第五章 竜殺し
旅立ったあの日から約11ヶ月半の月日が流れた。
今生き残っているのはリーヴ、アヴィーナ、ラル、カル、トルネス、ベスト、バード、リジィの8人だ。思えば随分と死んだものだ。それとも、まだ半数も残っていると思うべきなのか、それは神のみぞ知るところではあったが。
「気をつけろ……」
そう始めに警戒を促したのは豊富な経験を持つ女剣士のリジィだった。けれど、言われるでもなく、彼らは皆わかっていた。
膨大な魔力の気配だ。もしかしたら、今度こそ魔王の出現だろうか。
噂では、魔王は銀髪赤眼の美しい容姿をした男なのだという。
嘘か本当かは知らないが、悪魔と人間の外見的特徴の差が耳が尖っているかいないかとかそのあたりしか無いあたりから考えたら、全くの信憑性がない話とも言えなかった。
どんどんと近づいてくる魔力の波動とプレッシャーに、アヴィーナの喉がゴクリとなる。そんな彼女の様子に気付いたのだろう、リーヴは小さく声をかける。
「アヴィーナ」
「大丈夫、心配しないで。ただの武者震いだから」
そういって、不敵に笑う彼女に、ふと唇の端だけに乗った笑みで返して、リーヴもまた剣を構え直した。
(……来る)
その予感と共に、膨大な風を背負って、その『女』は現れた。
上空三十メートル。こちらの範囲外から風を従えつつ現れた美しい女は、これまた聞く物の耳をとろつかせるような美しい声でこう言った。
「ひょっとしてあんた達がこの辺を荒らしているって噂の人間達?」
その高圧的な魔力といい、隙など欠片もないその佇まいは、彼女を高位の悪魔だと雄弁に語っていたが、しかしフワフワとした巻き髪が美しいその女魔族は、こちらに敵意などもっていないかのように、まるで世間話をしに現れたかのような気安さで話をかけてきた。
「うわー……ただの与太話だと思ってたのに、本当に実在したんだー……うちらの領域にたったそれっぽっちで乗り込む命知らずっぷりと度胸には感心するけど、うわー……」
そういって女は頭の可哀想なものを見るような視線を人間達へと放った。それからしみじみとした声で思い出したようにその巻き毛の女魔族は呟く。
「あ、いや、でもそりゃいるわよねえ……ベレンシティアが殺られたって話だったんだし。あ、うん。実在疑ってごめんね?」
そういって、やはりある種の同情じみた視線を向けてそんな軽い謝罪を女魔族は口にした。どうでもいいがその口調と良い態度と良いフランク過ぎてリーヴやアヴィーナは却って苛立ちさえ感じていた。もっとも、いくらおちゃらけた女であろうと、下手な口出しをしたら次の瞬間攻撃してきそうな気配もあったので余計なことを口にする事もなかったが。
「ベレンシティア?」
しかし、彼女が今し方口にした聞き覚えのないその名前を前に、リーヴが訝しみながらその名をオウム返しに呟くと、風の適正が強いからだろうか、小声でもキチンと拾っていたらしい。女は「ああ、うん、あんたたちに殺されたわたしの妹」とかまるで世間話をするような気軽さで自分が口にした名前の人物の正体を明かした。
それにピクリと反応を返しながら瑠璃髪の剣士は呟く。
「何?」
「んー、氷と風の使い手で、狼タイプの精獣使いの子だったんだけど、身に覚えない?」
そんな相手もいたような気もするが、なにせ約1年にも渡る旅の中、魔族に襲撃されてきた経験は両手の指じゃ足りないほどあったのだ。仮にその中に女の言う通り、この女魔族の妹がいたんだとしても、これまで戦った相手を思えば、そんなの一々記憶していられるわけがなかった。
いや、それ以前に、このやけに脳天気な大魔族らしき女と会話に興じる理由とてなかった。剣の構えを守りの方に切り替えながら、低く凍るような声音でリーヴは女へ問うた。
「で? テメエは妹の仇討ちに現れたであってんのか?」
そして女魔族が攻め込んでくるのを覚悟して備えていたわけだが……。
「はぁ?」
そんな声と共にその可能性は断ち消えた。
「なんでわたしが妹の仇討ちなんてわざわざするのよ。主従の絆結んでいるわけじゃあるまいし。人間ってつくづく変な思考回路してるわねえ」
そんなことをしみじみ呟く女魔族だったが、正直女のその思考回路のほうがよっぽど理解出来ない。
「わたしたち魔族にとって大事なのは血縁よりも主従の絆よ。主や配下の仇討ちならまだしも、とうに成人して道を違えた血縁者の仇をわざわざ討とうとするような好き者魔族には普通いないわよ。人間ってそんなことも知らないの?」
