第四章 月下の微笑み
いくつもの涙がありました。
いくつもの死がありました。
最初は15人いた仲間達はひとり、またひとりと倒れていったのです。
* * *
カズというリーダーを失い、彼らは言葉を無くしていた。
彼は多少口うるさいところがなかったとはいえないが、誰にでも冷静に公平に接する良いリーダーだった。その彼の死は誰の心にも深い闇を落とし込む。けれど、そのリーダーの最後に托した言葉はアヴィーナには理解に苦しむ遺言だった。
彼はリーヴに皆を頼むと、リーダーを托した。
どうしてリーヴなのだろうか、アヴィーナにはわからない。あの時、ズタボロのカズに対してもいつも通りの冷酷な口ぶりで接したあの瑠璃髪の剣士にアヴィーナは怒りを感じたのだ。なんであんな酷いことばかり言うのかと思った。だけど、カズはそんな毒舌とも言えるリーヴの言葉を聞いて微笑った。2人は何かが通じ合っているようだった。
でも、だからといって何故この男にリーダーを托したのだろう。どう考えても選択ミスにしか見えない。リーダーなら兄のアークでいいじゃないか。なんならリジィでもいい。年長者で偉大なる魔法使いであることを鑑みてトルネスでも良いかもしれない。よりにもよってあんな非友好的で一匹狼気取っている男にリーダーがつとまるなんて思えなかった。
だけど……。
アヴィーナはチラリと瑠璃髪男の背中を見る。そしてその手を見やった。ずっと、カズの元から旅立ってから握りしめられているその右手。それはまるで置き去りにするしかなかった無力な己を責めているかのようで。
(意外だわ……)
アヴィーナはリーヴのことを冷酷な男だと認識していた。
何故なら死に逝くものに対しても、彼の言葉の毒は変わらない。いつも辛辣で酷い物言いばかりだ。だから見下すような紫水晶の瞳と併せて誰に対しても冷酷非道な男だと思っていたのだ。
兄は言った。
これまで何度も。アヴィーナが思うほど、リーヴは冷酷じゃない。彼は不器用なだけだ、と。
今ならばその言葉を漸く信じられるかもしれない。
そう思った。
しかしそれとは別に、彼にカズの代わりを務められるとは思えない気持ちも消えずにあったのだ。
(これからどうなるのかしら……)
魔王を倒すことがたった1つの目的であるこの旅で、しかし死者が出るのは魔王とは関係ないところでばかりだ。魔族の襲撃も、自分達こそ領土侵犯の侵入者であることを鑑みれば起こって当然のことなのだから、それで文句を言うのもおかしな話なのだろう。
理屈としてはちゃんとわかっている。けれど感情まではそんな簡単にはいかない。
わからなくなるのだ。
自分達は一体なんのために、あの日旅立ったのか。この旅の存在意義とはなんなのか。教えてもらえるものなら教えて欲しい。
そんな彼女の前に、良い匂いと共に焼けた肉が差し出された。
「兄様……」
「アヴィーナ、疲れているのかい?」
そんな気遣う台詞と共に兄は微笑みながら、アヴィーナに串に刺さっているそれを差し出した。
「でも、食べれるときは食べないと駄目だよ」
それは正論だろう。いつだって食べ物があるとは限らないのだから、食べれる時に食べて体力をつけていないとあっという間に病気にかかって旅から脱落する羽目になる。そんな兄の心配と気遣いが嬉しくて、少しだけ囓るように肉を口に含んだ。
「なんで人ってこんなに呆気なく死ぬのかしら……」
それはいつかもカズに放ったのと同じ疑問だった。
しかし、それにアークが何かしらを返すよりも早く、ある意味このチームの一番の荷物でもある斧使いの青年のだみ声が耳に届いた。
「っけ、あの野郎が死んだくらいで何びびってんだ、俺様がまだいるってのによ」
そういってふんぞり返るのは、正直今までの旅で最も役に立っていないといっていい、図体だけはでかい斧使いの青年のオーグだ。
「寧ろ、小うるさい奴がいなくなって、せいせいするだろうが」
「オーグ、あなた……!」
そういってゲハハハと下品に笑う、オーグを前に、アヴィーナは気色ばみ方眉を釣り上げる。
「大体、リーダーになるべきはこのアマスク族長の息子でヒーローの俺様だってのに、あの野郎いつも自分がリーダー面しやがってよ! ったく何様だってんだ、たかがアマスク分家のアマニエ一族出身の分際でよ!」
そうして暴言を更に重ねようとした瞬間、ヒュッと風切り音と同時にオーグの身体は背後の木に衣服ごと縫い止められていた。
首の真横に突き刺さった弓矢と薄皮が裂け血が流れる自身の様子に、一体何が起こったのか理解出来ずオーグは視線を彷徨わせる。
その目の前でいつの間に弓を射ったのかわからぬまでも、愛用の弓を構えた中性的な青年が硬いテノールの声で言った。
「そこまでだ。死者を冒涜するような言葉は慎んでもらおう」
「……ッ、テメエ、何しやがる!」
顔は笑みを模っているが、目は笑っていない。そんな顔で優雅に立つアークを前に、彼に射られたと理解した途端激昂し声を張り上げたオーグだったが、次の瞬間放ったアークの言葉に固まった。
「それ以上囀るようなら、君の息子を使い物に出来なくするが、いいかい?」
にっこりと秀麗な微笑みと共に吐かれたその言葉を前に、流石のオーグも固まる。すると、今まで用を足しにいっていて今戻ってきたらしいリーヴが、アークの肩に手を置いて言った。
「止めとけ。こんな野郎に放つ矢が勿体ねぇだろうが」
「それもそうだね」
そういってニコニコと笑いながら「大丈夫かい?」と言いつつ、自分が放った矢を引き抜いていくアークであったが、その一見優しげな笑顔にすっかりトラウマを覚えたらしい。オーグはその大柄な身体を大げさなくらいびくつかせて、アークから距離を取った。
……前からわかっていたことではあるが、これが改めてこのパーティーの中で最も怒らせると怖い人間がアークであることが露呈した瞬間でもあった。
しかし、それでも懲りない人間は懲りぬのだ。
そのことを、理解しているべきだったのかもしれない。
その夜、アヴィーナは妙な音を耳に捕らえ、浅い眠りから目覚めた。
『…………ん……ッ』
くぐもったような声。だがこれはミアンナの声ではないだろうか?
