第三章 托されたもの
一騎当千の勇者達といえど、いつもなんの犠牲も払わずに勝利できるほど敵は甘くなく、ついに死人が出てしまったのです。
* * *
「チェリック……ッ!」
その悲鳴を上げたのが誰なのか、呼ばれた少年にはわからなかった。
同い年の菖蒲色の髪をした弓使いの少女か、それとも自身が置き去りにしてしまった弟分ともに姉のように懐いていた獣使いの女性の声だったのか、どちらかなど知覚出来よう筈がなかった。
「あ…………っ」
ごぷっという音と共に口元から血がせり上がってくる。一体何が起こったのか、チェリックにはわからなかった。ただ、急速にぼやけていく視界や僅かに耳が拾った情報の元、今し方己に攻撃を仕掛けた悪魔はどうやら仲間達に討ち取られたらしかった。ということだけがなんとかわかっただけだった。
そしてチェリックの元へとアヴィーナは少年の現状を見、正しく認識してしまったことによって言葉を失う。
チェリックの身体は真っ二つに断たれていたからだ。
上半身と下半身でわかれた身体は異臭と共にむき出しとなった腸で僅かに繋がれているだけで、誰がどう見ても助からない状態だ。普通なら即死していてもおかしくはない。
けれど、少年は意識はあれども、自身の状況を理解出来ていないらしい。虚ろな瞳で、血を吐きながらか細く息を吐き出し、言った。
「……なん……だよ、これ…………」
血の気の引いた顔で、ゼイゼイと血反吐を吐きながら、少年の顔が見る見るうちに恐怖へと染まっていく。
「なぁ……オイ、ラ、どう……なった、ん……だよ。ど……して、さむぃ……なん、で……」
チェリックの日焼けしたやや色黒い手が持ち上がる。それは必死に、なにかを掴もうとするように。
「オ、イラどう、なって……これ、なん、だよ……な、アヴィ、ーナ……なん、で」
ガチガチと少年の歯が音を鳴らす。その瞳は極限までの恐怖に引き攣り、生理的な涙がチェリックの琥珀の瞳を覆っていた。
それに菖蒲色の髪を2つに結った少女は答える言葉を持たない。いや、誰も答える言葉をここで持つものなんていなかった。けれど、それが余計に少年の恐怖を煽ったらしい。彼は答えを悟ってしまった。
「や、だよ……ッ、やだ……死にたく……ねェよぉ…………」
必死に手が伸ばされる。それを取る事は出来なかった。
「ィヤダァ……ッ、死にたくねェよォ……ッ! 母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん……!」
パニックに陥ったように、少年はそう最後にはっきりした声で母を呼びながら泣きじゃくった。それで力を使い果たしたのだろう。チェリックの手がポトリと地面に落ちる。瞳は恐怖に引き攣り涙で覆われたまま、でももう彼は息をしていなかった。
先の戦闘で右手を負傷したとはいえ、リーダーを自負するカズが代表とばかりにまず近寄る。そしてその手を取り脈を測ったあと、冷静に聞こえる声で周囲に聞こえるようにポツリと告げた。
「……もう、死んでる」
その言葉に思わず、アヴィーナは言葉を無くした。
けれど、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。それを誰よりもわかっているのだろう、双剣使いの青年はこう皆に告げて進む事を促した。
「悲しいことだけど、嘆いていてもはじまらない。彼の命を無駄にしない為にも進もう。……僕らは魔王を倒す。そうだろう? だから、立ち止まっている暇はないんだ」
その言葉にコクリと頷くしかなかった。
夕方になり、いつも通りカズの指示で森の片隅に腰を落ち着ける事になった。
カズの右手に巻かれた止血布に滲んだ血が痛ましい。ひょっとすると結構大きな怪我だったのかもしれない。不幸中の幸いはカズは双剣使いであり、片手が使えなくなったところで、武器をにぎり戦う事は可能だったことだろうか。
(それでも生きている……)
そんなことを考えながらアヴィーナが思い出すのは、今日の昼過ぎに息を引き取ったチェリックのことだった。
こうして旅立ったあの日から約5ヶ月の歳月が流れた。
その間、全くの犠牲者が出なかったかといったら嘘だ。
まず、針医療師のマリリンが亡くなった。とはいっても、彼女が亡くなったのはかなり旅の初期であったし、その死の目撃者はあの気弱な大男のベストだけだった。また知り合ったばかりでそれほど彼女と親しくしていたわけでもなかったので、死んだと聞かされても実感もなく「そうなんだ」としか思えなかった。
そして約2ヶ月ほど今度はメリックが死んだ。
とはいえ、その死の場面を見たというわけじゃない。何故なら自分たちは、なんの病気とも知れぬ病にかかって苦しんでいるメリックを置き去りにして進んできたのだから。けれど、状況的に見て間違いなく数日以内に命を落としていることだろう。それは確かなことだった。
けれどチェリックは……思い出すのは数時間前に見たあの光景だ。
恐怖に顔を引き攣らせ、死にたくないと母親の名を呼び泣き喚きながら命を落とした自分と同年齢の男の子。上下に真っ二つに裂かれた身体は即死しなかっただけでも奇跡なくらいだ。自分がどうなっているのかもし認識していたら、最期の言葉すら残すことなくショック死していたことだろう。
彼女は、仲間の無残な死を初めて見た。
無論、死体を見た事がないわけでもない。彼女は女でしかも成人である15歳を3ヶ月前に迎えたばかりの身の上ではあったが、同時にヴァレンティア一族の戦士でもあるのだ。
敵の無残な死体ならこの旅の間に自身でも何度も作り出したことはあったし、戦争から帰ってきた欠損死体なども見る機会はこれまで何度もあった。時には遺骨すら見つからないことだって珍しくはなかった。
それでも親しい仲間が、あんなふうに無意味とも思える死に方をしたのを見るのはこれが正真正銘初めてだった。恐怖に引き攣った顔と母を呼ぶ泣き声は今でも彼女の脳裏に色濃く残っている。
また、チェリックとメリック両名に姉のように懐かれていたミアンナや、涙もろい槍使いのベストもまた酷く落ち込み滅入っているようだった。それを気遣ってくれたのか、こちらを手伝わせるような真似すらせず、テキパキとした動きで強面の女剣士リジィと、いつも彼女とコンビで行動している短槍使いのバード、アヴィーナの兄であるアークとあの皮肉男リーヴ、そしてトルネス、ラル、カルの魔道士トリオが何も言わずに夕餉や野営の設置準備をサクサクとその手に引き受けて進めていた。
自分もまた手伝いを申し出たが、顔色の悪さを兄に指摘され、「無理はしなくていい」とやんわり断られてしまった。なんとなしに少しだけ落ち込み、申し訳なく思いつつ座り込むと、自身も負傷した身ながら、自分たちのリーダーであるカズが、自身の怪我の手当をしつつも、同郷のミアンナに向かって慰めの言葉をかけているところをなんとなしに見る事になった。
「大丈夫か? ミアンナ」
「カズ様……」
「少し、顔を洗ってきたほうがいい」
暗に1人になりたいのだろう? と言っているのだ。2ヶ月前に死んだメリックもそうだったが、チェリックもまたミアンナにはよく懐いていた。きっとこの中で一番チェリックの死に参っているのは、泣いたり弱音を吐いたりこそしていないが、ミアンナだ。
それを悟って送り出すカズと、わかってて「ありがとうございます」とだけ答えてフラリと獣を連れてこの場から去っていくミアンナの姿に、キュッと胸を締め付けられるような思いを感じた。
