四国平定
――――――――1569年11月20日 勝瑞館 惟宗貞康―――――――――
大広間に入ると皆が一斉に頭を下げる。久留米城の時よりは人数が少ないが俺に頭を下げているのだと思うと妙な気分になるな。久留米城の時は皆は父上に頭を下げていた。後ろを歩いていた俺ではない。そういえば昔父上と将棋をしているときにこれがどうも慣れないと言っていたな。あの時は父上は3歳の時から頭を下げられていただろうに変な話だと思ったがされる身になると少しわかる気がするな。皆が俺を見定めるつもりなのだ。常に緊張を保たねば。慣れてはいかん。
「皆、面をあげよ」
「「「ははっ」」」
促されて皆が顔をあげる。その中には讃岐の国人もいる。
ついこの間讃岐の制圧が特筆するようなこともなく終わった。どうやら讃岐の国人たちが細川の挙兵に従ったのは自分たちの好きなようにできる主人が欲しかったかららしい。三好でなければ惟宗と敵対することはないと思ったのだろう。たが細川になっても惟宗は攻めてきた。このままでは家を潰すことになる、自由にできなくても家を潰すよりはとすぐに惟宗に降るものが出てきた。三好を滅ぼしたというから油断しないようにと思っていたがなんというか拍子抜けだな。
「先日、父上に四国平定の報告をするべく使者を送ったがその使者が父上からの書状を携えて帰ってきた。今の状況と父上からのこれからの指示が書かれていた。とりあえず写しを皆に配る」
そう言ってそばに控えている小姓に写しを配らせる。
内容はさっき言ったとおり今の状況とこれからの指示が書かれている。畿内は大樹が挙兵して織田・浅井が近江で合流し、一両日中には大樹とも合流するだろうとのことだった。その数は約6万。叔父上や虎千代は抑えの兵3000を置いて和泉に退却した。そこには伊勢一族・細川藤孝・米田求政ら大樹を見限った幕府の直臣たちもついていったらしい。しかし6万か。惟宗以外にそれだけの兵を動かせる大名がいたのだな。もちろん織田・浅井の連合というのと惟宗のように周りを気にしながら上洛をしなくていいというのもあるだろうが。父上はこれに朝倉も加わると思われていたようだが兵を集めるための方便だったはずの加賀の一揆が本当に攻めてきそうになったらしい。
出雲の救援に向かっていた康胤は尼子の残党を追い払ったようだ。康胤は尼子勝久の頸を取りたかったようだが山中幸盛とかいう将に邪魔をされて逃げられたらしい。幸盛も適当なところで逃げ出したようだ。康胤はそのまま但馬・因幡の山名を攻めるようだ。いまのところ守勢に回っている惟宗では唯一攻めに出ている隊だな。使者の話では父上は播磨・安芸を制圧するころには因幡を制圧していてほしいと言っていたらしい。だが無理はできないとも。
安芸は2万の兵が囲んでいるが今のところは動きはない様だ。数でも質でも負けている一揆勢では籠城しかできないだろう。だが一揆の実質的な総大将はあの龍造寺鑑信らしい。叔父上を破った元大友の将で肥前の国人である龍造寺の一族。父上の肥前制圧のあおりを受けて筑後に逃げたと聞いたことがある。その後は蒲池・大友に仕えたようだが今度は一揆か。
播磨は父上が率いているからか士気が高い。皆、武功をたてて父上に名を覚えてもらいたいのだろう。惟宗は新参者でも出世しやすい。そもそも対馬の大名だったから譜代が少ないのだ。そういえば最近若狭の方から仕官してきた者たちがいたな。確か名は・・・沼田某。息子の方が父上の小姓になっていたはず。そういえば父上は妙なくらいに良き将を見抜いていたな。康胤や康繁・島津兄弟・康理。康胤はその中でも出世筆頭だろう。俺も良き将を見抜く目が欲しい。
制圧の方はそれなりに進んでいるようだ。さすがに上洛戦の時のようにはいかないだろうが博多や坊津で鉄砲や火薬を大量に仕入れていたおかげで大量に鉄砲・大筒・棒火矢を使える。一揆勢を近寄らせる前に多くを討ち取っているようだ。俺が書状を送った時には英賀城を落としたようだ。棒火矢で城内に攻撃を仕掛けて大筒で門を壊し、敵が出てくれば鉄砲で多くを討ち取ったらしい。それでも近づいてきた敵には数で一気に負かしたらしい。今は佐用郡・赤穂郡・揖西郡・揖東郡・飾西郡・飾東郡を制圧したようだ。これらは国人や大名が乱立していた場所だから制圧は容易だっただろう。だが東播磨は別所が統一している。勝てるだろうが時間はかかるだろうな。
「その写しを読んでもらってわかるように父上の方もうまくいっているようだ。だが叔父上の方は6万もの敵を相手にしなければならない。よって父上の指示通り1万の兵を御爺に任せて和泉に上陸させる。残りの5000は播磨に上陸して父上を助ける。頼安」
「はっ」
「阿波・讃岐の検地を行え。淡路の方は水軍に任せるそうだ」
「かしこまりました」
「阿波・讃岐の国人たちも必ず協力するように。これを邪魔したり逆らったりしたものはいかなるものでも切り捨てる許可は出ている。くれぐれも邪魔をしないように」
「「はっ」」
出雲や肥後では国人衆が快く思わずに反乱を計画したようだが父上がその前に反対するものは切り捨ててでもすると宣言したおかげか蜂起まではいかなかったらしい。ここでもこれだけ釘を刺しておけば大丈夫だろう。
「明日にはここを出る。それまで各々準備をしておけ」
「「「ははっ」」」