そういって、呆れたとばかりに女は首を捻って腕を組んだ。
「じゃあなんのために俺達の前に現れた」
少なくとも、女に攻撃の意志は見受けられない。それでも油断する事なく構えながらリーヴは問うた。
「決まっているじゃない。興味が湧いたからよ」
キッパリとそう言い切り、女魔族はくるくると風を纏いながら優雅に舞った。
「そんな少人数の吹けば飛ぶような人数でさ、わざわざわたしたちのホームグラウンドのド真ん中を通って突き進んでるってんだから、そりゃあ興味湧くでしょ。まあ、はぐれ魔族の領地ばっかり通ってるあたり、余程危険回避能力強い奴いるんだろけど。さしずめ道を決めたのはそっちの彼かしらね?」
そういってチラリと女はトルネスへと視線を送る。が、それきり興味をなくしたように再び元の調子に戻ってのんびりとさえ聞こえる声でゆったりと言う。
「ま、あんたたちの悪運の強さはこの際置いておくわ。下等は自分の領地荒らされたって怒ってあんたたち排除しようとしているけど、海のように寛大な心の持ち主のわたしとしては、そんなことよりなんでわざわざこんなとこに来たのかって動機のほうが気になるところなのよねえ」
そして女魔族は妖艶に微笑んで尋ねた。
「ねえ、なんで?」
それに、どう答えるべきかと一瞬リーヴは迷う。
本当のことを言うべきか、それとも……何も答えないべきか。しかし、後者を選べば次の瞬間首を刎ねに掛かってくるだろう。そんな予兆が女に対してあった。
故に一考した後、結局彼は正直にそれを答えた。
「魔王を倒すためだ」
その言葉が余程予想外だったのか、一瞬女の眼が驚きに見開かれる。続いて、一拍を置いた後「あっはっはっはっは」そんな声高な爆笑と共に空中で女は腹を抱えて転げ回った。
「え!? 何、あんたたち、魔王様殺しにきたの!? 本気で?」
心底おかしそうに笑いながらの、両手を空で下に叩き付ける仕草と笑いすぎの涙つきでの台詞である。正直彼らとしてはなんでここまでこの女魔族に大笑いされなければならないのか釈然としない。
確かに魔王を倒そうなんて荒唐無稽なほどの無謀な企みなのかも知れないが、それでも少なくとも笑われる由縁はないと思い、ヒクヒクとリーヴのこめかみがひくつく。けれど、そんな男の様子など意にも介していないのだろう、女魔族は「ひー、ひー、おかしい、笑い死ぬ-」とか言いながら相変わらず大爆笑を続けていた。
「こ、コーネリオス様を倒そうとか、え、よくそんなこと思えたわね。ぷ、くく。確かに今はアレの時期だから青なら出来るかもだけどさ、人間の身で本当正気? 自殺志願者? それとも身体張ったコント? あー、もうウケるわー」
「それで、テメエは魔王じゃねえんだな?」
そう尋ねると、今までの美女台無しの大爆笑はどこにいったのかというほど、真面目な表情に戻って女魔族は言った。
「その目節穴? わたし如きがコーネリオス様なわけないでしょ。それにコーネリオス様はもっと美しいわ」
そうサラリと女魔族は言った。
「それにあの方を女と思うなんて、不敬よ、人間」
そういって優雅に女は笑んだ。
「……とはいえ、多分コーネリオス様はあんたたちみたいなのが来たら喜ぶわよねえ」
しかし、ふと彼の魔王の人となりを頭に浮かべ、急にしみじみとした口調でそんなことを呟く女魔族であったが、その女の物言いにこちとら魔王を倒しに来たってのに、来たら喜ぶってどういうことだ、と内心でリーヴはつっこんでいた。しかし、そんなリーヴ達の内心の反応はどうでもいいらしい女は、クスクスと妖艶にすら見える笑みで笑いながら、言う。
「そうそう、喜びなさい。魔王様の白亜の居城はね、ここから東に行って真っ直ぐ、あたしの翼で30分くらいの距離にあるわよ。目的地が近くて良かったわね」
そういって女はにっこりと笑い、「ただし……」と付け足した。
「……これでも、わたしはコーネリオス様の元部下でね。多分あの方はあんたたちをそのまま迎え入れられたほうが喜ぶとは思うし、わたしとしても出来る限りあの方のお心を慰められたらそれに勝るものはないんだけど、あんたたちがあの方の命を狙っている以上、ただで行かせちゃわたしの名が泣いちゃうわけよ。だから……」
そんなことを変わらぬ調子で告げると同時に、女の纏っていた風が質量を増し、うねりをあげる。