カズの傷は素人目で見ても深いものだ。傷が痛まないはずがない。だというのに、そんな痛みなどおくびにも出さず、その上で他者を気遣って穏やかな顔で送るカズは大人だなあと、アヴィーナは思う。
だから、それを零したのは彼になら言っても許されるのかな、と思ったからだったのかもしれない。
「人ってあんな風に死ぬ事もあるのね」
その言葉に、自分に話しかけられたということも含めて一瞬だけカズは意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの生真面目なリーダーの顔に戻って、それから言った。
「人間はいつだって理不尽に死ぬものだ。華々しく死ねる確率などそれこそ奇跡のようなものだよ。お伽話の英雄のような死なんてそうはない。簡単な理由で人は死ぬものさ」
アヴィーナ君は若いから実感がないのかもしれないけどね、そうポツリと続ける彼を見て、菖蒲色の髪をした少女は、前々から少しだけ疑問だったことについて訊ねることとした。
「ねえ、ミアンナとカズってどういう関係なの? 同郷とは聞いたけど」
「……わかってはいたが、女性の話題の移り気っぷりは中々だな……」
少しだけ呆れたような顔をしてそう弓使いの少女に返すカズだったが、やがて神妙な顔に戻って彼女の質問に答えた。
「……彼女は、僕の親友の妻だったのさ。2年前の魔族との戦で死んだ、ね。魔族の放った雷に焼かれて、呆気なくまるでゴミのように死んだ。結婚して数ヶ月の新妻の腹の中に我が子だけ残して……まあ、全く珍しい話じゃないけどね」
「それが、ミアンナとあなたの戦う理由? ……カズがミアンナを気に掛けているのも、そういうことなの?」
それに、少しだけ葛藤したような顔をして、けれど右腕を負傷した双剣使いの男は答えた。
「そうだな……彼女は特にそうだろう。否定はしない」
それから彼は語った。
「彼女は5つの歳まで獣に育てられた変わった出自の持ち主だ。そんな彼女を人間に戻したのが僕の親友だった。……彼女が獣と心を通じ合わせることが出来るのは、素質もあったがそういうことさ。淑やかに見えて今でもそういう部分は残っている」
懐かしさにカズは頬を弛ませる。しかしその瞳に確かに宿っていたのは仄かな悲しさであったと、アヴィーナは気付いていた。そんな自分に気付いているかはわからないが、彼はそのまま言葉を続けた。
「友と彼女はとても仲の良い夫婦だった。だから夫の焼け焦げた死体を見た彼女は声ならぬ声で叫んだのさ。彼女は夫の仇への復讐を叫んだ……それを同じく妻を魔族の襲撃で失った僕は否定する気にはなれなかった」
そして僅かに自嘲じみた笑みをカズは浮かべた。
「僕は友と彼女が一緒にいる姿が好きだった。友に妻を托された。奪った魔族が赦せなかった。だから彼女が戦うと決めた其の日、僕も戦うと決めたのさ」
そういってカズは話を打ち切った。
* * *
嘆き悲しむ仲間達。
しかし、そんな彼らに向かって、リヴァルは言いました。
『嘆いていても何も変わらない。倒れた仲間の死を無駄にしないためにも、ぼくらは少しでも前に進むんだ』
その言葉に仲間達は、立ち上がりました。
『そうだ、リヴァルのいうとおりだ。嘆いていてもはじまらない』
『ぼくたちの手で魔王を倒すんだ』
そうして彼らは旅を進めていきました。
* * *
月夜にシュッシュッと、研ぎ石で剣を磨く音だけが耳を打つ。
それに、少しだけ安心したような気持ちを抱いて、アヴィーナは眼前の女性に声をかけた。
「ねぇ」
「なんだ?」
返ってきた声は低く落ち着いており、作業中に声をかけられたというのに不満の色は見えない。
引き締まった顎のラインに珊瑚色の鋭い瞳と、厚い唇。背は男と遜色ないほど高く、体格もまた並の男の戦士とならんでも恥じないほどに鍛え上げられており、顔と身体問わずその褐色の肌を彩る古傷の数々が歴戦の戦士として彼女を見せる。
実際に物言いだって女性らしさからはほど遠かったし、その表情は大抵において無骨な戦士そのものだ。しかし、その手入れをされいくつにも細かく編まれ結い上げられたサーモンピンクの髪と、女にしては硬そうではあるが膨らんだ胸部に、優しげで器用な手つきが彼女を女性だと思い出させてくれていた。
余り口数が多い女性ではないが、それでもリジィはアヴィーナにとって尊敬出来る戦士であり女性だ。今日とてショックの大きい自分たちに変わって、何も言わず率先して夕餉の支度をしてくれた。
リジィは強面だが、そんな見目に反して律儀でいつも冷静沈着で素敵な女性だ。彼女の相方ほどでないとはいえ割合寡黙な質ではあるが、そんなところもまた好ましく思う。
それに今日の自分は参っているのかもしれない。だから、カズにしたのと似たような質問を彼女はこの3つばかり年上の女剣士へとなんとはなしに投げかけた。
「リジィはなんで戦うの?」
「……そういうお前はどうしてだ?」
質問に答えず、女剣士はアヴィーナのその言葉をそのままそっくり彼女へと返した。それに一瞬だけアヴィーナは虚を突かれたような顔をするが、自分だけ訊ねるのも失礼かと思い直して答えた。
「理由は色々ある筈なんだけど……なんかよくわかんなくなっちゃった……かなぁ」
それはなんとも自信のなさ気な言葉だった。そんなアヴィーナのぼやくような声を聞いて、淡々とした声で女剣士は返した。
「自分がわからなくなったから、人のことを聞く事によって、心を整理し、自分を知りたいと、そういうことか?」
「……かもね」
実際アヴィーナはそこまで考えていたわけではなかったが、リジィに指摘されて、ストンと、嗚呼確かに言われてみれば、おそらくはそういうことなんだろうなと自分の心に納得した。
そしてそんなツインテールの愛くるしい面立ちの弓使いの少女を見て、リジィはふと一瞬だけその口元に笑みを浮かべると、その笑みをやがて消して、剣の手入れを再開させながら、それを語り始めた。
「……私の育ったヴェレーネの一族は周囲の部族とは少し毛色の変わった一族でな、知っているか?」
急な話題転換に一瞬リジィが何を言っているのかとアヴィーナはキョトンと幼い顔を見せるが、おそらくはきっとこれは自分が振った話題に対する答えなのだろうと次には察し、必要以上に訊ねることもなく訊ねられたことに対して返答をかえす。
「確か……女が戦士になる一族なのよね?」
「そうだ、詳細は?」
「知らないわ。うちのヴァレンティアとは離れていたし」
そうか、とポツリと呟き、それから褐色の女剣士は少しだけ遠い眼をしながらそれを語り始めた。
「女が戦士になる一族。その正体は女尊男卑……男を人と思わぬ一族だった」
そして彼女は語る。
ヴェレーネでは、戦士は女しかなれぬこと。
戦士の適正を持たぬもの、或いは引退した戦士は子育てや雑用係となること。
戦士は15になると一堂に集められ、戦地から連れ帰った見目の良い捕虜、或いは種馬として生かされ囲われてきた男を宛がわれ、次代を担う子を産む義務があること。
生まれた子は女子なら戦士として其れ専用の係のものに育てられ、男子なら売られるか、奴隷として飼われるか、或いは運が良ければ種馬として大事に囲われ、役目を終えた歳に殺されるかという道を歩む事。