確か今日の寝ずの番はミアンナとオーグの2人だった。
そこではっとする。前から問題発言や行動が多かったオーグではあるが、カズの死により益々顕著となっていたあの男と、くぐもったミアンナの声。嫌な予感がした。まさか。
ミアンナの声が漏れた方向へとばっとアヴィーナは駆けた。そこで見たのは……。
『このアマッ、暴れんじゃねえ』
ミアンナの上に馬乗りになり、周囲に聞こえないよう彼女の耳元でそう囁くような声で怒鳴るオーグと、オーグを押しのけようと口をオーグの大きな手で塞がれながらジタバタと自分の出来る限り暴れようとしているミアンナの姿だった。
「あんた、何してんのよ!」
言うが早いか、ばっと弓を構える。そのアヴィーナの声や行動に気付き、他の仲間達も飛び起き、集まってきた。
「ちっ、ガキが邪魔すんじゃねえ!」
そう焦りを含ませつつも逆上するように怒鳴るオーグだったが、その手に武器たる斧もなく、また男が弓使いの少女に気を取られた隙に、ミアンナは抜けだしピィーと指笛を吹いて鳥たちを呼んだ。
ギャアギャアと声を上げてミアンナに呼ばれた鳥たちは一直線にオーグに向かい、その頭に顔に、手足に鋭いくちばしを向ける。
「ぎゃあっ!」
そういって、助かろうとジタバタする男の側頭部にバードの槍がぶつけられ、オーグはその意識を失った。
やがて気絶から起きた時、オーグが見たのは、自分達を見下ろしている仲間達と、ギュウギュウに縛り上げられ、動けなくなった自身の身体だった。
「俺様に何しやがるっ! ほどけ、くそ、このくそったれどもめ!」
そんな風にジタバタする大男相手に怯むものなどそうそういるはずなく、アークはすっと代表するように前に進み出てそれから言った。
「何をしようとしたのか、言い分を聞こうか」
いつもの微笑みではなく、翡翠の瞳に冷淡な色さえ乗せながら菖蒲色の髪をした青年は問う。
「けっ」
それに不遜な態度で唾を吐き飛ばすオーグであったが、次の瞬間矢が男の耳を抉り、鮮血が地を舞った。
「ぎゃああっ」
痛みに驚き声を上げるオーグ。それを前にニッコリと笑いながらアークは言った。
「次はないよ?」
その言葉に本気を見たのだろう、オーグはもう黙ることはなく、代わりにそれを合図かのようにして、己の今まで抱えていた不満を丸ごとぶちまけていった。
「なんで俺がこんな目にあわなきゃいけねえんだ!」
「ずっと不満だった、主人公は俺様のはずだろうが、なのにあのカズの野郎が、俺様の出番を取っていったんだ」
「そうだ、俺様の武功はこんなもんじゃねえ、なのに、全部全部あの野郎が! 俺が本気を出せねえのはあいつのせいだったんだよ!」
「アマニエの屑のくせに!」
「大体死ぬなら俺様の盾になって死ぬべきだろうが! ふざけんなよ、あの役立たず!」
それらの言葉がいかに醜いものであるのか、それにすら気付くことはなく、まるで全て悪いのはカズであるといわんばかりに、自分は悪くないと彼は叫んだ。
それらを静かに聞き終えたあと、口元だけには笑みを浮かべながら、それでも侮蔑に染まった冷たい翡翠の瞳でオーグを見下し、凍えるような声でアークは尋ねた。
「それで? 何故ミアンナを襲った」
その言葉に後ろにいたミアンナがビクリと震えた。未遂だったとはいえ、怖い想いをした彼女を慰めるためだろう、同じ女であるリジィが彼女に肩を貸して、ポンとその長い髪を撫で落ち着かせようとしていた。
「は……決まってんだろうが。俺様はこの旅で魔王を倒し英雄になる男だぞ。前払いの報酬はあって然るべきだろうが! それによ、どうせその女は獣を扱うしか能のねえ屑だ。なら女として有効活用してやって何が悪い!? 自分の男におっ死なれた女にイイ思いさせてやろーって俺様の有り難い気遣……がっ!?」
オーグが全てを言う前に彼の身体は吹き飛ばされていた。
見れば、氷のように冷たい目をしたアークがその拳を赤く染めていた。何も言わず、再びアークは今しがた己が殴り飛ばした男へと近づき、再び今度は左の拳を振るう。
「ごふっ!?」
次は右。
「がはっ!」
左。交互でアークは何も言わず男の顔を殴り続けた。
アークは見た目は撫で肩と中性的で優しげな風貌も相まり、さほど筋力がついているようには見えないが、実際は弓の名手であり、その身体は鍛え上げられているため実際にはそれなりに力も強い。
