第46歩:絲状災厄2
何事もないまま、希崎 時雨と間宮 和湖の死亡から一日後、鏡の輪廻予定日を迎えた。今日、明日辺りに……鏡は一度死ぬ。
予定日とは言っても、有機物相手なだけあって、極稀にずれることがある。逆に言えば稀にしかずれない。
ほぼ確定的な、死別。個体として同じだからといって記憶をなくし、体が変わるのだから、人間の死と何が変わるのだろう?きっと、何ら変わらない。
だから、こんなにも紀伊 大地が悲しんでいるんだろう。
だから、こんなにも僕は何も思うことがないんだろう。
今、こうしてあの大樹の前に簡易的な祭壇が作られていても。
今、こうしてあの大樹の前に病的に白い鏡が横たえられていても。
鏡は白い浴衣に黒い帯をまいたような服をまとっていた。体のあちこちは衰弱し、黒い絹のような髪も、麻布のようにボロボロであった。かつての面影など、微塵もない。
あまりにも……惨め。
鏡ではなく、紀伊 大地が。
分かっていたことを受け入れられていない、彼が。
当然の感情を見せている彼が。
この場には紀伊 大地と僕しかいない。他の皆は周りの警備にあたっている。“あの”二人が殺されたのだ。警備を怠るはずはない。榎凪や茜、葵も例外なく狩り出された。
神宮 夏雪、茜、葵が駅付近。
南雲 朝熊、風間 麻紀、早苗 明がこの場所に向かう階段の麓。
紀伊 大地、そして僕がこの場所、鏡の直接守備。
そして、
そして、
そして、榎凪はそれ以外の場所全てを。
あまりにも、アンバランスな人数配置。
あまりにも、パワーバランスのとれた人数配置。
僕は予想する。
榎凪が本気を出せば、魔法使いなんて目ではなく、万全の鏡ですら勝てないと。
僕の過大評価なのかもしれない。あるいは、鏡の過小評価なのかもしれない。
それでも、僕の思い過ごしでも、僕のなかでは、それは紛れもない……事実。
でも、それが、たった一冊の本で崩れようとしている。
榎凪の強さではなく、
その強さを信じる心が。
ユリウスさん。あの本の書いたユリウスさん。本の中身は事実なのですか……?そう、本人に尋ねたかった。本人はもう、存命ではないようだが。
しかしながら、おそらく、彼に、紀伊 大地に尋ねれば、正誤はすぐに答えてくれるだろう、なんの躊躇いもなく。そして……それは間違いなく正しい。
いま、こうして答えを訊く前であれば前であれば、冷静に判断できるが、訊いた後に今のように思えるかどうかは、正直自信ない。いや、答えを否定する自信がある。
僕の根幹が壊れないために。
僕が『永遠の恋人』であるために。
それが僕の全てだから。
人格を捨てても、
身体を捨てても、
喜悦を捨てても、
憤怒を捨てても、
怖駭を捨てても、
快楽を捨てても、
忌悪を捨てても、
忻悚を捨てても、
忿毒を捨てても、
悃悃を捨てても、
情偽を捨てても、
悼懼を捨てても、
榎凪への、思いは捨てられない。
捨てたくても……捨てられない。
「来るぞ」
あまりにも唐突だった。
前振りなんてなにもなく、伏線もなにもない。
終わりの始まり。
絲状に繋がった災厄の始まり。
史上かつてない最悪の始まり。
ブウンと、
ふさわしくない音をたてて、始まった。
まず、何て何もない。最初から全速力で壊れていく。
例えるなら、いきなり大黒柱がおれるようなもの。唐突な……崩壊。
鏡の回りが霞んで見える。ぼやけて、ぼやけて、境界が曖昧になっていく。あまりにもあやふやで、有耶無耶になった幻想じみた鏡と世界の境界線。
鏡が世界に溶けているのか、世界が鏡に溶けているのか、そんな単純なことさえ、当たり前でなくなっている。
僕は知覚した。
これが『逆転の女神』が能力、《反転》なのだと。
《あった》ものが、《なかった》ものに。
《なかった》ものが、《あった》ものに。
それをひたすらに繰り返す。
気持ち悪いほどに何度も何度も。
存在がアナログではなく、ディジタルに。
世界が連続から、断続に。
彼女の回りのみ、塗り替えられていく。
ブワンブワンブワンブワンと、音がひたすらに。
横目で紀伊 大地をみると、彼は彼女から目を背けて階段の下を俯瞰する。まるで、気をまぎらわせるために敵を欲っしている目で。
鏡を見るのに耐えられないのだろう。そんな彼を見るのも耐えがたいものが、僕にはあるが。
僕も……鏡から目をそらす。彼女を守護する必要はないだろう。近づける人間も、ものもない。それこそ、山ごと吹き飛ばしたりでもしない限り。山ごと吹き飛ばしたところで、その事実さえも《なかった》ことにされそうではあるが。
紀伊 大地をの隣にならび、俯瞰する。
俯瞰して、思う。自らに迫る危機を。
希崎 時雨と間宮 和湖、二人が死んだ事実には、何も思うところはない。ただ、殺された以上、誰が殺したことになる。
それが、僕に迫っているとなると話は別だ。警鐘を僕に鳴らす程度の意味はあっただろう。逆に言えば、その程度の意味しかないのだろう。
だから僕は俯瞰して、待つ。殺人者を。
紀伊 大地は忘れるために敵を待っており、僕は面倒なことを早々に減らすために敵を待つ。
ドクン
どこかで感じたことのある……悪寒。
ドクン、ドクン
まるで何かに共鳴するような感覚。
ドクン、ドクン、ドクン
身体中に血が巡り、敵を待ち受ける……感覚。
間違いなく……何か来た!
思い悩んでいたことを全て投げ捨て、臨戦態勢をとる。
服の中から『断纏』を、腕の中から『葬倒天馬』を構え、軽くふる。ひうんという、空気を斬る音。問題ない。十全だ。十二分過ぎる。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン!
心地よく血が駆け巡る。頭が痛いほどに血が流れる。紀伊 大地が視界から消えるほどに、強く、激しく、血が―――っ!
そして、僕は聞こえるはずのない声を、耳にする。
「さぁ、そろそろ始めようか?」
絡まる絲のような、史上最悪の災厄が、僕に、榎凪に、世界に降り注ぐ。




