には無数の切り傷、焼け跡、打撲、内出血もしているのか青く滲んでいる箇所もある。
作戦は成功した。だが、相手だけでなくこちらにも多大な被害を及ぼした。先ほどまで隣にいた仲間が無残にも形容し難い何かとなって散っていった。
その姿を目の前にして見た彼は恐怖した。と同時に、強い殺意に駆られた。だが、否が応にも戦場では感情的になっては生き残れないとすぐに悟らされることになった。
必要なのは極めて合理的な行動。心を押し殺すことで彼は望まぬ高みへと昇華されていった。
決して終わることのない繰り返される日々。いつまで経っても終わりなど見えはしない争い。それどころか勝っているのか、負けているのかも不明瞭だった。
もしかしたらこれは悪夢なのかもしれない。自分は覚めることのない夢の中にいるだけで現実ではないのかもしれない。
だが、そんな逃避が許される余地はない。ただただ生きる為に逃げてはならない。
少年はそんな戦場を駆け抜けている。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ!!」
もうどれほど進んだのか覚えなどない。
少年はたった一人で、腰に据えたナイフをギュッと握り締めながら戦場を駆け抜けていく。
魔術が初めて本格的に導入された戦争。
後に極東戦役の名称で呼ばれるこの戦争は、徐々に規模を拡げつつあった。
「寒い……寒い……」
彼の長い髪はすでに赤い液体でベトベトだった。滴る赤い液体は殺した相手の血だろうか。
彼は滴るその血を拭うことなく、岩場に潜むとその場に座り込んだ。
一人で膝を抱えて、じっと……ただじっとその場で蹲る少年。
人を殺した感覚は決して消えること無く残り続けている。ただその手にずっと残り続ける感覚。初めての殺しを経験した後は、ろくに眠れることはなくなった。
浅い眠りを繰り返し、ただ戦場を逃げ回るだけ。
村を追われた後は彼はそうやってずっと生き続けていた。食料は自力で見つけ、それを確保してなんとか生活とも呼べないものを送っている。
もうどこにも自分の居場所など、生きる場所などないのだと、そう幼いながらに考え、少年はひたすらにこの戦場と云う名の顕現された地獄を彷徨い続ける。
「……」
もはやその瞳には、何も灯していない。
生きることなどにまるで興味がないかのような瞳。
しかし彼を駆り立てているのは、生きるという本能だった。
生きるべきだと。
自分は生きなければならない。
そんな本能に駆り立てられ、彼はひたすらに戦場を走りつづけている。
その先にきっと、理想の世界があると信じて。
しかしそんなものはこの世界にあるわけがないと、少年は後に知ることになる──。
◇
「はっ! はぁ……はぁ……はぁ……」
汗が滴る。
腰付近まである長い髪の内側は大量の汗を吸い込み、ポタリポタリとベッドのシーツに広がる汗の跡。
ブラッドリィ家。
その中でも場所はレベッカの自室。広い部屋の中にある天蓋付きのベッド。
彼女はいつものように睡眠を取っていた。
現在の時刻は午前三時三十分。
こんな深夜にレベッカが起床することなど、ほとんどない。
それも、こんなに壮絶な夢を見た後には。
「い、今のは……?」
問いかける。
しかし、その問いに答える者などいない。
よく見ると、ベッドのシーツには汗だけが滴っているわけではなかった。
その染みの中には赤いものが混ざっていた。
「え……?」
そっと自分の顔に手を当てる。
すると、レベッカの右目からはまるで涙が零れ落ちるかのように真っ赤な血液が流れていた。
ツーっと流れるそれを拭うと、鋭い痛みが両目に走る。
「う……うぅ。これは、一体……?」
理解ができない。
そんな様子で彼女は一人、茫然とこの状況を見つめる。でも今はこの流れている血をどうにかしよう。
そう考えてレベッカは一人で洗面所へと向かう。
電気をつけ、鏡の前で蛇口を捻るといつものように水が流れ出てくる。まずは血の付着した両手を洗って、その後は鏡で自分の両眼を確認する。