そしてリジィもまたその慣習にしたがい、男と女の双子を産み落とし責務を果たしたが、慣習通り1ヶ月で双方共に手元から取り上げられ、特に男の赤子がどうなったのかその末路は知らぬ事。
その、慣習によって、誰とも知らぬ男と交わり、子の名前すらつけることなく親元から赤子が引き離されたという話を聞いたとき、アヴィーナは我がことのように痛そうな辛そうな顔をしていた。それを苦笑して見やりながらリジィは言う。
「そんな顔をするんじゃない。可愛い顔が台無しだ」
「だって……そんな、おかしいでしょう。よく知りもしない相手と交わって子を成せなんて。ううん、それだけじゃない。赤ちゃんと引き離されるなんて……そんなの酷い」
それに、ほんの少しだけ困ったような色を目尻に浮かべて、褐色の女剣士は言った。
「酷い、と言われても、私の育った一族ではこれが当然で当たり前のことだったんだ。『普通』のことを相手に怒ったり嘆いたりなど、そんな発想そこで生活する上では生まれいでない」
それはアヴィーナには理解出来ない価値観だった。
アヴィーナは勝ち気で少々お転婆ではあったが、それでも素敵な恋愛に夢見る女の子だった。だから結婚も好きな人と結ばれて子供を作って幸せに……というか、兄と義姉のような夫婦に未来のまだ見ぬ恋人となれたら、と夢想してきた。赤ちゃんを産む。それは幸せな想像だった。
けれど、今聞いたリジィの状況は彼女の耳には異常にしかうつらない。誰とも知らぬ男……それも一回の交わりで複数の女で1人の男から精を搾り取るようにして、子種を得るのだという……はあまりに酷い。愛あっての営みなどではない。それではただの交尾だ。獣以下だ。人間のすることじゃない。
そうは思うが、だからといってそんな青臭い自分の考えで他部族の伝統を否定し、勝手に自分に置き換えて同情するのはとても傲慢なことでもあると、わからないわけではなかったけど、それでも納得は出来ない。リジィがそんな風に育ってきたなんて信じがたい。
しかし、それでも少しだけの希望的観測を乗せて問う。
「でも、バードは?」
この旅が始まってから、この女剣士はよく短槍使いの少年と組んで行動をしていた。女尊男卑の部族で育てられたというわりには彼女の行動や言動に男蔑視思想は見えなかった。なら、彼女が男を軽視したりしていないのは、もしかしてあのアヴィーナと同年の少年にそういう想いを抱いているから、好きな人がいたからこそ彼女は自分達の知る『普通』だったのではないかとそう思ったのだ。
「ちょっと待て、何故そこであやつが出てくる?」
彼女は引き締まった顔の中、僅かに呆れのような色を乗せて尋ね返した。
「だって、リジィ、バードと仲良いじゃない」
因みにリジィやラルカルの双子魔道士辺りもかなり寡黙なほうであるが、バードのそれは彼女達の上を行く。なにせ、旅に出てもう5ヶ月になるにも関わらず、今だアヴィーナはバードの声を聞いた覚えがなかったからだ。
あまりにバードが喋らないものだから、もしかして耳が聞こえないのだろうかと疑う時もあったが、リジィやミアンナにはバードの主張が通じているあたり、一部の心を開いた相手としか喋らないタイプなのかも知れない。
今だバードに信用されていないのは悲しいが、しかしだからこそ一層怪しい。目と目で通じ合い、息ぴったりな連係攻撃を行う様に、何も言わずとも阿吽の呼吸で互いの次手を読んでの行動とか、過去の2人の行動のどれもが怪しい。
やっぱりバードとリジィは……そんなアヴィーナの考えを表情を読んで理解したのだろう。ため息を付きがちにリジィは語った。
「なんでそうなる……。男とつるめばなんでもかんでも色恋沙汰だと思うのはお前達外の女の悪いクセだな。はっきりさせておくが、私は別に奴に懸想など抱いておらんよ。ただ、戦士として奴の在り方を好ましく思っているから共に行動しているだけだ」
その言葉にはバードに対する信頼のような色が滲んでいた。
それについアヴィーナは言葉を無くす。別に茶化したつもりはなかったのだが、結果的にはそうしたも同然というべきか、もしかしたら自分は悪い事を言ったのかもしれないと、少々ばつが悪くなる。
そんな弓使いの少女を見て、褐色の女剣士は苦笑しながら言う。
「そもそも私には男への恋心、それ自体がよくわからないのだ。確かに子は成したが……我が子への愛情というものも、よくわからぬ」
その言葉に更に言葉を失う少女を前に、益々彼女は苦笑を深める。
そして、やがてポツポツとした声で、リジィは胸の内を言った。
「別に我が子と引き離されたことや私が戦士となったこと自体には不満はない。……正直男と交わることの何がいいのかはわからなかったが、子を成すのも一族の戦士としての務めだったからな。ただ……外の世界を知って、このままぬるま湯に浸かるように里で暮らし生きていく未来に、少し……嫌気がさした」
そして彼女はこう締めくくった。
「どうせ人生は1度きりだ。ならば、名を残したいと思った。名の残るような強敵と戦い、死にたいと。魔王でなくても良かったんだ。強い敵と戦って、死ねたのなら。だから、この旅に参加したのはきっと、そんな戦士としての生き方しか知らない私の抱いたたった1つの我が儘だったんだ」
死に場所を探して、戦士として名を上げ死にたいと、そう告げる彼女にアヴィーナはそれ以上かける言葉を持ち合わせてはいなかった。
* * *
きっと泣きたい夜もあったでしょう。
けれど彼らが泣く事はありませんでした。
* * *
木の上に立ち、空を見上げる。
深い魔界の森の中といえど、流石にここまで上がれば空も近い。
綺麗な月夜だった。仄かに青光る月と藍色に点在する星々の輝きはとても美しく……もの悲しい。たとえ魔界だろうと、自分達の住まう大陸であろうと、この空だけは変わらない。
……ならば亡くなった彼らもきっと、魂だけは故郷の空に還れたのではないかとそんなことを、らしくもない感傷に浸って、そう思う。
今日の寝ずの番は短槍使いのバードと女剣士のリジィだ。自分ではない。そして、こんな旅だ。休める時は少しでも多く休まないといけない、その理屈がわからない筈がない。
けれど、結果的にこうして月を見上げ感傷に浸っているのは、今日死んだあの少年の事を悼んでいるからなのかもしれないと、柄にもなく思った。
そんな男を前に、耳にすっかり滲んだ優しげなテノールが届く。
「やぁ、隣、いいかい?」
既に、隣の木に登っているくせに、今更それを問うなど意地が悪いにも程がある。いつもニコニコとした人の良さそうな笑みを絶やさないが、こいつはとんだ狸なのだ。けれど、そんなこととっくにわかっていることだ。そしてそんな男の隣にすっかり慣れてしまった。
無言でふいと視線を逸らす。そんな仕草さえ、自分の肯定だとわかっているからこそ、男はその優しげな風貌に益々笑みを浮かべて「ありがとう、リーヴ」とそんな、なんのための礼なのか男にはピンとこない謝礼を述べて彼の名を呼んだ。
「良い月夜だね」
「そうだな……」
素直に言葉を返す。このアークという男の前ではいつもの己の毒も調子が悪い。寧ろ、この男と話していると誰と話す時よりも穏やかにポンポンと会話を続けられるのはどうしてなのか。この旅にしろ、そうでなくとも、別に誰かと仲良くするつもりなんてなかったのに。これがウマが合うという奴なのかも知れないと、そんなことをどうでもいいようにリーヴは思った。
「こんなところで、悼んでいたんだね」
(こいつは人の心でも読めるのか?)