けれど、自分よりも体格の良い相手の顔を容赦なく何度も拳を振るった結果、やがて拳にも血が滲みだす。それに気付き、止めるようにと何度目かの振り上げられた拳を、彼よりもやや白い男の手が止めた。
「……リーヴ」
「それ以上はやめとけ。そいつにゃあテメエが血を流す価値などない」
そういって止めたが、激昂し我を半分ほど失っていたアークの気持ちがわからないわけではなかった。
「魔王を倒すための報酬とか言ったな」
そうしてボコボコに殴られ顔を腫らしているオーグを前に、冷淡な声をかける。それにビクリと、斧使いだった大男の身体が揺れた。そんな男を侮蔑しながらも瑠璃髪の青年は言った。
「だが、魔王を倒すために旅立ち、命をかけてんのはこの女共だって同じだ。そして現状、このパーティーでもっとも役に立たない屑はミアンナじゃねえ、テメエだ、口だけの下衆野郎」
「っぐぁあッ!」
そう言って、リーヴは男の腹を靴の先で蹴り飛ばした。
縛られ、抵抗を奪われたオーグの身体は3メートルほど跳ねて、転がっていった。
次の日の朝、話し合いの結果、満場一致でオーグはこのまま縛って置き去りにしていくことになった。
特に妹がいるからだろうアークと、同じ女だったからだろうか、静かながらもリジィの意志は強く、あの男は害であるという結論で纏まった。
その後のオーグの末路を知るものはない。
しかし、彼らが旅立ってから10分と経たず聞こえてきた男の悲鳴が、何が起きたのを語ったようなものだった。
* * *
そこには、いくつもの絶望がありました。
* * *
ミアンナが死んだのは、オーグを置き去りにした日の3日後のことだった。
チェリックやメリックなどの彼女に懐いていた面々が死んだこともあるだろう。同郷であり、彼女が頼りにしていたカズが亡くなってしまったことも関係はしていただろう。それでもオーグに性的な意味で狙われ、無理強いされかけたという体験は彼女の中に残った最後の支柱を折るにはきっと充分だったのだろう。リジィはミアンナは眠れていないようだと、そう語った。
だから、それはある意味当然の結末だったのかもしれない。
其の日は小地震が起きた。
元々、マディウム大陸は大陸というよりは大小様々な国で構成された島国だったというのもあったのだろう。ちゃんとした大陸に比べると地震が起きやすい土壌にあった。
加えて、100年ほど前に起きた魔界との次元の穴の繋がり。それが切っ掛けで、マディウムは地震が起きやすい場所となっていた。……それはマディウム大陸と融合してしまった魔界も例外ではなく、寧ろ地震が起きる度に、地殻変動と名付けられた現象によって大陸と魔界は融合を深めていく。
仲間が気付いた時にはもう、遅かった。
「ミアンナッ!」
フラリと、崖の底に落ちていくミアンナを救えたものはいなかった。
もしかしたらあの縄使いの少年……チェリックが生きていたのなら、救えたのかも知れない。いつものように縄を自在に操って、落ち行く彼女の身体を繋いで止めることも出来ただろう。でも、それは今更言うには遅すぎるIFだった。
変動する大地の狭間に落ちた、彼女は最期何を想ったのだろうか。
その夜、彼女は今日の寝ずの番に当たっている人物に合うため、彼の元へと赴いた。
「ねぇ、トルネスちょっといい?」
そういって火の前に姿を晒すローブ姿の賢人へと声をかける。
トルネスは達観した老人そのものの穏やかな声で、言った。
「ああ、構わないよ」
そういって招き入れられたので、いつもはツインテールに結い上げている菖蒲色の髪を後ろに下ろした少女……アヴィーナは、チョコンとトルネスの前に言葉に甘え腰を落とした。
「白湯でも飲むかね?」
「ありがとう」
そう声をかけ、トルネスは湧かした湯を彼女へと渡す。
旅において水や塩は貴重な資源でもあり、このようなお湯でさえご馳走だ。それが分かっているからこそアヴィーナはそのトルネスの気遣いを有り難く受け取り、ふと、彼の足下に目線を落とした。
そこにはあの寡黙で幼い双子魔道士達が、スゥスゥと可愛らしい寝息を立てながら眠りに落ちている姿があった。
双子とはいっても、どちらも寡黙で全く同じ服装に身を包んでいるが、この2人は見分けがつかないほど似ているわけではない。
基本的にラルのほうが釣り目がちでむっすりとした感じの表情が多く、重力と雷を属性とするからその影響なのだろうか、その瞳は黄色みがかっているし、カルよりも少々背が高い。それに対しカルのほうがやや表情豊かで垂れ目で優しげであり、草と土の属性であるからか、その瞳の色は緑がかっていた。