暴風が吹きすさび目を開けていられなくなるほど、風が轟音を奏で、周囲に土煙が舞う。それはまるで小型のハリケーンでも起こったかのようで。
そして……それは暴風の中心地からそれは現れた。
「……そんな……ッ」
「あれは……まさか」
それは伝説上の生物の筈だった。
風を纏い現れたそれは、鱗を纏い翼持つもの。蛇の王にして、幻想を纏うもの。
その名は風竜。
「この子はわたしの使役する精獣でね……ああ、魔界生まれの魔界育ちの精獣だから、精霊界育ちの子ほどは強くないからそこは安心していいわよ。とはいえ、あんた達にとっては充分過ぎるくらい強力だとは思うから、わたしはあんたたちには手を出さないけど、本気出さないと不味いことになると思うわよ?」
ま、2、3人喰ったら大人しくなるでしょうけど。そんな風に呟きながら女は笑った。
やがて、超高音の雄叫びを上げて、精獣だというドラゴンは翼を広げた。
「出来れば少しでも多く生き残って魔王様と遊んであげてね。それじゃ頑張って、じゃあねー」
そんな無責任な言葉とドラゴンだけを残して、風使いらしき大魔族の女は翠の羽で空を飛びどこぞへと帰って行った。
「そう、本当に頑張ってね……わたしたちはもうあの人の側にいてあげられないから」
だから、眼下の彼らを見下ろしながら、そんなふうに切ないまでの嘆願を込めて呟かれた女の本意など彼らにはわかるはずがなかった。
「くそっ」
そう苦み走った声を上げながらリーヴはフォーメーションを整える。言うまでもないことだが、ドラゴンなど対峙するのは正真正銘これがはじめてである。
寧ろ、実在を確認されたのすらこれが初めてなのだから当然であった。
(どうすればいい!?)
女の言葉が全て本当などと鵜呑みするほどリーヴは馬鹿ではない。しかし、女の言葉が本当なのであれば、この旅の目的地はもうすぐそこなのだ。だというのに、その前に立ちはだかるのが最強の幻想生物であるとは。
そんな葛藤に陥るリーヴを尻目に、褐色の肌をした女剣士が前に躍り出て、剣を翳しながら言った。
「……先に行け」
後ろも見ず厳しい顔をした女剣士は言う。
「何?」
「こいつは私の獲物だ」
その宣言と共に、彼女は雄叫びを上げ、竜へと斬りかかった。
「リジィ!?」
そんな彼女の行動に、慌てて援護射撃をしつつも、驚きアヴィーナは彼女の名をあげる。そんな少女にチラリと一瞥だけくれて、リジィは言った。
「ふん……私は元々武名を馳せたくて、この旅についてきたのだ」
そういって、ドラゴンの吐く風のブレスを左手の盾で流しつつ女は疾駆する。竜の前足は地面を割り、大小様々な石つぶてが襲う。しかしそれにすら全く臆する事はなく、駆け抜けながらニヤリと珊瑚色の瞳をした女剣士は不敵に笑って啖呵を切った。
「ドラゴン殺し。その名は悪くないと思わないか」
その台詞に思わずアヴィーナもリーヴも言葉を失う。
「行けッ!」
行かぬ仲間を前に、再び彼女はそう鋭く声を上げる。強がった台詞を吐いてはいるが、それが己が足止めをするから今のうちに進めという意味であることくらい、皆理解していた。
アヴィーナは一瞬だけ戸惑う。そんな彼女を叱咤するように、怒鳴るような声で、リーダーを今は托されている瑠璃髪の剣士は叫ぶ。
「行くぞっ」
それに心は固まった。
ドラゴンを相手に無謀にも1人で戦う女剣士を背後において、彼らは女魔族が言っていた魔王の居城があるといわれる方角に向けて足を向ける。しかし、1人だけ、それに沿わぬものがいた。
「あ、バード!?」
見れば、短槍使いの少年は一拍の間を置いた後逆走し、今たった1人でドラゴンと対峙している女の横を目指して走っていった。
そんなバードの行動に、動揺を瞳に宿して揺らぐ少女を前に、瑠璃髪の剣士は短い声で再び先ほどと同じ台詞を言った。
「行くぞ」
「でも、バードが……ッ」
「あいつは行かせてやれ」
それでもう、今度こそ背後も振り返らず彼らは走った。
(これでいい)
遠離る足音を聞きながら、そんな風に褐色の肌の女剣士は思う。
(元より、死に場所を求めて私はこの旅に加わった。ならば、ここいらが潮時だ)
魔王の城がもうすぐと、それが真であるならば彼らは魔王の城にたどり着くだろう。ならば、此処で果てたとしても己の行動は無駄にはなり得ない。ならばいいのではないかとリジィは思う。
誰かがこのドラゴンの相手をせねばならないのなら、それは最初から死に場所を求めてやってきた自分の役目だろう。彼らの未来を繋ぐ礎になれるのなら、そんな終わりも悪くはない。
