出雲侵攻
―――――――――――1567年10月30日 大辻山――――――――――――
「うむ、皆そろっているな。面をあげよ」
「「「はっ」」」
促されて皆が顔をあげる。鎧が汚れている奴もいるが顔色は総じて悪くない。いまのところは順調に進んでいるからかな。
藤孝が帰った後、すぐに尼子攻めを開始した。なにせ滅ぼすべしという指示をもらったからな。それに義久が死んだことと惟宗が備後・備中を攻め取ったことでかなり混乱していた。こんな好機はそうないだろう。さっさと滅ぼさないと。ちなみに義久の跡は倫久が継いだらしいがまだ若いからな。俺が調略などでひっかきまわしたこともあってうまくまとめることができていないらしい。倫久は備前の宇喜多や因幡の武田高信と連絡を取っているようだがうまくいっていないらしい。それぞれ理由があるだろうがやっぱり義秋が認めなかったというのが大きいらしい。足利将軍家の正統な後継者という価値はここでも有効のようだ。
兵の数は安芸の一向衆が不安だから6万ほどにしておいた。そして邪魔されないよう一向衆が多い毛利・吉川・小早川は出雲攻めに参加させて安芸には2万の兵と勝良と時忠を置いている。もちろん一向衆に味方しないよう雑兵一人に至るまで宗派を確認しておいた。貞康は留守番だ。この際戸籍を作ろうかな。不安だから6万にして残りは対一向衆用に置いておくという手を取ることができるほど惟宗は大きくなった。兵の数などを把握するにはあった方がいい。少なくとも兵の戸籍のようなものは出来つつある。よし、兵たちの戸籍が完成したら九州から少しずつ作っていくか。大規模事業になるだろうが惟宗が天下を取るには必要なことだと思う。
6万の兵は本隊4万と別働隊2万の二つに分けた。本隊は出雲に攻め入り別働隊は美作に攻め入った。5日前までに出雲は月山富田城を除いてすべて惟宗に寝返ったか攻め落とされた。美作もあらかた制圧できたようだ。終わったら伯耆の方に攻め入るよう伝えているからこれでこの月山富田城を落とせば尼子は終わりだな。
「では軍議を行う。忠平、説明を」
「ははっ。では説明させていただきます。月山富田城には北麓の菅谷口からの大手道と正面の御子守口からの搦手道と南麓の塩谷口からの裏手道の3つの進入路がございます。兵の数は8000ほどです。伯耆や因幡の新尼子派が動き出す前に決着をつけるために3日後の夜中に奇襲を仕掛けます」
たぶん伯耆や因幡の国人たちはそう簡単に動けないと思うけどな。伯耆の国人たちは自分たちの領地の守りを固めている頃だろうし、因幡は史実とは違って武田高信と山名氏との争いがいまだに続いている。そう簡単には動けないだろう。
「まず夜中に25000の兵が正面の御子守口から攻め入ります。夜襲ということもあり敵も慌てて御子守口に集まると思われます。御子守口への攻撃から1刻後に別働隊1万が菅谷口から攻め入ります。残りの5000の兵は菅谷口に攻め入ってから1刻後に塩谷口から攻め入ります。今回の奇襲では理想では本丸まで、少なくとも山中御殿までは攻め落とすことが目標です」
つまり御子守口と菅谷口は囮で本命は塩谷口ということだな。囮の方は片方だけでも城の兵より多いのだ。うまくいけば三方から同時に山中御殿を攻めることができるかもしれないな。
「菅谷口を攻める隊を率いるのは鑑連殿と康繁殿・成幸殿にお任せします。塩谷口は康正殿・盛円殿・康胤殿にお任せします。他の方々は御子守口に攻め入っていただきます」
一番兵が少ない塩谷口を康正に任せるのは少し不安だが康胤がいるから問題ないだろう。菅谷口は舅殿がいるから大丈夫だ。
「また奇襲を仕掛ける前の日までは昼夜問わず不規則に大筒や棒火矢など遠距離から攻撃します」
昼夜問わず不規則にだと気を抜いて休むことはできないだろうな。夜中に大筒が撃ち込まれたら相当驚くだろう。それに3日も続ければ大筒の音がしたとしても反応が薄くなるかもしれない。そこに本当に攻め込むんだから対応が遅れるかもしれないな。完全に隙を突かれた寝不足の兵にそれより多くのしっかり睡眠のとれた兵が攻め入る。負ける気がしないな。