どうしてこの男はこう自分の心をピタリと言い当てるのだろう。自分はそれほどわかりやすい人間じゃないはずだ。……なにせずっと何を考えているのかわからないと周囲には言われてきた。だというのに、どうしてこの男は自分の心を読むのだろう。前から思っていたが不思議な男だった。
「チェリックのこと、嫌いじゃなかったんでしょ」
……それは今日の昼に亡くなった少年の名前で。
「ふん、俺はどうあれ、向こうは俺の事なんざ嫌いだったろうよ。嫌いな奴に月夜相手に追悼を捧げられているなんて、思えば哀れなガキだ」
そんなことを毒々しい口調で皮肉って口にすると、全く君は仕方ないなと今にも言いそうな声音でアークは言った。
「そんな風にしか自己表現が出来ないなんて、君って本当に難儀だねえ」
「……悪かったな」
「いや、別に私は君のそういうとこわりと好きだからいいけどね」
そういって、この旅の間にすっかり「友」と呼べるほど仲が良くなった男は優しげに笑った。
「さて、リーヴ」
しかし、次の瞬間リーヴの名を呼ぶと同時に男の身に纏う雰囲気と口調は改められていた。それにともないガラリと空気が変わる。この切り替え、二面性。これは天性の才能だなとぼんやりとリーヴは思う。
「いつか、と思って随分と遅れたけどこれも良い機会だ……君はこの旅の不審点について、気付いているね?」
それにリーヴは「ああ」と返した。
「分からぬ筈ねぇだろ。この旅に選ばれたのは15人。その中に1人も王都出身者がいねえってのはどう考えても匂う。いや、この問題の根本はそんなとこじゃねえがな……そもそもが」
「魔王の件からして怪しい、そうだね?」
友の言葉を遮り、そう答えを口にしたアークに対し、リーヴは刹那息を詰めるが、ふぅとため息を吐き出してそれから言った。
「わかってて俺に言わせるのは、性格悪ぃな」
「君もわかっているという確信が欲しかっただけさ」
そう言って悪びれるでもなく、菖蒲色の髪の弓使いは微笑った。それに対し瑠璃髪の剣士が浮かべるのはしかめっ面だけだ。こういうところにもこの2人の性格の違いは浮き彫りになっていた。
「……そもそも、魔王がこの数年1人でいるって情報からして怪しいんだよ。罠の匂いプンプンだ。罠がよしんばなかったとしても、裏があると思うのはちっと考えたらわかることだろうが」
そう言って苛立たしげにチッとリーヴは舌打ちをした。
「王都出身者が1人も選ばれてねえのがいい証拠だ。本当はあいつらもわかってんだよ、こんなのきっと魔王か魔族が仕組んだ罠なんだろうってな。それでもそれは放置するにゃあ捨て置けねえほど甘い情報だった。だから魔王を倒せるなら倒せて良し、倒せなかったら倒せなかったで裏がわかって良し、で俺達はアイツラの態の良い使い捨て人形に選ばれたってわけだ。全く、くそったれな話じゃねえか、ええ」
「だが、それでも行かないわけにはいかなかった」
苛立ち、どんどん荒んだ物言いになっていくリーヴに対し、アークは物静かな声でそうサラリと口にした。
「……君がメリックやチェリックを初めとする子供達に辛辣だったのは、あの子たちがその辺りの事情を汲めていなかったからだね? 知っていて来るのなら未だしも、耳障りの良い言葉で踊らされているその馬鹿さ加減に苛ついた……というのが彼らに毒を吐かずにいられなかった真相というところだろう」
「…………」
「それで僕やカズに対してそれがないのは、わかっている上で「来たもの」だからといったところかな? 君同様にね」
「……お前さ、前から思ってたがマジで人の心でも読めるのか?」
つい真剣な眼になってマジマジとそんなことを問うてくる瑠璃髪の剣士に対して、翡翠の瞳の弓使いは「まさか」と嘯いてカラカラ笑いながら言った。
「君がわかりやすいだけさ」
(俺にんな事言うのはてめえくらいだよ)
そう内心でリーヴは隣の男に突っ込む。少し呆れたような顔もしていたが、中性的な風貌に反して食えない狸たる菖蒲色の弓使いの青年はやはり気にしていないようだった。
そうして、また真面目な顔に戻してアークはポツリポツリと言った。
「そうだな。魔王が1人でいるなんて、罠かも知れない。それでも、私たちは来るしかなかった」
そんなアークの語りを邪魔するでもなく、静かにリーヴは受け入れていた。
「魔王討伐隊の選抜試験に誰も来なければ一族は腰抜けの汚名を浴びていた。たとえ魔王に勝てなかったとしても、それ以前に犬死にする羽目になったとしても、それでも一族の誇りと名誉を守るためにも私は来なければならなかった。何故ならそれが……族長の息子であり、ヴァレンティアの戦士としての私の義務であり、役目だったからだ」
「……」
「たとえその先に待ち受けているのが死であろうと、一族の名誉のためならば戦い前に進む。それが戦士というものだ」
「そこまでわかってて、なんでなんもわかってない妹も連れてくんのかね?」
リーヴが理解に苦しむといわんばかりにそう訊ねると、アークはやや豪気な笑い声を上げながら言った。
「ははっ、そりゃしょうがない。あの子は私に似て頑固者なんだ」
「妹が可愛いんじゃなかったのか?」
「可愛いけどそれとこれは別だ。あの子はまあ、知っての通りちょっとお馬鹿でお転婆さんだからね。ついてくるなといったところでこっそり後ろからついて来かねない。それくらいなら最初っから連れて歩く方がいざというとき手が届く分まだマシだったのさ」
「とんだ嬢ちゃんだな」
げっそりとした声音で言うと、そうかもね、とクスリと笑いながらアークは肯定して、それから明るく言う。
「ま、あの子だって全くの馬鹿じゃない。試験にもし落ちたら流石に自分の力不足を認めて帰ってくれるんじゃないかという打算もなかったとはいわないよ」
まあ、実際は合格しちゃったんだけどねと複雑そうな声で続けられたそれに、ああと今までのアークの妹に対する言動や行動にリーヴはなんとなく納得した。
それからふと、遠い場所を見るような顔をして彼は言う。
「この旅が死出の旅になろうことなんてわかっていたさ。君の自殺者集団という表現は的を得ている。それでも戦わなければいけないし、逃げることは赦されていない。それは君もそうだったんだろう? ドンウィルド族長ラベルの甥リーヴ」