そしてその性格を表すように、どちらもトルネスの元で眠りこけているのは同じだったが、ラルが自分の腕を枕に寝ているのに対し、カルのほうが甘えるように身体を丸めて、チョコンとトルネスの衣服を握りしめて眠っていた。
2人とも無口な子な上に、トルネスに懐いていて、トルネスべったりなので、呪文詠唱以外ではあまりアヴィーナは彼らの話す声すら聞いた事が無い。とはいっても寡黙なのはこの双子に限らないし、2人とも喋らなくてもやるべき事やするべきことは自主的に行うような良い子達だったから、それで心証が悪くなる事もなかったが、こんな風に無防備な姿の2人を見ると、なんだか珍しいものを見たような気分と、その幼さもあって心和むような心地だった。
「2人とも疲れているようでね。出来れば静かにしてくれると有り難い」
言われてみてみれば、双子の柔らかそうな顔の目元には隈が出来ている。
それはそうだろう。この子らは若干9歳……いや、この前10歳になったのか。どちらにせよ、そんな戦うには幼すぎるほど幼い子供達なのだ。アヴィーナだって、この子達の歳の頃は兎や鳥を仕留めるのがせいぜいで、とてもじゃないが魔族や魔王を相手に戦おうなんて思う事すらなかった。
こうしてみると可愛らしい普通の子達なのに、と悲しい気分になって、アヴィーナは瞳を細める。其れを見て、トルネスは……多分笑った。本当に笑ったのかは目深なフードのせいでわからなかったけど、その醸し出す柔らかい空気でそうだと思った。
しかし、今更ながら寝ずの番は免除されているとはいえ、どうしてこんな幼い子供達が自分達の旅についてこれるのだろうと、アヴィーナは気にかかった。それを読んでいたかのようにトルネスは言った。
「この子たちのことが、気になるのかね?」
「……ええ」
本当に心を読んでいるようだ。でもトルネスの雰囲気のせいもあるのだろう、別に不快ではなかった。
男はゆったりと懐から手製のカードを取り出し、それを手慰みのように繰りながら、落ち着いた声でトルネスは語った。
「この子達は生まれつき、類い希な霊力に恵まれていてね。日中は無意識に簡易魔法を行使して我らについてきておる。ラルは重力を、カルは土の魔法で負担を軽減しておるのよ。されど、いかに力有る子とて、まだ子供。その負担はまあ……凡庸の魔法使いならばとっくに昏倒してもおかしくないほどさね……」
「なんでこの子達は戦う事を決めたのですか?」
賢者と呼ばれている男を前に、敬語へと変えた口調でアヴィーナはそれを尋ねる。
確かに、魔王を倒すという今回の任務はとてつもなく大きなものだ。それこそ果たしたら英雄と呼ばれてもおかしくないほどの。けれど、いくら名を求めたのだとしても、親離れするにしても早すぎる、こんな幼さで旅に出ようなどとはどう考えてもおかしかった。
「戦う事を決めたわけではないわなぁ……」
「え?」
「戦うしか道がないから、この子らは来たのさね」
そういって、男がひらりと翳したのは「迫害」を示すカードだった。
「この子達は見ての通り双子でな。同性の双子は凶兆の証と昔から言われておる。凶兆持ちしものを葬るは何時の日も人の習わしよ。実際、もしこれほどの霊力的素質と魔法の才がなければこの子達はとうに殺されておった。そして今でもその蔑視の目は消えたわけではない。殺せという声も……な」
その言葉に、キュッと心臓を掴まれたような気持ちに少女はなった。
(殺せと今でも命を狙われている? こんな……可愛い子たちなのに)
そんな少女に苦笑じみた声を漏らしながら、それでもトルネスは話を続けた。
「親に疎まれ、持て余した末にこの子らは儂に預けられた。この子達に普通に生きる自由など元からなかった。わかるかね。魔王を倒したという功績でもなければ、この先、双子に対する世間の目は変わらぬ。この子たちはそれを理解した故に、自分達とこれから多く生まれてくるだろう同胞達の為に戦うことにしたのさね。……それが力持つものの義務でもあったからの」
「義務……」
その言葉で、アヴィーナが思い出したのは数ヶ月ほど前に褐色の女剣士が語った過去についてだった。
アヴィーナからしてみれば信じられないような過去を、『普通』のことなのだと語った彼女。けれど、本当になにも感じていないのならば、こんなところまで果たして彼女は来たりしただろうか?
