新年
―――――――――1579年1月3日 大坂城 松浦康興――――――――――
「はぁ」
「殿、いかがなさいましたか」
思わず出てしまった溜息に安経がすぐに反応した。相変わらず耳がよいな。溜息ぐらい聞き流せばいいだろうに。
「なに。ちと面倒なだけだ。気にするな」
「面倒と言いますと今日の御屋形様と御隠居様への新年の挨拶ですか。さすがに惟宗の重臣である殿といえども新年のご挨拶を面倒だと言っていかなければ困ります。御家の不利になることぐらいお分かりでしょう」
「誰も新年のあいさつが面倒だとは言っていない」
「では何が面倒なのですか。むしろ今年の新年のご挨拶では皆が集められたときに、北条征伐の編成が発表されるかもしれないのですから楽しみでしょう」
それを楽しみしているのは戦しかしない将たちぐらいだろう。俺はその前の準備もしないといけないから戦はあまりない方がうれしいのだ。御隠居様や御屋形様は内政での功も戦での功と同じように認めて下さる。それなら戦などなくて内政に精を出していた方が楽でいいわ。
「俺が面倒だと言っているのはその後の宴会だ。あれがなぁ、どうも気が乗らん」
「なぜですか。殿は御隠居様とは違って下戸ではなかったと記憶していますが。一昨日だって皆から酒を次々注がれても、気にせず飲んでいらしたではありませんか」
「あれはいいのだ。別段気を遣わずともいい。だが今日はそういう訳にはいかんだろう。もし御隠居様や御屋形様、ほかの重臣の方々に何か粗相があればと思うと。不安でな」
「惟宗の方々は酒豪が多くいますからな」
「それだけではない。御隠居様はふと思いついたことをその場で誰かに指示なさる時がある。しかも今回は北条征伐の勅を賜ったばかりだ。北条征伐のための命令をもし酔っぱらっているときにされて、そのまま酒のせいで忘れてしまったと思うと。しかも御隠居様は酒を嗜まれないから絶対に覚えておられるぞ」
「はぁ、私には心配のしすぎだと思いますが」
安経があきれたようにこちらを見る。ふん、代わりにこいつを送り込めないだろうか。
「ま、ご安心くだされ。御屋形様はともかく御隠居様は正月から孫の相手で忙しいようですから」
「あぁ、熊太郎様と昨年鶴様が出産された筒井の嫡男か。そういえば正月の挨拶についてきていると聞いていたな。確か名前は・・・松六だったか」
「はい。御隠居様にとっては二人目の孫になりますな」
だったら新年のご挨拶の時はそのことに触れた方がいいかもしれないな。それから順慶殿にあった時にも祝いの言葉を言っておかねば。あぁ、家康殿にあった時にもだな。はぁ、またやらねばならないことが増えてしまった。もう貞信も30になるし隠居しようかな。
「殿、頼みますぞ」
「分かっておる。ちゃんと挨拶もするし他の重臣の方々にご迷惑がかからないようにできるだけ酒は飲まん」
「いえ、それではなく熊太郎様の事です。なんとしてでも傅役に選ばれるのですぞ」
「気が早くないか。熊太郎様はまだ3歳だぞ」
「もう3歳です。いつ傅役を選んでもおかしくはないですよ」
そうかな。貞信の時はもう少し遅かったと思うのだが。
「仮にそうだとしてもやはり傅役は譜代の方々から選ぶだろう。松浦のような元は敵対していた家から選ぶとは思えん」
「そのようなことを言っていては殿のいまの地位はどうなるのですか。たとえ敵対したとしても惟宗に尽くせば出世できる。それが惟宗家であり御隠居様でしょう。それに松浦家が敵対したのは先代の頃のことですし、御屋形様が生まれる前です。今更誰も気にしてませんよ」
「そうだろうけどな。ま、期待せずに待っておれ。どうせ今日発表されるわけではないだろうしの」
今日何か発表があるとすれば北条征伐のことぐらいだろう。だがその可能性も低い。兵站衆筆頭である俺になにも準備の命令もなく具体的な北条征伐の発表をするとは思えん。せいぜいさわりぐらいだろう。
「父上、何をしているのですか」
「おぉ、貞信か。いかがした」
「いかがしたではありませんよ。もう登城していると思っていたのに何でまだいるんですか。先程時計を見てきましたがあまり時間がありませんでしたよ」
「む、もうそんな時間だったか。分かった、すぐに行く」
よく考えたら10年前では想像もできなかった会話だな。時計は御隠居様からの恩賞としていただけるぐらいのものだったが、今ではある程度裕福な物であれば購えるだけの量を生産できるようになった。やはりもう俺は歳だな。そろそろ後進に道を譲るころ合いだろう。
「貞信、お前も登城するぞ」
「えっ、私もですか。しかし私は」
「御隠居様と御屋形様に新年のご挨拶を述べる時に日ノ本の統一が終わったらお前に家督を譲る許しを請う。お前がいなければ意味がなかろう」
「父上っ」
「殿っ」
「いいから支度をしろ。早くせねば御隠居様と御屋形様になにを思われるか分からんぞ」