そしてチラリとアークはリーヴを見やる。
しかしリーヴは涼しげな美貌に少し乾いた色を乗せて「いや……」とそれを否定し、零すような声で言った。
「俺が参加した理由はお前のそれと同じじゃない」
そうして、遠い眼をして、彼はその過去と出生を語り出す。
「元々ドンウィルドの族長を次ぐのは叔父のラベルじゃなく、異母兄だった俺の親父の筈だった。が、あれは三歳の時だ。祖父の死後、叔父はもっともらしいことを言って親父を殺し、そして族長に成り代わった。普通はそこで俺も殺される筈だったんだがな……慈悲深く寛大であると自分を見せたかったのか……いや、ありゃ別の理由か。俺は殺されず生き残ることになった」
毒すらなく、淡々とした声でリーヴはそんなことを告げていった。
「叔父貴の狙いは俺の母だったのさ。父の死後、叔父は母を第二婦人として娶った。もしかすると俺が生き残ったのは母の嘆願だったのかもしれん。そう思う。その後母と叔父の間には俺の従弟とも弟妹とも呼べる存在が3人生まれたが……まあ、よくは知らん。俺は母や異父兄妹とは隔離されて育ったからな」
サラリと風が流れ、リーヴの長い瑠璃色の顔が彼の顔を覆う。
それはまるでこの剣士の心を代弁しているようですらあった。
「俺は叔父の腹心の部下の元で戦士として育った。会合で叔父と再会すると、まるで叔父は自分が善人であるかのように「よく来たな」と人懐っこく笑って俺を迎えて見せていたが、本心からの言葉じゃねぇことくらい幼くとも察していたさ」
そして、皮肉に笑う。
「自らの手では殺さずの飼い殺しだ。全ては自分が善良であり寛大であると見せたいが故に、な。ハッ、全く虫酸が走る話だ。アレはきっと俺が族長の座を望んだのなら、次の瞬間には育ての親に命じ俺の命を奪っていたのだろうよ。ラベルっていう男は、そういう男だった」
「……」
「まあ、そんなことどうでも良かったが、それでも叔父貴が俺に戦死を望んでいたことくらい知ってた。どうせ死ぬなら、一族の武名を上げるのに役立って死ね、ってな」
それからグシャグシャと自分の髪をかき混ぜながら、リーヴは言った。
「冗談じゃねえ。飼い殺しなんて願い下げだ。それくらいなら、願い通り死んでやるよ。それぐらいなら俺だってそのほうがマシだ。だったら、死に場所は俺が決める。俺の人生は俺のもんだ。ただ籠の鳥として死にながら生き腐ってたまるかッ」
そういって、ドンと木の幹に力任せに手を打ち付けた。
「どうせ俺の死を悼むのは、出立の日叔父に隠れて俺を見送りに来た母くらいだ。……叔父や一族のために死んでやる気はなかったし、奴らの思い通りにするのは癪でもあったが、それでも死んだ父や俺を案じてくれた母の名に傷つけぬよう、戦う相手の名は強大なほうがいいと思った」
そうして、やがて激情が落ち着いたように、冷静な声音に戻って瑠璃髪の剣士は言葉を続けた。
「だから、この旅に参加したのさ。テメエのように一族を守るためなんかじゃない」
その言葉を前にアークは……。
「そう、ならば私は君の父母に感謝しないといけないね」
そういって神への祈りの仕草と共に予想外のそんな台詞を告げた。
「は?」
何故そうなるのかわからず、困惑にアメジストの瞳を見開く青年を前に、にっこりと笑いながら『森の声』という意味を持つ名の青年は語る。
「だって、君は要するに父母の名に報いたくてこの旅に参加したのだろう? なら私が君に出会えたのも君の父母のおかげでもある。なら、君という存在と巡り会えたその奇跡に、運命の神に感謝しよう」
その言葉にあきれ半分で呆気にとられながら、リーヴは苦虫を噛み潰したような顔でボリボリと側頭部を掻きつつ訊ねた。
「お前な……自分の言動がデリカシーに欠けるたぁ思わねぇのかよ」
リーヴは我ながら他者に話すには重い結構繊細な話をした自覚はある。故にそう尋ね返したわけだが……それに対し、益々にっこりと笑いながらこの食えない優男たる青年は言った。
「ああ、だって君は怒らないだろう?」
「……はい?」
「それは君にとっては単なる事実であって、他者に指摘されたところで怒るものじゃないんだろう? だからこそ君は私に話したのさ。寧ろ君は気遣われるほうが鬱陶しいと感じる、違うかい?」
まるで真実を全て見抜くように、諭すように翡翠の瞳が真摯にリーヴの感情を捕らえる。それに、ばつが悪くなって瑠璃髪の剣士は瞳を逸らした。
男の言葉は正鵠を射ていた。
実際問題として、彼は別にこの菖蒲色をした弓使いの男に同情してほしいわけではなかった。ただ、彼のこの旅への想いを聞いて、一族を守るために死出の旅に出たという彼に自分にはない崇高さを感じ、吐き出してしまいたくなっただけで、それ以上の何かを求めていたわけではなかった。
そして真摯に、諭すように、耳に良いテノールの声で中性的な容貌の弓使いの男は語る。
「私は君という友を得られたことを天恵であったと思っている。君に出会えたのが君のその特殊な育ちのおかげだというのなら、君の数奇な運命にも感謝をしよう。私は、君に出会えて良かった」
それは、もしかしたらリーヴが受ける初めての、リーヴという存在に対する謝意であったのかもしれないと、リーヴはぼんやりと思った。
こんな風に裏無く、自分の存在を肯定される日が来る事を予想すらしていなかった。ただゴミのように生き、そしてのたれ死ぬ。そんな未来しか自分にはあり得ないとそう思っていたから、だから他者にどう思われても良いと、言葉を偽ったりせず生きてきたのだ。
初めて面と向かって自分へと向けられた祝福の言葉に、どんな反応をしていいのか、リーヴにはわからなかった。
そんな風に言葉を失う彼を見て、仕方ないなあとばかりに苦笑しながらアークは言った。
「本当に不器用だね、君は」
「放っとけ」
「人当たりの良い態度と言葉で接して、そのほうが人生は楽なのに、君にはそれが出来ないんだね」
「俺はお前みたいな狸じゃねえんだ」
毒も勢いもなく、ただそう条件反射のように返す。そんな瑠璃髪の青年に苦笑して、翡翠の瞳の青年は言った。
「ねえ、リーヴ。君は結婚しているかい?」