するとそこには、発動しているわけがない魔眼が発動している様子が映り込んでいた。
「魔眼? でもこれは……」
レベッカは思った。
金色に変化しているこの両目は確かに魔眼の発動兆候であると。しかし、未来など見た覚えはない。見えたのは、記憶……だろうか。
はっきりと覚えているわけではない。
ただ覚えているのは、たった一人の少年が戦場らしき場所を駆け回っている様子だけ。
夢、と言えばそうなのだろうが……それは妙に現実感があった。
まるで誰かの記憶を追体験しているかのような。
そんな感覚。
「……」
じっと自分の両眼を見つめ続けると、次第にその金色の眼はいつも通りの黒色へと戻っていく。
それと同時に出血も止まったようで、ホッとするレベッカ。
頬にある血の跡も拭うと、彼女は自室に新しいシーツを自分で持っていき、汚れたものと取り換える。
そして汚れたものを洗濯するためにもう一度洗面所へと向かうと、ちょうどばったりと妹であるマリアと出会してしまう。
「あ……あれ、お姉ちゃん? こんな時間にどうしたの?」
「あ、いや。その、なんでもありませんよ……はい」
「でもそれ。血で汚れてるけど?」
「これはちょっと鼻血が出てしまって」
「鼻血?」
「えぇ。鼻血です」
「ふーん。お姉ちゃんにしては珍しいこともあるんだね」
「ははは。昨日は少しばかり、チョコレートを食べ過ぎたみたいで」
レベッカは愛想笑いを浮かべつつ、一方のマリアはブスッとした表情をしていた。そしてマリアは話の内容を別のものに変える。
「お姉ちゃんさ。婚約のことは、良いの?」
「……別に構いません。それが三大貴族の務めですから。それに、私は長女なのです。でも……マリアには自由に選ぶ権利が少しくらいはあると思うから、貴女は良い恋をしてね」
「お姉ちゃん……」
マリアはどこか寂しそうな目で、レベッカのことを見つめる。
以前は仲睦まじい姉妹だった。
でもいつからか、その距離感は明確に開いてしまった。思えば、マリアのピアスを開ける癖もまた、一種の自傷行為であり両親や周りへの貴族に対する当て付けのようなものだった。
貴族だから、ああしなさい。こうしなさい。お姉ちゃんを見習いなさい。
そんな言葉を幼少期の頃からずっと浴びてきたマリアは、思春期に入ると同時に髪型を奇抜なものにして、大量のピアスを自分で開けた。
そんな様子をただレベッカは呆然と見つめることはなく、毎日懸命にマリアに話しかけた。
一蹴されることも多かった。それでも、マリアが以前のアメリアのように仮面をつけることなく生活を送れたのは、間違いなくレベッカのおかげだった。
彼女が側にいるせいで辛いこともあった。それでもやはり、マリアは姉であるレベッカのことが大切だった。誰よりも尊敬して、そして誰よりも美しい人。その存在そのものが、高貴であると。
劣等感の対象でもあり、憧憬の対象でもある。
そんな倒錯した気持ちを姉のレベッカに抱いているマリアは、今回の婚約の件はどうにも気に入らなかった。父にも母にも問い詰めたが、それがブラッドリィ家の務めと言われまともに取り合ってくれなかった。
だからマリアは今こうして、話しかけてみた。
だがそこにあったのは、自己犠牲としか思えない姉の悲しい表情だった。
「では、マリア。私は失礼しますね」
「お姉ちゃん。待って──」
レベッカはマリアの呼び止める声を無視する形で、自室へと戻っていく。ただ早足で、懸命に戻るとベッドで横になって涙を流した。
「う……うぅ……う……」
婚約の件は、すでに確定している。
それがたとえどんなものであっても、受け入れる覚悟だった。
しかし、現実はあまりにも非情だった。
レベッカは夏休みに魔術協会に行った際に知ってしまった。
その婚約者の、本当の顔というものを……。
そのことを思い出したせいか、レベッカは先ほど見た夢のことはすっかりと忘れてしまっていた。後にそれが、重大なものになるとも知らずに──。