いや、彼女だけではない。死んでいったチェリックやメリック、カズやミアンナ達だって、色んな想いを抱えて、それを胸にこの旅に参加したのだ。
けれど……その末路は……。
カズは言っていた。
人間はいつだって理不尽に死ぬものだ、と。
それでもアヴィーナはそんなこと認めたくないと思った。
みんな守りたいものがあったのに、自分達の大事なものを抱えていたのに、そんな風に死ぬしかないなんて、余りに酷い。
だから、ポロッと零した言葉は、泣き言といえる言葉だった。
「神様はどうしてあたしたちを救ってくれないのかな……」
この男は賢者の称号を持っているのだという。なら、答えを知っているんじゃないかと、そんな気持ちもなかったわけではないが、本当はただ自分が吐き出してしまいたいだけだった。
だから、答えが返ってくる事を期待していたというわけではない。けれど、トルネスは静かな声で尋ねた。
「君は、神という存在をどう考えているのかね」
改めて問われると、何かといわれてもよくわからない。それでもアヴィーナは彼女なりに一生懸命考え、答えた。
「何でも出来る存在でしょう。なら、あたしたちのことくらい救ってくれてもいいのに」
「なんでも出来る存在、それが君の中の答えなのかな?」
それに、顔を上げながら少女は尋ねた。
「違うの?」
「アヴィーナ。神は人を救うものではないのだよ」
「え?」
じゃあ、なんのために自分達は神様に日夜祈っているのだろう。
そんな風に思うアヴィーナに多分おそらく苦笑しながらトルネスは言う。
「人を救うのは結局は人の役目。神は人ではなく平等なるもの。祈り、願い、見守るもの。そして時に祟るもの。確かに、信仰は時に人を救うこともあるだろう。されど、依存は何も救わぬ」
パラパラと音を立て、僅かな光を発しながら、トルネスの持つカードが空を舞い踊る。そんなどこか幻想的な光景を見ながら、アヴィーナは賢人と呼ばれる男の顔……実際はフードに覆われていてどんな顔をしているのかはわからなかったが、をボンヤリと見上げた。
「依存……」
「神に頼り全てを神に投げるということは、人の意志を放棄すると同義よ。それは楽かも知れぬが……他者への押しつけからの進歩などない」
あの、オーグのようにね、そう言ってトルネスが笑えばカードは彼の手元へと戻った。
「他人頼みは駄目ってことね」
神様という存在が『他人』とは認識していなかったが、神とは力をもっているだけの赤の他人。別に親しい友人でもなんでもない。そういうことなら確かに、救って貰うのを期待するほうが間違っているのかもしれないと、アヴィーナは思った。
「アヴィーナ、君は良い子だ。そんな風に理解出来ぬものを理解しようと、思い悩む君の在り方はとても美しい。その優しさはそなたの美徳とさえ言えるだろう。誇りにして良い」
そう言って告げられる真摯な声が少しくすぐったくって、アヴィーナは落ち込んでいた自分の気持ちが浮上するのを感じた。
「トルネス、有り難う。少し元気になったわ」
「それは何より」
そういって老成した声でゆったりとトルネスは笑った。
なんとも和やかな空気だ。これはひょっとするといい機会なのかもしれない。甘えるようで悪いが、前々から気になっていたことについて、折角なのでアヴィーナは彼に尋ねる事にした。
「ねえ、トルネス、最後にもう一ついい?」
「構わぬよ」
「貴方、どうして素顔を隠しているの?」
それは出会った時からの疑問だった。目深に被ったフードと足や指先まですっぽり覆う、森の中を行く旅装としてはあり得ない魔法使いの正装。たとえ魔法使いでも旅に出る以上は、もう少し動きやすい格好へと変える筈だ。ラルやカルの2人のように。しかしそれでも変えぬということは理由があるということを示していた。
「……儂の風貌はとてもではないが、人に晒せるものではなくてね」
「別に傷や火傷の類なら気にしないわよ? それか凄く醜いのだとしても、外見ぐらいで偏見をもったりはしないわ」
そうなんでもないような顔で吐くアヴィーナには悪気はないことくらい、トルネスとてわかっていた。しかしだからこそ賢者と呼ばれている男は内心困ったな、と思う。
別に彼女が理由の1つとして連想したように、己の容姿は別段醜いというわけではない。しかし、もう一つの生まれつき持っている自分の問題もそうだが、魔王の噂を聞いたあの25年前から、この容姿は人に晒せるものではないと理解していたのだ。
「大体それじゃあ、前見えないでしょ。どうしてるの」
トルネスのフードは顎の下まですっぽりと彼の顔を隠すほど目深なものだ。こちらにトルネスの顔はわからないように、トルネスだとてあれではなんにも見えない筈なのである。アヴィーナは魔法使いという人種を見たのは彼がはじめてだったわけではなかったが、それでもここまで顔を隠すような魔法使いはトルネスがはじめてである。
そのフードの下が一体どうなっているのかと、それでどうやってものを見ているのだと、好奇心で翡翠の瞳を爛々と輝かせている少女に対し、トルネスは人前にそれを晒せないもう一つの理由の一端を仕方なく口に乗せることとした。
「……何、元より余り他人と同じようには見えぬ目だ。目で見ずとも問題ないよ」
その言葉に一瞬言葉を詰めて、それから申し訳なさそうに眉を落としつつ少女は尋ねた。
「ひょっとして、盲目なの?」
「いや……全き見えぬというわけではないが、まあ……似たようなものであろうな。この目も、この肌も太陽には弱く、魔法の加護なくば、月の光にすら晒す事は適わぬ」
月の光にさえ、この皮膚は焼かれるからの……そう自嘲するように吐かれた台詞に、アヴィーナは自分がトルネスの地雷を踏み抜いたのだと思って落ち込んだ。
「ごめんなさい……貴方が肌を隠してたのって体質上の問題だったのね」
「まあ、大体のところはそうと言ってよかろうな」
「別の理由もあるの?」
そしてトルネスは再び手元のカードに視線を落としながら、言った。
「生まれ持った身体もそうであろうが、儂の反属性は光故、光に関わりし力や、太陽の下では力が弱まる。莫大な霊威と引き替えに、そういう風に生まれついたのよ。……もっとも、霊威なくばそれはそれでとうに亡くなっておったろうがな」