もしかすると、魔王の相手などこのドラゴン相手より余程きつい役目を背負わせてしまったのかも知れないが、それでも転移魔法の使い手でもあるトルネスが居る限り、彼らが生き残る可能性はゼロではない。なら、それでいいではないか。
出来るならばあの双子や菖蒲色の髪をしたあの純粋な少女には生き残って欲しい。自分は結局戦いの中でしか生きれないし生きたくない人種だったが、彼らはそんなことはないのだから。
……それでも、自分で選択したとはいえ、独り果てるだろう未来には、一抹の寂寞を感じてはいたけれど。
しかし、それは割り切る。
「ウオオオオーっ!」
己を奮い立たせるために勇ましく雄叫びを上げて、褐色肌の女剣士は2合3合とドラゴンとの鍔競り合いを演じた。
そんな孤軍奮闘の戦いがいつまでも続くと思っていた。
だが……。
竜との打ち合いも8合にも及ぼうとしたその時、約1年にも及ぼうこの旅ですっかり慣れ親しんだ気配が彼女の隣へと並んだ。
短槍使いの少年はドラゴンの瞳目掛けて槍の一撃を叩き込む。それを回避仕切れず、眼球を擦るようにして槍の穂先を受けた竜はギャアアと鳴いて宙へと回り昇った。
何故ここにいるのか。どうして戻ってきたのか。リジィの胸の中に動揺が広がる。
「バード……」
虚を突かれ、思わず呆然と少年の名を呼ぶが、それでも彼女は戦士だった。
たとえ疑問があったにしても、今は戦闘中で、敵は目の前にいる。だから、次にはもう怒りの声をあげる竜へと意識を集中させていた。だからといって、何も思わぬわけもない。
目から一筋の地を流しながら、それでも空中から一回転、急降下して2人をなぎ払おうと迫ったドラゴンの爪を前に、それら一連のドラゴンの動きをぎりぎりで見極め、攻撃を受け流しながら、それでも怒鳴るような声で彼女は自分同様竜の攻撃に対処している少年にむかって言い放つ。
「どうして戻ってきたッ」
少年は何も言わず、愛用の槍でドラゴンの攻撃を振り払った。
しかし自分で尋ねながらもリジィも察してはいた。けれど、寧ろそれが信じがたかった。
だが、まるでそのリジィの推測を肯定するように、少年は口元だけで薄く笑った。
そしてその背を彼女の前へと晒し、槍を構えこの巨敵へと対峙する。彼女が収まるだけのスペースだけをその隣に残して。
それだけで2人の間では充分だった。
これがこの少年なりの信頼の証であり、この行動が「背中を預ける」という意味である事くらい、ずっとこの旅の間バードと共に戦い続けてきた彼女にわからないはずがなかった。
だから、これはただの確認のための言葉。
「……最後まで私と一緒に戦おうってのか」
それにコクリと、無口で寡黙な少年は僅かに頷いて答えとした。
その言葉を聞いて、彼女は今まで気付いていなかった自身が望んでいた本当の願いがなんであったのか、ストンと理解し、それを受け入れた。
(嗚呼、そうか……)
自分の未来は彼女は独りで迎えるものだとずっと思ってきた。誰にも看取られることもなく、誰とも並ぶ事もなく、1人で戦い死ぬ。戦士としての末路などそういうものだろう、と。
そのことに不服はなかった。
たとえ一族の事情がどうであったとしても、それでもやはり彼女が戦士であったのは変わりなかったし、他の部族の娘のように家庭を持ち守り生きていく生き方は、根っからの戦士である彼女には到底真似出来ない。平穏など元から望んでいないのだ。強者との戦いが、死の瞬間まで歩みを止めないことこそが願いだった。そう在りたいと思っていた。
だからその最期がたとえ孤独なものとなるにしても、戦士としての当然の末路を疎うつもりもなかった。
けれど……。
(1人でないというのは、こんなに嬉しいものだったのか)
背中を預けれる相手がいる。信頼に足る相棒がすぐそこにいる。ならそれで充分だ。
(私は1人じゃないんだな)
それはとても幸せなことだと、リジィは思った。
たとえ、これが己の最期だとしても。
この先の物語が自分にありはしないとしても。
それでもいい。この瞬間彼女は確かに誰より幸せで、そして相棒と2人であるならば、それは敵が誰であろうと怖れる物ではないとそう思った。
知らず、笑う。
願いは叶った。迷いはなく悔いもない。盾を構え、剣を掲げて、彼女はこれから己が為す予定の偉業を剣気と共に叫び上げる。