突然の話題転換だ。リーヴはほとほとこの男が何を考えているのかわからなかった。
けれど、どうしてか彼とのやりとりは心落ち着いた。
(嗚呼、そうか)
監視されるように籠の鳥として育った彼に友などいなかった。作れるとも思ってなかったし、必要も感じていなかった。けれど、先ほどアークは己の事を「友」と呼んだ。そして自分にとってもこの『森の声』を冠する青年は充分に「友」と呼べる存在になっていたのだ。
友との語らいだからこそ、気安いのだ。
そんな根本的なことに、今まで気付いていなかった。
「私は、している。妻と子供が1人いるよ。妻は又従兄妹で、少し気弱なところもあったけれど気立ての良い女性だ。息子はまだ1歳半くらいで、けれど最後に見たとき大分しっかりした顔をしていた。きっと良い子に育つだろうと、そう思っている」
「……そうか」
遠い空に想いを馳せるアークの顔は、確かに1人の父親としての顔だった。
「義務は果たした。私が消えても、里には私の後を継ぐ子が残る。一族を守る栄誉も得て、望外に友も得た。もういつ死んでも私には悔いはない。私が死んでも、その想いは血と共に脈々と受け継がれていくことだろう」
「……子を得たなら寧ろ死ぬのは不味いんじゃねえの?」
「いいや。子がいるからこそ、だよ。だから私は一族のために命を投げ出せるんだ。君はどうなんだい?結婚していないのかい?」
そうして穏やかに自分を見てくる男の顔に気まずさを覚えて、ふいと顔を横に逸らしながらリーヴは言った。
「……してねえよ。そもそも飼い殺しか死ぬのが役目の俺が結婚してどうする。どうせ死ぬのに無意味じゃねえか」
「そんなことはない」
そして諭すような声で、アークは言う。
「リーヴ、私は今確信した。君は生きるべきだ」
「……はぁ?」
「結婚もせず子も残さず死ぬなんて駄目だ。君は死ににいくのに妻子は無意味だと言ったが、そんなことはない。意味は生まれる。少なくとも血は残る。想いは継がれる」
「……そりゃあ、綺麗事じゃねえか?」
言いながらリーヴは戸惑う。先ほどからの会話で、アークもまたこの旅が死出の旅であることは理解していたはずなのだ。なのに何故今更そんな「生きろ」なんて戯言じみたことを言うのか、リーヴにはわからなかった。
「そうだね。そうかも知れない。おそらく高確率で私たちは死ぬだろう。だけど、未来が暗いものでしかありえないと、絶対死ぬなんてそんなことは決まってはいない」
「どうだか」
生き残れるなど妄想に等しい。そう苦笑する自分より1つ下の青年に対して、しかし笑いながらアークは述べた。
「リーヴ、私はね確かに死んでも悔いはないと言ったけど、別に死ぬつもりはないんだ」
そう告げるアークの言葉はとても真摯だったから、リーヴは茶化す気にはなれなかった。
「リーヴ、君はその出自故に視野が狭くなっているようだけれど、可能性というのは色々考えておくべきなんだよ。たとえ9割9分死の未来だとしても、1分の奇跡がないなんて、一体どこの誰が決めたんだい?」
そうして強かな笑みを浮かべながら翡翠の瞳の青年は不敵に言った。
「だから、生き残り、英雄となって帰れた場合の未来も、ちゃんと考えておきなさい。君はまだ自分の人生をちゃんと生きてないんだから」
(生きて帰れる未来……な。そりゃ……ねぇだろう)
そうは思ったがリーヴはそれを口に出来なかった。真剣に自分を案じるアークの顔を見たらなにも言えなくなったのだ。
なので、次にニッコリといつもの食えない笑顔……一見すると人懐っこい優しい微笑みにすら見えるが、何を考えているのか読めない笑顔を装備して放ったアークの一言にはつい固まった。
「そうだね、さしあたって……アヴィーナなんてどうだい?」
「……おい、なんの話だ?」
なんとか自分を取り戻してそう問いかけると、あっはっはと明るく笑いながら菖蒲色の髪をした青年は言った。
「勿論、君が帰ったときの結婚相手に決まっているじゃないか! あの子は結構お転婆なところもあるけど、あれでいてわりと気がつく方だし、器量も良い方だよ? それに君に嫁ぐんなら私も安心だしね」
(まだその話してたのかよ……)
「なんであの嬢ちゃんなんだよ……そもそも向こうが嫌がるだろうが、正気か?」
アヴィーナとリーヴが争う姿はある意味この旅の名物とすら言える。それほど合わず反発が起きたこと幾十回、何故よりにもよってそんな自分に、可愛いはずの妹を薦めてくるのか、呆れ交じりにそうリーヴが返せばアークはいつもの調子で笑いながら言った。
「正気も正気、私はいつだって本気だよ。あの子なら今はわかってくれなくてもきっといつかは君の良さもわかってくれるさ。私の妹だからね。それに……別に君はあの子のこと嫌いじゃないだろ?」
それは事実だった。確かに口論ばかりしている間柄だし、あまりに皮肉った毒ばかり投げかけてはいるが、だからといってあのお転婆少女を嫌っているかといえば、それは否だ。寧ろ、からかってて楽しいとさえ感じることがある自分に、内心リーヴは気付いていた。
だから、そんな自分を透かして見ているかのような友人に苦み走った声で瑠璃髪の剣士は声を掛けた。
「お前はやっぱ食えねえ大狸だよ」
「お褒めにあずかりありがとう」
「褒めてねえっての、たく……」
どうにも調子が崩れる。けれど、悪い気分ではなかった。もう、この木に最初に上った時の鬱々とした気持ちはどこにもない。もしかしたらこのためにこの男は自分の隣に来たのかも知れないと、リーヴは思った。
……夜も大分更けた。思えば時間にして1時間近く自分達は喋り続けていたらしいと瑠璃髪の剣士は気付いた。木から下りようと手を掛ける。
そんなリーヴの様子に気付いたのだろう。
「リーヴ、私は君の事を親友と思っている。だから約束をしてほしいことがある」
そう下も見ずにアークが彼に声をかけた。
「私にもしものことがあったときはアヴィーナを頼む」
「……あ?」
その真剣な声音で吐かれた声に、ピタリとリーヴは手を止めた。
「君になら……托せれる」
「……自分でやれよ。てめえの妹だろうが」
己で守ってやれ、とそう柄にもなくそんな言葉をリーヴはアークに投げかけていた。
「勿論出来る限り、そのつもりだよ。でも、もしもの時は……頼む」