そこでアヴィーナも思い出す。人も魔族も己の属性と反属性を持ち、それに影響された人生を歩むのだという。それは魔法使いだろうと普通の人間だろうと変わりない。しかし、魔族も魔法使いも、それとしての格が高ければ高いほど得意属性に対する威力が上がれば、同時に反属性に対するダメージ量も上がっていく。属性とはそういうものであるらしい。
そして魔族にも人間にも全ての属性を操れるものなど有り得はしない。
この旅に属性もバラバラな3人もの魔法使いがつけられたのも、きっとそういう理由だったのだろう。
魔王は魔族の頂点に立つものだという。ならば……。
「魔王の反属性は何であろうな……」
それが判明すれば勝てるのではないかと、これはそういうことなのだとアヴィーナは思った。
* * *
それでも彼らが魔王を討つことを諦めることはありませんでした。
何故なら……。
彼らの肩にはたくさんの民の命がかかっていたのです。
* * *
旅が始まって8ヶ月の月日が流れた。
こうして、悪魔の襲撃を受けるのは一体何回目なのだろうか。
既にわからない。きっと、星読みの賢者たるトルネスがいなければ、あの旅立ちの日からどれくらいの日々が経過したのかさえわからなかったことだろう。
魔界は広い。魔族の数自体は領土面積の割りに少ないからこそ、エンカウントしても大人数に襲われることはそう有る事ではなかったが、それでも終わりの見えない旅は、心を抉らずにはいられない。
今日の敵はどうやら、炎と風の使い手であったらしい。また、鳥型の精獣も使役することが可能らしくそれらの攻撃を、トルネスの放つ水と風の魔法で相殺して貰う合間に、攻撃と回避行動を繰り返す。
戦闘が始まってから、もう1時間近く経っていた。
集中力が切れた、といえばいいのか、それとも体力の限界が近づいていたのか、だからアヴィーナはその攻撃に気付けなかった。
「アヴィーナ!」
「え?」
ドンと、背を押される衝撃と共に大好きな兄の声が耳に届く。
兄より未熟だろうと、それでも彼女もまた戦士だった。上手く受け身を取り、とっさに起き上がって間を挟まず振り返る。その目に映ったのは、敵の魔族に腹を抉られる兄の姿だった。
「兄様ッ!」
「来るなっ離れろっ」
我を忘れ駆け寄りそうになるアヴィーナを止めたのは、他ならぬその兄、アーク自身の血反吐を吐くような声だった。そんな2人のやりとりを前にして、魔族はアークの腹部を貫いたまま、面白げに笑いながら次のようなことを戯れじみた口調で口にする。
「ほう、あれとは兄妹か。人間にしては中々に美しい兄妹だな。ふむ……良い事を思いついた。貴様ら兄妹以外の人間を全て葬った後、目の前で妹を犯したら、主はどのような顔を見せてくれるのだろうな?」
そう言いながら、色欲を滲ませ笑う魔族の男を前に、アークは口元から血を流しながらもクツリと笑った。
「何がおかしい。小僧」
「……傲慢だな、魔族。覚えておけ、その余裕こそが命取りになる」
そう不敵な笑みさえ浮かべながら彼は宣言し、アークは己の腹部に未だ埋め込まれたままであった魔族の腕を、更に押し込まれ抉れることを承知の上で、魔族の腰へと両手を回し、逃さぬとばかりに渾身の力を込めてしがみついた。
「トルネス殿、今だ、私ごとやれ!」
「貴様……ッ!?」
その言葉を合図のように、今まで攻めあぐねていたトルネスが攻撃のための長期呪文の詠唱へと取りかかる。
それで漸くアークの目的に気付いたのだろう、魔族は自分にしがみつく青年を振り落とそうと藻掻きながら鬼の形相で目を見開く。そんな魔族の男に向かって、口から血を滴らせながら、それでも壮絶に微笑って、アークは言った。
「私の接近を許したのが君の運の尽きだ。悪いが、私の黄泉路への連れになってもらおう」
自分の傷の具合など自分が一番わかっている。この傷ではどのみち助かりやしない。ならば、こいつのの相手は己が引き受けよう。きっと、あの賢者ならばそんな自分の状態ぐらい把握していることだろう。だったら、この命を無駄にしないためにも、此処で最も相応しい魔法を放ってくれるはずだ。それくらいアークはきちんとトルネスを信頼していた。
どうせ死ぬのならば、何かを為して死ぬ。そうでありたいと、それは1人の戦士としてのアークの望みでもあった。
自分の命が、仲間が生き残るための礎になるのなら、それだけで自分という人間への報酬としては何よりのものとなる。なら、結末はこれで充分だろう。
だからこそ笑う。やがて、トルネスの詠唱が始まる。その規模はこれまでに無く。発動前より自分の周囲30メートルを囲うようにして黒き円と銀色の光が広がる。この空気、この詠唱は闇の滅魔法だろうか。トルネスにとって最も相性の良い属性で紡がれるその言霊。その攻撃範囲内において生き残れるものなどいないだろう。そしてそれで構わないのだ。その間己はこの手を放さなければそれでいい。少なくともそれで、この戦いは終わる。この魔族も終わる。
発動まであと5秒――――――。
心残りがあるとしたら、妹のアヴィーナのことくらいだ。
でも大丈夫だろう。彼女は既に彼の、この旅で得たただ1人の親友に托しているのだから。
それでも出来るならば彼女が花嫁となり誰かに嫁ぐ未来も視てみたかったようには思う。それが見れないことは少しだけ残念だ。
あと、3秒――――――。
「兄様ッ」
そんな様々な思考に浸る彼の前に、妹の声が僅かに届く。その声があまりに必死で少しおかしい。
(思えば昔からあの子はずっとそうだった。)
自分の後ろをちょこまかとついてきて、弓を教えてと乞い、誰よりも自分に懐いてきた上から2番目の妹。
別に兄妹は自分だけじゃなかったのに、それでもあの子は自分が良いのだと、そんな我が儘を言っていつだってついてきた。たまに内心鬱陶しく感じることもあったけれど、アークはそんなひたむきでいつだって一生懸命な妹が可愛くて仕方なかったのだ。
嗚呼、そうだ。死出の旅だとわかっていながらこの旅についてくるといって聞かなかった彼女を止められなかったのは、本当の理由は……自分が寂しかったからだ。
いつかリーヴに語った内容とて別に嘘ではない。それでも、本当は自分があの子を側に置いておきたかったんだ。あの笑顔に救われていたから……支えを求めていた、自分の心の弱さがあの子を連れてきてしまったんだ。
そうだ、これは死出の旅だろう。
妹や友がこの先も生き残れるとはわからない。先に死ぬ自分は彼らを見守る事さえ出来やしない、
けれど、それでも……。
(それでも、願ってもいいかい?)