「さあ、竜殺しの伝説を、ここで作り上げようじゃないか!」
――――――……たとえ、この次の刹那に何かを失ったとしても、それでもこの瞬間彼女は世界で1番幸福だった。
* * *
そうして、倒れた数多の命を背負って彼らは進んでいったのです。
* * *
……どれくらいの距離を走ったことだろうか。
三日三晩、食事や排泄を除けば走り続けたような気もする。
あの女魔族に言われた通り、東を目指してただ闇雲に彼らは前へと進んだ。そうしないとやっていけないという思いももしかすればあったのかもしれない。
そしてもうなんの危険な気配も感じないといった段階に入った時、漸く休息を申し渡した。
そして人心地がついたあと、青年の手を握りながら、菖蒲色の髪をツインテールに結い上げている少女は揺れる声でそれを尋ねた。
「ねぇ……リジィとバードは、ちゃんとあいつをやっつけれたのかしら……」
不安交じりに吐かれたそれは彼女の持つ願望の顕れでもあった。
あの女魔族が用意したドラゴンを倒し、何食わぬ顔をした2人が現れてくれるんじゃないかと。そんな希望的観測に浸るアヴィーナに向かって、リーヴは言った。
「希望論なんて吐いたところで、現実を知ったとき慰みにもならんと思うがな」
「でも、1%でも可能性が残っているのなら、それを信じて上げたいとあたしは思うわ」
その言葉に、ふといつかアークと語った言葉を彼は思い出した。
たとえ一分の可能性だろうと、それがあるなら想定したほうがいいと……こういうところが、兄妹だなと、そうアークは思った。
思えば、兄のほうとはともかく、妹のほうとこんな風に穏やかに話せる日が来るなんて思っても見なかった。そんな風に運命の不思議さになにやらむず痒いくすぐったさを覚えていると、耳に馴染んだおどおどした大男の声が届いた。
「な、なぁ、賢者様が、呼んでる、でだ……2人とも、来てけろ……」
「トルネスが?」
そういつも通りのおどおどした自信のないベストの声に、首を傾げながらアヴィーナは彼を見やって、リーヴと共に言われた通り今は休んでいたはずの賢人の元へと向かった。
「やぁ、2人とも休んでいた所、済まないね」
「……何か判明したのか?」
その言葉に、偉大なる魔法使いである男はひっそりと笑って、名を呼びながら、素質のないものの目にも映るほどくっきりと風の精霊を現世に降ろして、それに視線を向けながら言った。
「そうさなあ……あの魔族の彼女の言葉は本物だったといえばわかるかね」
その言葉に、ピクリと瑠璃髪の剣士は反応を返した。
「白亜の城。それが真に魔王の住まいというのなら、この先、4日も歩けばそれに突き当たるだろう」
* * *
そして遂に1年にも及ぶ旅の果てに、彼らは魔王の住まうお城へとたどり着いたのです。
* * *
近くで見れば見るほど、それは壮大な城だった。
美しい意匠に、細やかな彫り物の数々は真っ白な城を優雅に美しく見せている。大陸にある王都の城も遠目ながら見物したことはあったが、これに比べてみればあんなのはただの掘っ立て小屋だとさえ言える。それほどに本当に見事で美しい城だった。
ただ、魔王がここ数年1人だというのは本当だったということなのだろうか。
見た目はとても美しいにも関わらず、人の気配が無くもの悲しい風情が漂っている。
こんなに美しい城なのに、まるでそれそのものが嘆き悲しんでいるかのようだとそうアヴィーナは思った。
「……こんなところにいたのか」
「リーヴ……」
自分を呼んだのが誰なのかに気付き、彼女は静かな声で青年へと視線を投げた。その静かな瞳に、大人びた色を感じて、思わず瑠璃髪の青年はドキリとする。
初めて出会ったときは、そのお転婆な振る舞いも相俟ってどこのガキンチョだと思ったものだ。なのに本当にいつの間にこんなに大人っぽくなったのか。
少女から女へと花開いていくその姿は、とてもじゃないが正視出来ないと思うものだ。
どうやって接して良いのか、人付き合いがあまり上手くないし、しようともこれまでしてこなかった彼にしてみれば、正直戸惑うしかない。故にいつも以上にぶっきらぼうになる口調でリーヴは言った。
「魔王の城を見ていたのか」
「ええ……」
そういって会話が途切れる。
どんなに美しく綺麗に見えても、あれは魔王の住まう敵の居城だ。自分達の墓場となる確率の最も高い建造物。終わりはもうすぐだ。そう思えば、この時間さえ少しだけ勿体ないような気さえした。