そんな深刻な顔で吐かれた顔に、もしかするとこの冷静な男も、チェリックの死になにかしら思ったのかもしれないとそうリーヴは思った。だからかもしれない。
「ふん……しょうがねえ野郎だな。わかった、約束してやる。……友達、だからな」
最後は小さな声でそう継げ足した。それに、笑ってアークは言った。
「ありがとう、親友。君に出会えて本当に良かった」
そういって笑う顔が微笑む姿はいつもと同じ筈なのに、いつもと違って、何故か儚くこの夜に消えてしまいそうだなと、そうリーヴはぼんやりと思った。
この日のことが生涯忘れられなくなるなど、まだただの『リーヴ』と呼ばれる青年が思うはずもなく、この月だけしか知らない月下の約束……その物語の結末などまだ誰も知る事はなかった。
* * *
いくつもの戦いがありました。
いくつもの苦悩がありました。
* * *
「カズッ!」
「ッ、怯むなっ」
敵の放った風の刃に足を貫かれ、それでも負傷した本人はそう怒鳴りつけた。ボタボタと血が地面に堕ちる。誰が見ても良い状態ではないのにも関わらず、それでも戦意を失うこともなく、カズはその左手に握った剣で自分に襲いかかる魔族の少年の攻撃に対処する。
「このっ!」
それに加勢するようにアヴィーナが矢を放てば、それに当たるより早く少年は空へと逃げた。
「あははっ、そんなもので僕がどうにかなると思っているの? 人間って滑稽だね」
そういって少年は手を振り上げた。
見れば、後ろからぞろぞろと彼の配下だろう魔族の気配が近づきつつあるのがわかった。
「……嘘」
今まで彼らが相対したことのある魔族は3人が限度だ。けれど今出てきたのは15人にも昇る。
アヴィーナ達魔王討伐隊のメンバーは人間としては実力の持ち主ばかり集まっており、それ故にこれまでも魔族を撃退しながら魔界の森を進んできたわけだが、それでも原則として魔族と人間の力量はどうあっても=にはなり得ない。彼らは人間よりも圧倒的に絶対数が少ない代わりに、1人1人が複数の属性の魔法を持ち、人間よりも長い寿命と頑丈な身体を持っていた。
魔族に人の剣が通じるのだって、剣に呪いをかけて、魔族の身体に通るように調整してあるからだ。魔族と一言で言ってもその実力は人間同様ピンキリではあるが、それでも複数で魔族1人ないし2人を叩くならいざ知らず、こちらの人数よりもあちらの人数のほうが多いとなると、結果は絶望的だった。どう考えても、勝てる要因がない。
故にそれを悟った魔道士達が真っ先に行動を起こすのは当然と言えば当然だった。
「“重力の壁よ、彼らを捕らえ我らを救い、我らを守る盾となれ。『ゲーテアレン』”」
「“偉大なる大地よ、そは母なる腕、我らの揺りかご。子を守り、盾と成すその力を示せ『ヴェローナ』”」
その双子魔道士の詠唱と同時に、魔族と自分達を阻むように6メートルにも及ぶ土の壁が前へと立ちふさがった。同時に賢者の名を冠するフードの男が叫ぶ。
「皆、儂の元へ集まれッ」
双子魔道士が放ったのはどちらも守りに冠する魔法だ。しかし、あれほど魔族がいれば少しの足止めにしかならないと分かっているのだろう、その声には焦りが見えていた。
それに時間がないとわかって、皆駆ける。足を負傷したカズは走れるわけがない。それをわかっているからこそ、ベストが崩れかけていたカズの身体を抱き起こし、ミアンナが使役する大角鹿の背に彼を乗せ、駆け寄った。同時カードに祈りを捧げるように、呪いにも使う魔術媒介のカードを振り上げながら、朗々とトルネスの呪文が続く。
「“其は風、其は導き。懐かしき空の身元、過ぎ去りし在りし場所に我らを運び招き賜え。さらばこの血潮は汝のものと為すだろう。『ベートラディア』”」
その声と共に、彼らは重力の檻と土の壁だけ残してその姿を消していた。
次に気がつけば、彼らは2週間ほど前に拠点としていた湖の前へと立っていた。
「に、逃げ切れたのか?」
流石にあの人数の魔族を見て死を思ったのだろう、脱力したようにそう呟いてまず、オーグが腰を落とした。
アヴィーナは我が身に起こったことながら、今起こったことにイマイチついていけなかった。そんな彼女に説明するつもりだったわけではなかったろうが、褐色の肌の女剣士が、肩で息をしている老人に向かって問うた。
「今のは風を使った転移魔法ですか」
「……ああ」
息切れをしながら、トルネスは答える。汗も掻いているだろうに、やはり旅の初めから変わらず顔は深いフードに隠されており、袖の隙間から見える白すぎるほど白い手だけが彼の地肌を伺わせていた。
「これほどの人数を移動させるとなると軽い負担ではないはずだ」
「カードを媒体に使ったのは場所と範囲指定のためか」
「おそらくは。なんにしろこれほどの大魔法を行使出来るとは流石はトルネス殿だ」
そんな会話を交わすアークとリーヴのコンビであったが、自体はそれどころではなかった。
「カズ様!」
「カズ、しっかりして」
別の一角で、アヴィーナとミアンナの2人が鹿の背でぐったりと荒い息を吐いているカズへと駆け寄った。改めて見ても、酷い怪我だった。左足は裂けており骨が剥きだしで、ボタボタと血が滴る。それを綺麗な水で清めた後布で縛ろうとして、そんなミアンナをカズは止めた。
「待て……必要ない」
「どういうことよっ、そんなこと言っている場合じゃないでしょ!」
そう返し、治療しようとミアンナよりも気の強いアヴィーナが近づいた時だった。自嘲した笑みと共に双剣使いだった青年は言った。
「いや、無駄だよ。どっちにしろ僕はもうリタイヤだ」
そう言って、カズは右腕の袖をめくり上げた。
それを見て、思わずアヴィーナは言葉を失う。
「これって……」
「わかっただろう。僕はもう旅など出来ない……正直そろそろ限界だったんだ」
そこには膿んでグロテスクに変色した右腕の姿があった。
カズの負傷自体は皆知っていた。あれは2週間半ほど前のことだ。チェリックが亡くなったあの戦闘で、カズは右腕を負傷した。それ以来双剣使いだった青年は左手一本で戦っていたことは知っていた。