君の幸福を。
そして、親友と呼んだ男の行く末が、願わくば光に満ちたものであるように―――――。
そう、アークは願った。
それが彼の最期に知覚したものだった。
「兄様ッ」
魔族に腹を貫かれたまま、魔族にしがみつき自身と共に葬れと叫んだ兄を中心に半径15メートルにも及ぶ円が膨らみ、アヴィーナは反射的に兄の元へ向かおうと足を伸ばす。
しかし、兄を救いに行くはずの足はせき止められ、聞き慣れた男の声が鋭く叱咤の声を上げた。
「馬鹿ッ、何してやがる」
この魔法がどんなにヤバイのかわからないのかと、怒鳴りながら彼女の身体を担ぐ紫眼の男を前に、そんなものが眼に入らないようにアヴィーナは叫んだ。
「放してッ! 兄様がっ、兄様がっ」
「黙れッ」
パニックに落ちた少女の声に、負けぬほどの大きさで怒鳴り返して、リーヴは、彼女の身体を抱えて円の外に向かって全力で走った。
「“『フローディレクバ』”」
そして……最後に残された闇の精霊の名を合図に銀の柱が発動する。
後には何も残されなかった。
骨も髪も、アークがそこに居た痕跡すら残さず、破滅を司る闇魔法はそこにいた全ての命を飲み込み消えた。
「……そ、んな……」
フラリと、力なく彼女の足が崩れ落ちる。
ほんの数分前だ。ほんの数分前まで、兄はすぐ側にいたのに。
其の日の夜、今日はここで野営だと、ほんの3時間の移動後にそう告げられた。
そこまで、どうやって移動したのかアヴィーナは覚えていない。
何もかもが現実感がなく、なにもかもが色が失せて見える。
見回しても、どこにもあの優しい笑顔は見えない。
(どうして……)
どこにも兄の姿はいない。思い起こせばこんなに鮮やかに記憶に残っているのに……。
(あたしのせい……?)
あの時、兄はアヴィーナを突き飛ばして、あの魔族に腹部を貫かれた。本当なら貫かれるのは自分の筈だったのに。
(兄様が死んだのは、あたしの……)
フラリと、アヴィーナは覚束ない足取りで立ち上がる。
(あたしが、死ねば、よかったんだ……)
そんなことをアークが望んでいるはずがないというのは、冷静に考えたらわからないはずがなかった。けれど、彼女は参っていた。これまでの旅で何人も仲間が死んで、それでも彼女にとって兄の存在が心の支えだった。その兄が、自分を救ったが故に死んだということが、彼女の心の闇を増殖させていた。
(あたしが……死ねば……)
「何処に行く?」
その時、聞き覚えのある声が耳に届いて、アヴィーナはそれにつられるようにゆっくりと振り返った。
「……リーヴ」
そこに立っていたのは、兄が親友と呼んだ、瑠璃髪の男だった。それが険しい顔をして、睨むようにアヴィーナの顔を見ていた。
「もう一度言う。何処にいく気だ?」
「……どこだっていいでしょ」
今一番見たくない奴の顔を見た。そんな感情を滲ませながら視線を逸らすアヴィーナに対し、リーヴは冷血にすら見える紫水晶の瞳で見据えながら言った。
「死ににいく気か?」
「……ッ!」
それは図星だった。けれど、だからこそ腹が立った。
「ほっといてよ、あんたには関係ないでしょ!」
「関係ねぇわけあるか!!」
そういって、リーヴは怒鳴りながら、アヴィーナの元へと足早に近づき、彼女の手を行かせないとばかりにガッシリと掴み、引き留めた。
「放してッ」
「テメエが馬鹿なこと考えるのやめるまで放すかっ」
「放しなさいよ!」
「やらねえって言ってるだろ」
「放せ!」
アヴィーナにはもうわけがわからなかった。
この男は自分のことを嫌っていると思っていた。
そうでなければあんな最初の出会いから酷いことばかり言うはずがないと。そして大抵の人間に対しあんな物言いなものだから、人間嫌いなのだろうと。
この男は冷血な男なんだと。
なのに、どうしてこんな必死な顔で、この男は自分を今引き留めているのか。わけがわからない。
普段はあんな、他人なんて関係ねえといわんばかりに他者と一線を引いて、澄まし顔で、なのにどうして、こいつはまるで今我がことのように、アヴィーナが出そうとしている結論を止めようとしているのか?
魔王を倒すためのメンバーが少なくなって後の行程がきつくなるから?
そんな理由で自分を引き留めるとは思えない。そもそもやる気のない奴はいないほうがいいとすら考えていてもおかしくない。
こいつは冷たい男だった。だから自分なんかを引き留めるはずがないのに。
なのに、どうしてこの掴まれた腕は熱いのだろうか……?