同じように思ったのか、クルリと背を向けた少女は、凛と響く声で尋ねた。
「ねえ、初めて会ったときのこと覚えている?」
覚えてはいる。しかしそれがどうしたのか。困惑のままに「ああ。だがなんだ?」と彼が問い返すと、すると少女はふふと懐かしそうに笑いながら言った。
「あたしさ、はじめてあんたにあったあの時、なんて無礼な男なんだーって思ったのよね」
それは……そうだろう。そもそもこっちは別に好かれる気もなかったし、実際旅の趣向も理解していない子供は、物見遊山の見物客のようで不快でもあった。その分辛辣になったのもリーヴからすれば致し方ない事だろう。出来れば自分の言葉に憤慨したまま、帰ってくれればいいとすら思っていたのだ。
「腹が立って、もう絶対こいつぶん殴ろうとそう思ったのよ」
そういいながらクスクスとアヴィーナは笑う。
それは笑って話すことなのだろうか? リーヴにはわからない。
「でも、今なら思うの。確かにあたしはなんにもわかってなかったんだろうなぁ、って。……お遊戯気分って言われても仕方なかったのかもってね」
そう言って穏やかに目を細め、月を見上げる横顔は、乳臭いガキだとリーヴが思ったあの時の少女ではなく、1人の美しい「女」だった。
「ごめんなさい」
「なんで謝る」
すっと軽く頭を下げてアヴィーナは謝罪をする。
けれど、そんな女の行動は予想外だ。リーヴは夜惑いがちに、しかし顔色にはそれが出ないままにぶっきらぼうにその理由を問うた。
「覚悟しているつもりなだけで覚悟もなかったのに、この旅についてきてしまって。貴方があたしに怒ってたのもつまりそういうことなんでしょう?」
「アホか。それは謝ることじゃねえだろ。苛立った理由はそうでも、半分は八つ当たりだ。理由はどうあれ初対面の男に罵倒され良しとするほうがおかしい。テメエが怒るのは当然の権利だった」
そう、苦み走った顔で返答をすると、アヴィーナはクスクスと笑った。
「何故、笑う?」
そんな女の反応に彼は困惑した。顔にはあまり出ていないが酷く戸惑った。
だって、どう考えても自分の今の言葉にそんな風に穏やかに笑えるような要素はなかった。それにこの少女は自分の毒の含んだ台詞を聞いてそんな風に笑っていられるような性分の持ち主じゃなかったはずだ。なのに、自分の言葉を聞いて、こうやって穏やかに笑うなんて、まるで彼女の兄だったアークのようではないか。
外見はともかく、あまり中身の似ていない兄妹だと思っていたが、今ならよく似た兄妹だったのだと思える。彼女の今の反応は、こんな自分を「好ましい」といい、「友」と呼んだアークにそっくりだったから。
そんな動揺に浸る青年を前に、少女は月光を受けてまるで女神のように美しい微笑みを湛えながら優しげな声で言う。
「本当、貴方ってどうしようもなく不器用だわ、リーヴ」
普通それが慰めの言葉だなんて思わないわよ、そう言って少女はまた歌うように笑って言った。
「色んなことがあったわよね」
「ああ……」
色々、確かにあった。悪い事のほうが多かったが、良い事もなかったわけではない。友情なんてものも、自分が今胸に秘めている感情も、この旅がなければリーヴが生涯知る事はなかっただろう種類の宝物だろう。
アヴィーナはとても穏やかだ。まるで明日の決戦が控えていることなんて思わせもしないほどに。
リーヴはそんな彼女から目が離せなかった。どうしてなのか、なんて理由もう自覚出来ている。ただそれを言っていいものかわからなくて、ずっと胸にしまい込んでいた。
これは無意味な感情で、告げたところで意味はなくなるのだからと、そんな理由で自分を誤魔化していた。まさか彼女にこの類の想いを抱く日が来るなど、1年前の自分は果たして想像しただろうか。
きっと、今の自分の心を知ったなら、あり得ないと笑い飛ばしただろう。
誰かに惹かれる想いをすることを、誰かに胸を昂ぶらせるそんな自分を、かつての男はそんな未来を信じて等いなかった。
「あなたとはよく喧嘩をした」
「ああ」
「誰かを置き去りにしたり、死ぬのを見るのは本当に辛かった」
「そうか」
「けどね、悪い事もあったけど、良い事もなかったわけじゃなかった。それでも今ならそんな全てが愛おしいと、そう思うわ。あたしは、みんなに出会えて良かった」
「ああ……」
本当にその通りだと、そう思っての自分の言葉の熱に彼女は気付いただろうか?
