混乱の始まり
――――――――1647年2月15日 大坂城 島津光久――――――――――
「鄭芝龍は降伏したか。これで唐土での真の支配はほぼ確実になったな」
「はい。息子の鄭成功は万暦帝の孫である永暦帝に従って抵抗を続けています。芝龍の部下の多くは成功に従うようです」
「義理堅い話だ。これからの武士はかくあってほしいものだな」
北原頼次殿の報告に上様が答えられる。しかし人間、時間さえあれば大抵の事にはなれるものだな。
「芝龍はこれまで通りこちらに情報を流しております。成功はこれまでの関係を切りたがっているようですが、成功についていった部下たちはこれまで通りこちらに情報を流すようですので、情報収集に関しては問題ないでしょう」
「芝龍はもう切ってもいいのではないか?今頃清についたところでこれまでの協力者以上の情報は入ってこないだろう」
「かしこまりました。では数年内に処刑されるよう手はずを整えます」
こんな会話だってちょっとまでだったら声を出して驚いていただろう。いや、驚いていないわけではないが。なんというか、あまり正々堂々としていないから好きではないのだが。
「成功ですが、どうやら万が一の際は永暦帝を緬甸に逃がす予定のようです」
「緬甸か。暹羅にでも逃げてくれればこっちで捕まえられたものを」
「いちおう長政に確認しておきましょう」
幼い国王を守って大臣にまで成り上がった日本人の名前が出てきたとしてももう驚かない。
「上様、上様」
外から何やら騒がしい声が聞こえる。近づいてくるな、あの声は親勝か。頼次殿が来ているときは人払いをと伝えておいたであろうに。
「上様」
「親勝、騒がしいぞ。今は人払いをしている故、近づくなと」
「よい、光久。何か一大事なのであろう」
「はっ、先ほど緊急の知らせがありまして、浅井井頼殿がお亡くなりになられたとのことです」
「なにっ」
馬鹿な、この間はあれほど元気であったではないか。先代が亡くなられてからは相談役として幕政にかかわるようになった。甲寅会の会合にも精力的に参加していると聞いているぞ。それなのに亡くなられただと。
「あの爺さんがか。そんなわけがなかろう。父上の代から幕政を支え続けたあの浅井井頼だぞ」
「じ、事実にございまする。相談役としての仕事を終えられた後、外務奉行所に立ち寄ろうとしたところで卒中を…」
「そうかぁ」
大きく息を吸い、吐くように言う。上様にとっては祖父に当たるかただ。父親の次は祖父を失われるか。
「井頼は今どこに」
「浅井の屋敷に運び込まれました」
「頼次、報告は明日また聞く。井頼に最後の挨拶をしたい。光久、親勝」
「はっ。予定のほうはこちらで組みなおしまする。警護はすぐに用意します」
「頼むぞ。親勝、案内せい」
「かしこまりました」
上様が慌てて部屋から出られる。さて、これから忙しくなるぞ。
「ようございましたな、井頼殿がお亡くなりになられて」
「な、なにを言うかっ」
頼次の言葉に思わずぎょっとして声を荒げてしまう。
「九州閥が力を盛り返し始めたとはいえ、井頼殿がいる限りは甲寅会中心の評定になるのは確実でした。内に不安があるようでしたが、それも井頼殿が生きていればいずれ解決した問題でしょう。しかしそうなる前に亡くなられた。九州閥としてはこれほどの幸運は」
「失礼かつ不謹慎にもほどがあるぞ。井頼殿が亡くなられたのはつい先ごろ。それなのにそのようなことを考えるとは」
「これは失礼いたしました」
頼次殿はすぐに頭を下げる。だがにやにやしながら頭を下げられたところで不快なだけだ。
「では私はこれで」
はあ、とりあえず仕事を片付けねば。
「まさか、井頼殿が亡くなられるとはな」
「まったくだ」
夜、屋敷で多久茂富と酒を飲みながらため息をつく。
「上様も気落ちされていただろう」
「親勝の話では一人にしてくれと言ってしばらく井頼殿の御遺体の前におられたらしい」
「しかしこれからどうなるんだろうな」
「どうとは」
「井頼殿によって甲寅会は安定し、甲寅会が主導することで評定は円滑に行われていただろう。それが井頼殿が亡くなられたことでどうなるかわからなくなった」
評定はともすれば何も決まらずに終わる可能性がある。もちろん上様がすべてを決断されれば問題ないのだが、現実的ではない。ある程度人に任せる以上、その人間関係まで気を使わなければならないときがある。事前の根回しも必要になる。これは上様にはできないことだ。
「甲寅会は光友派と頼長派に分かれるだろう。それがどれほど大きな争いになるか・・・」
「評定は荒れるだろうな。上様も胃が痛かろう」
「病弱であられるのに心労まで負われてはかなわんな」
お世継ぎがいない状態で上様が倒れては幕府はどうなるか。それを分かっていないわけではないと思うが…
「争うのが甲寅会だけであればいいが」
「どういうことだ」
「井頼殿が亡くなられたと報告があったとき、頼次殿が一緒にいてな。九州閥にとっては井頼殿の死に伴う甲寅会の混乱は九州閥にとっては幸運だったと言っていた」
「失礼な輩だ」
「九州閥にとっては主導権を握る好機と言いたかったのだろう。だがそれは他の派閥にとっても同じだ」
「なるほどな。これは相当あれるな。そうなるとまずは上様の」
「後継ぎ問題からということになるだろうな」
政は混乱するだろう。厄介なことだが・・・
「茂富」
「どうした」
「昔言っていたことを覚えているか。いつか、幕政の中心にという話だ」
「まさか」
ま、これからのことはわからない。だが、今なら。