しかし、なんでもない顔で、いつも通りリーダーとして動いていたカズの姿は極いつも通りだったのだ。痛みを訴える事すらなく、冷静に的確にいつも指示を下していた。だから気付けなかった。その右腕がもう使い物にならないだけでなく、その肉体自体に損傷を与えていたということに。
「……破傷風」
震える声でミアンナはその症状について口にした。
この時代の戦において、それはある意味最も怖れられた症状でもあった。傷口から侵入した菌が体内で増殖し、身体を蝕み、ついには肉体の持ち主を殺す。けれど、消毒薬などまだ生まれていないこの世界では、これにかかるかかからないかはまさに運任せとしか言えない、そんな症状だった。
「……何故、今まで黙っていた」
それに、ずいと前に進んで睨むようにリーヴが言う。
破傷風には身体の倦怠感や咬筋の強ばり、受傷部位への異常などの症状があり、潜伏期間の1~2週間がわからなかったにしろ、こんなになる前に気付いた筈だと、鋭い紫水晶の瞳で見下ろしながらリーヴは語る。それに対して、億劫そうに口を開けながら、カズは言った。
「そのことは面目なく思っている。だが、僕のことで負担をかけたくなかった」
「こっちのほうが負担だ、馬鹿野郎」
「返す言葉もない」
そう苦笑しながらカズは言う。けれど、カズよりも彼にかけられた言葉に怒ったものがいた。
「そんな風にいうことないでしょ! あんた、最低よ」
「黙れ」
アヴィーナだった。彼女は悔しげに翡翠の瞳で睨んでいたが、よく見ればその目元は涙がにじんでいた。けれど、そんな彼女を一瞥だけですませて、カズの前に進み、リーヴは訊ねた。
「俺達はお前を置いていく。わかっているな」
それに、ふと見上げて青年の紫水晶の瞳に浮かんでいる色に気付いて、双剣使いだった青年は苦笑した。
瑠璃髪紫眼、白い細面に切れ長の眼の涼しげな美貌と取っている態度も相まり、アヴィーナが反発するのも無理がないほどに一見この男の態度は冷淡に見える。だが、その瞳に宿る色は酷薄さとは寧ろ真逆だ。そう、今のアヴィーナと同じ色を宿している。
この青年についてそこまで仲良くしてきたわけではなかったし、そこまで深く親交を重ねるつもりはなかったからアークの言っていた「不器用」だとか、「冷酷じゃない」というこの男への評価について理解を示していたわけではなかったが、これは確かに別に冷酷だったわけじゃないのだろうと漸く彼は実感をもって納得した。ただ、どうしようもなく不器用なだけだと、ともすれば薄れてしまいそうな意識の中カズは思った。
(……泣きそうじゃないか)
別に男に泣かれて喜ぶ趣味はないけど、それでも自分の死を悼んでくれるだろう存在は悪くないなと、そんなことを考えながら彼は答える。
「ああ、置いていってくれ。それに、動けなくなった仲間を置いていくことを始めに決めたのも僕だ。とうとう僕の番が来ただけだ」
「……ッ」
その言葉にアヴィーナのショックを受ける気配が伝わってきたが、それでも結論が変わるわけではないのだ。内心あの感情豊かな気の強い少女に悪いなと詫びながら、瑠璃髪の剣士の次の言葉を双剣使いだった青年は待った。
「何か言い残すことはあるか?」
「ないよ」
本当は全く言い残す言葉がないなんてことはなかった。
今も泣かないように必死の顔をして俯き震えているミアンナ。死んでしまった親友の妻。自分になにかがあれば彼女を守ってくれという親友の願いを、志半ばで閉ざすことになる、それだけが言うならば心残りだった。今は亡き妻との間に生まれた自分の子や、親友と彼女の子供は妹が育ててくれるから大丈夫だと思うけれど、それでもその後が見れないのは、わかっていても辛くもあった。
それでも、それらの心残りを吐き出すつもりはなかった。
(僕は、アマニエの戦士だ)
戦士が悔いを残して死ぬのは、良くないとそう思った。
たとえ本当は割り切れていなくても、それでも土に還るまで貫き通せばそれも本物となるだろう。
だから、残す言葉なんてなかった。
「……そうか」
そういって、紫水晶の瞳に悲哀を僅かに浮かべながら視線を落とす青年。
今までなら意外だと思っただろう。そんな風に仲間がいなくなることを惜しみ悼むような心持つような人間には今までとても見えなかった。それくらい、口にはしないが自分の眼から見てもこのリーヴという青年は冷酷な男に見えていた。
しかし、本当はそうじゃないのだ。ただ、こいつは自分も他人も甘やかす術を知らないただの不器用な人間だっただけなのだ。
けれどだからこそ相応しいのかもしれない。
自分という個人としては言い残すことなんてない。しかし、このメンバーのリーダーを務めていたものとしてならあった。
カズは今までは考えられなかったけど、それでも彼が相応しいんじゃないかと思って、最後の祝福の言葉を彼に贈る事にした。
「リーヴ、君が次のリーダーだ。……みんなを任せた」
そうして、信頼と親愛を込め、最後に生真面目だった青年は不器用に笑った。
……遠離る足音を聞く。
これで良いとカズは思う。
自分の人生はこれでいい。嫌なことがなかったとはいわないが、それでも楽しいこともたくさんあった。だから、これでおしまいでいい。
「はは……情けないな、僕は」
それでも、誰もいなくなり、戦士の仮面が外れると、震えが止まらなくなった。
それは死の匂いだった。圧倒的な終わりのはじまり。怖くないなんて、嘘だ。
怪我も痛みも、プライドだけで隠して、なんでもないように振る舞ってきたけど、それでも痛いものは痛いし、怖い物は怖い。だけどそれでいいじゃないか、人間なのだから。
結局、親友の仇なんてまた夢だった。自分は、英雄になどなれなかった。妻の仇も獲れなかった。
痛い、寒い、苦しい。死は恐怖だ。死が怖くないなど嘘。だけど、みっともなく泣き喚きたくはなかった。だけど、泣き喚くものの気持ちだけは痛いほどによくわかる。
(独りは寂しい)
「君も置いていかれた時はこんな気持ちだったのだろうかな……」
なぁ、メリック……と、億劫な口を開けて、数ヶ月前に自分が見殺しにした少年の名を呟いて彼は眼を閉ざした。
さて、窒息して死ぬのが先か、それとも失血で死ぬのが先か。
わからないまでも彼はただ、自分を置いていった彼らの先に幸があることを祈らずにはいられなかった。
続く