気付いて欲しいのか、気付いて欲しくないのか、自分でもどちらなのかはわからなかったけれど。
そして、話題は明日についてに向かう。
「いよいよ明日ね」
「ああ……そうだな」
明日、自分達は魔王の城へと向かう。おそらく、これが最後の戦いとなることだろう。
「怖いか?」
「え?」
気付けばそんな台詞がリーヴの口から漏れていた。
「お前は、逃げたいとは思わないのか? 死ぬ覚悟なんて最初っからお前はなかったんだろう」
それに少女は少しだけ考えるような仕草をしたあと、それでもまっすぐリーヴを見て、凛とした翡翠の瞳に覚悟を湛えながら言った。
「逃げないわよ、あたしは」
そしてまた微笑う。
「確かに死ぬ覚悟はなかったし、今でもあたしは死ぬ気なんてない。それに貴方が思ってたとおりよ。人が簡単に死ぬなんてそんな当たり前のことさえあたしは碌にわかっていない小娘だった」
悲哀が、瞳に宿る。けれどそれも一瞬。アヴィーナはリーヴに指を伸ばした。
「けどね。それでいいんじゃないかとあたしは思ってる。たとえ明日斃れるとしても……それでもあたしは戦うわ。それが足止めをかってくれたリジィや、死んでいったみんなの想いを無駄にしないことだと思うから。あたしは魔王を倒し、帰る。生きるのを最後まで諦めない。それが、生き残ったものの、あたしの……義務だと思うから」
「お前……強かったんだな」
思わず、感心したような声で瑠璃髪の剣士は言葉を零す。それに少女は不敵に強く鮮やかな微笑みで「今更ね。知らなかったの?」そう言って笑った。
ドクリと、心臓が強く脈を打つ。
少女の指が男の頬に触れる。女らしく小さく……けれど、硬い指だ。弓を扱うもの特有の硬く筋くれたそれは、この美しい女が戦士であることを思わせる。
戦うものの手。
けれど、それは確かに暖かかった。
胸が締め付けられたように痛い。ズキリズキリと、これはなんの感情のざわめきなのだろう。リーヴにはわからない。知らない。この感情の正体が切なさというものであることなど。
「ねぇ、リーヴ。……約束して。貴方も最後まで生きるのを諦めず足掻くって」
「俺は……」
「お願い。最初っから諦めないで」
そうして祈るように彼女は嘆願をする。それは核心をつく言葉で。
「貴方を諦めないで」
(……俺の負けだ)
もしかしたら最初っから勝負になってなかったのかもしれない。あの3ヶ月前の夜、あの微笑みに目を奪われたその時から、彼女はリーヴにとって『特別』となった。
けれど、もうそれも終わる。
彼女は生き残るとそう口にしたけれど、しかし明日戦うのは魔王とだ。
魔王と呼ばれる存在について、判明していることはあまりにも少ない。生き残れるか、そんな可能性は塵芥に等しいほどに。なら、最後くらい許されるだろうか。自分の想いを告げて、許されるだろうか。
……彼女は受け入れてくれるだろうか。
愛しいと、抱きたいのだと思う事を。目を反らしてきた感情を。
「アヴィーナ」
(抱いても、いいのだろうか)
ずっと一族では厄介者だった。親しいものなどなく、籠の鳥たる己に不要だと親しいものを作ろうともせず、遂には毒のある言葉ばかりとなった、そんな碌でなしの自分が抱いた生まれて初めての感情を告げてもいいだろうか。
「俺は、お前のことが……」
その台詞の続きは、少女の微笑みと指によって遮られた。
彼女はキラキラとした光を湛えた瞳で自分を見上げながら、リーヴの薄い唇を2本の指で塞ぎ、「その先はまだダメ」とそう言った。
「その続きは魔王を倒して帰ってから。まだ今は言わないで」
そして気付く。彼女の指が震えていることに。
「ねぇ、手を繋いでもいいかしら?」
「ああ……」
地面に座り込んだリーヴの背に、自分の背中をくっつけるようにして座り込んだ彼女の手をそっと握る。それにほっとした気配を吐きながら彼女は言う。
「ねぇ、リーヴ。あたしね……」
その続きは空に溶けた。
アヴィーナとリーヴが何事かを語っている。聞こうと思えば聞こえるが、実際に声を拾ったりなどは無粋だとわかっているからこそしなかった。
けれど仲睦まじげに背中合わせで座って手を握りしめているそんな2人を離れてみながら、グイグイと双子魔道士の片割れたる少年は、魔法の師たる男のローブを引っ張りながら、幼い疑問を零した。
「……ねえ、あの2人付き合ってるのか?」
「恋人さん?」