わからない。何もかもわからない。もう感情なんて気持ちなんてぐちゃぐちゃの滅茶苦茶で、気付けば次から次へと溢れる涙がアヴィーナの視界を遮って、もう何も碌に見えやしない。
(どうして……)
だって、自分は、アヴィーナは、兄を、兄のアークを殺したも同然なのだ。
この男にとっても、兄は友だったはずだ。
(あたし、あたしが仇じゃない)
憎めばいい。恨めばいい。そうされるだけの理由はあるだろう。なのに何故、そのアメジストの瞳に怒りはあっても憎しみはないとそう思ってしまったのだろう。
何もかもわからなかった。
「なんでよ……なんで、関わるのよっ」
ひっくひっくとまるで子供みたいに泣きじゃくりながら、アヴィーナは訴えた。
「あ、あんたには、関係、ないでしょ……っ」
「関係ないわけあるかっ」
その真っ直ぐな言葉が、あまりにも予想と違って、思わず菖蒲色の髪をした少女は自分の腕を掴んだままの男の顔を見上げた。
「関係ねえわけがないだろうが……」
その瞳に映った感情をなんと表現すればいいのだろうか。
悲しいような、苦しいような、切ないような、全てがあっていてどこか違う。その瞳は喪失の痛みに濡れていた。
(なんて顔、してんのよ……)
思わず息を飲む。
それはまるで感情の表し方を忘れた子供の、泣き方を知らない子供のような目だった。
「約束をしたんだ」
そして、小さな声で男は呟く。
「あいつに托された。お前を頼むと。俺がお前を守る理由が必要だってんなら、それだけで充分だろうが……」
(嗚呼、そっか)
アヴィーナは思う。
(あたしだけじゃないんだ……)
兄の死が悲しいのは自分だけじゃなかった。
少なくともここにいるもう1人は自分と同じくらい、もしかすると自分以上にその死を嘆いている相手がいる。
なら、それだけでこちらも充分なのかもしれない。
いつか何度も兄は言っていた。
彼は自分を弁護する術を知らない。不器用な人間なのだと。
こんな風にしか親しい人間の死を嘆く事が出来ないのだとしたら、確かにこの男は稀に見る無器用ものだ。
そして彼女は思う。
(多分、あたしが思っていたよりもずっとずっと……危ういんだ、こいつ)
アヴィーナはこの日、初めてリーヴという男の素顔を見たような気がした。
ポタリと、また涙がこぼれる。
(なら、代わりに、こいつの分もあたしが泣いてもいいわよね?)
知らなかったことは今知った。なら、それでいい。
アヴィーナは涙する。でもそれはもう行き先不明の涙じゃなかった。そんな彼女を戸惑ったように、それとも不器用に慰めるかのように、リーヴは彼女の顔を見ないように肩を抱いて側に居た。
そうしてどれくらいたっただろうか。
随分と長い事こうしていた気もするし、案外短い間だったのかもしれない。
これまでの常だった喧嘩腰の態度もなく、今までになく落ち着いた静かな態度で、2人は手を繋いで背中合わせに座り込んでいた。
「ねぇ……ありがとう」
「何がだ」
ぶっきらぼうに瑠璃髪の剣士は言葉を返す。それにクスリと笑いながらツインテールの少女は言った。
「あんたってさ、陰険で冷淡で冷血非道な酷い奴だって思ってた」
「……おい」
それに少しだけ不機嫌気な色が混ざる。しかしそんなことを意に介さず、クスクスと笑いながらアヴィーナは言った。
「でも本当は優しかったのね。不器用なだけで」
「……優しかねェよ、変なもんでも拾い喰ったのか?」
「食べてないわよ、失礼ね。本当口悪いんだから」
そういって、アヴィーナは男の頬へと指を伸ばし、そっと輪郭をなぞると、そのアメジストの瞳を覗き込みながら言った。男の瞳の中には旅に出た当初よりも少し大人びた自分の姿が映し出されていた。
そしてそんな今まで自分を相手にしたことのない行動に出た菖蒲色の髪の少女に、リーヴは動揺と居心地の悪さを覚え、少しだけ顔を背ける。そんな青年を見ながら、ポツリとアヴィーナは彼が想像してもみなかった言葉を吐いた。
「あんたってさ……結構イイ男だったのね。知らなかった」
「……嬢ちゃん。俺をからかってんのか」
そういってたじろぐリーヴに対し、明るく笑いながらアヴィーナは言う。
「いーえ? 純然たる感想よ。それと、いい加減、嬢ちゃんって呼び名やめてよね」
そう言って笑った彼女は、今まで旅をして見てきた中で見た表情のどれよりも大人びて見えて、その微笑みにらしくもなくドキリと胸高鳴らせなかがら、しかしそんな自分の感情を気のせいだと思い込ませるように自身に暗示をかけつつ、リーヴは言った。
「……嬢ちゃんで充分だろう」
「アヴィーナ」
そんな彼を前に、間髪入れず彼女は言葉を正す。
まるで月下の女神のように、美しく柔らかくアヴィーナは微笑んだ。
それはまるで魔法のようで。
「アヴィーナと呼んで」
やがて一拍の間の後男はその唇を開く。
「アヴィーナ」
まるで魔法でも使っているかのように、今宵の彼女はとても美しい。その魔力に惹かれるように、男はその名を口にした。
少女は笑った。
* * *
そう、彼らの肩にはいくつもの想いがかかっていました。
それらを無駄にするわけにはいきませんでした。
いくつもの希望と、溢れんばかりの正義への思いが、どれほどの犠牲を経ても、彼らの足を立ち直らせたのです。
続く