そういって、じっと釣り目気味の瞳で見上げてくるラルと、垂れ気味の目でほわんと尋ねてくるカルの2人を前に、トルネスは苦笑しながら、こう答える。
「さて、な。互いに好いておるのは明白だがな……」
「ふぅん?」
「付き合っちゃえばいいのに」
そうやって自分の前だけは饒舌にそんな言葉を交わす2人に苦笑しつつ、トルネスは2人の頭を優しく撫でて、それから諭すような声で言った。
「大人はそう簡単にはゆかぬのだ。そなたらには早い話だがな……」
「そうなのか」
「めんどくさいんだねー」
そんな2人の反応に苦笑しながらも、トルネスは優しい声で言った。
「……さて、そろそろ眠りなさい」
「うん、わかった」
「はい、せんせー」
そして素直な双子はトルネスの足下に固まり、その身体を横たえた。
この2人はトルネスの実子でこそないが、弟子として預けられてからの5年、ずっと手元で育ててきたのだ。そんな2人は我が子同様に愛おしい。また、この幼さで戦う事を選ぶしかなかったその身の上は、我が身と被って尚痛ましい。
2人の頭を撫でながら、眠ったのを確認すると、トルネスの思考はあの菖蒲色の髪をした少女と瑠璃髪の青年のことについて向かう。
最初の諍いばかりだった時が嘘のように、今では互いを思い遣っている2つの魂。その行き先を想い、胸苦しくなる。
人はトルネスは未来を視るというが、本当に未来が見えるというわけではない。
結局、己はただの魔術的素養に長けただけのヒトに過ぎぬのだから。ただそれでも闇の次に時に長けたる身は最も高い可能性をカードを通して視る。それがあまりに当たるから、ヒトは己を未来を視れる人間なのだとそう呼んだ。
そして何度やっても、あの2人の未来の結果は同じだった。
低い声でポツリとカードをめくりながらトルネスは呟く。
「……願わくば今だけでも、想いを通じ合わせれるならそうあってほしいものだ」
……それが儚く崩れる夢であろうことは、知っていたけれど。
トルネスはカードを見つめる。意味は逆位置の恋人。その意味は……――――――。
……やがて日が昇る。
終わりの朝だ。あとはもう逃げる道などない。進むだけだ。
それがわかっているからこそ、最後の食事を取り、悔いを残さぬよう彼らは立ち上がった。
先頭に菖蒲色の髪を2つ揺らした乙女が降り立つ。
その後ろには、リーヴ、ベスト、ラルとカル、トルネスの5人が立っている。
けれど、見ればあの大柄な槍使いの青年は震えているようだ。
そんな彼を苦笑しながら見て、静かな声でアヴィーナは問うた。
「ねえ、ベスト、貴方怖いの?」
怖がっても不思議ではなかった。未知の魔王との戦いなのだ。自分だって、不安はある。増してこの青年は最初っから、図体の大きさに反して臆病で涙もろく気弱な青年だった。これまで彼が生き残ってきたのだって、運や身体能力の高さもあるだろうが、その臆病さ故にだろう。
「……怖ぇ……よ。……そりゃ怖ぇ……」
それに震えつつ、ベストは答える。思わず、それに口出ししようとリーヴが口を開けかけるが、しかしそれよりも早く、ベストにしては精一杯の勇気を瞳に宿して、双子を見つめながら、決心した口調で彼は言った。
「だども、オラはこの子だちを、守りてぇって……守るって、決めただ……」
その言葉に少しだけアヴィーナは目を見開く。思えば、今までの戦闘でだってベストはこの双子の側に割といた気はする。まあ、当然だろう。双子はあくまでも魔法使いであり、魔法以外に身を守る手段も持たない。だから、詠唱時間中守るのは自分の役目だと、気弱でありながら優しいこの大きな男が思ったのだとしてもおかしくはなかった。
「オラは、今まで、誰も守れねがった……マリリンをさ、見殺しに、じただけでね……オラは、誰も、守れながった……だども、もう、誰が死ぬ姿も見たくなんだぁねえだ」
悲痛と無力感と哀願が混ざったようなその宣言。アヴィーナには男の気持ちがよくわかった。
そうだ。確かにもう、誰が死ぬ姿も見たくない。
みんな生きて帰る。そんなの御伽噺でしかないのだろうけど、ハッピーエンドの英雄譚があってもいいのではないか。
「オラは、皆の分も、この子ら守るだめ、戦う。だから、怖くっても、もう……平気だ」
「そう、決めたのね。なら……守り通さないとダメよ」
そして彼女は皆に聞こえるよう、その号令の言葉を吐いた。
「行きましょう、みんな」
そして彼らは魔王の城へと踏み込んだ。
続く
次回で完結です。




