第45歩:絲状災厄1
それは酷く、この上もなく酷く、凄惨たる、陰惨たる光景だった。
未だに渇ききっていない血。
むせかえるような鉄の臭い。
血がまるで自立した意思でも持って移動したかのように、広範囲にわたり広がっている血痕の所為で、僕はまるで血染めの服を着、手を血で濡らし、血を浴びているような錯覚に教われた。
その光景を例えるなら、中世の戦場。あるいは――地球が、地球が血を流しているようだった。
僕は今まで榎凪と旅をし、色んな戦場をみて、自らの手でもそれを作り上げたりした。けれど……こんなのは今まで見たことがない。
そして、その地球の核(中心に)には、称えるように、崇めるように、
和湖さんが横たわり、
時雨さんが散らばっていた。
膨大な、大量の、血を二人で流したかのように、中央に存在している。時雨さんは《バラバラ》だというのに、和湖さんの体は不可思議なほどに無傷。
なのにどうして分かるのだろう?
なのにどうして知っているのだろう?
間宮和湖が言い訳の余地もなく、死んでいると。
まるで、自分が殺したかのように、死の感覚が生々しい。
悲鳴を忘れて俯瞰する。
死人の顔を。
彼名を忘れて俯瞰する
死人の顔を。
「うぅう…………」
唸る。唸る。唸る。喉が勝手に唸る。
俺は何故、こんなところに来てしまったのだろう?
俺は何故、こんなところで生き続けているのだろう?
涙なんて流していないのに、
悲しみなんて存在しないというのに、
僕は間違えようもなく、泣いていた。
僕はついに目の前の光景に耐えられなくなり、膝の力を抜く。地球に重力がある以上、僕の体は下に向かって引っ張られるので、後に向かって仰向けに倒れる。
倒れ、られなかった。
まるで、当然のように僕の体は榎凪に支えられる。僕の小さな体をゆっくりと、衝撃を殺し、硝子細工を慈しむかのように抱き止められた。
僕はいつも抵抗する行為をそのままに受け入れ、体勢を変えることなく、榎凪の顔を仰ぎ見る。
榎凪は……彼女は笑っていた。
いつも僕に向ける笑顔を、
僕だけが見られる笑顔を、
何ら変わることなく、
何ら変えることなく、
戦場の真ん中で、
傷口の真ん中で、
嘘偽りなく、
間違えなく、
美しく、
優雅に、
――笑っていた。
そして、ただ一言、僕に言う。
「行くか、紀伊ん家に」
僕の心を読み取るように『帰るか』ではなく『行くか』と。
僕は仰瞰していた顔を下ろすことで、頷くことに変えさせてもらった。それ以上、僕は動きたくなかったから。
―●―
僕らは今日からみれば昨夜、巡回に出たまま帰ってこなかった希崎 時雨、間宮 和湖を今朝(とは言っても午前四時前)になってから探しに出ていた。そして、持ち帰った、持ち帰ってしまった、
『希崎 時雨、間宮 和湖、両名の死亡』
という重大な報告をした割には、みんな落ち着いて、異常なほどに落ち着いて対応していた。
ただ、一人を除いては。
「え?え、ええ?」
混乱して、目を見開いて、ただ驚く。
「あ、あ、あ……?」
認識して、後ずさり、ただ受け入れる。
「嘘、時雨……嘘、時雨……」
理解して、頭を振り、ただ拒絶する。
そして……
「イヤァああアァあアアアあぁあアア―――――!」
悲しくて、悲しくて、ただ悲しくて、絶叫する。
鏡ほどではないにしろ、見れたものじゃなかった――浅辺 由愈の姿は。
ある意味、いや、普通の意味で由愈の行動は普通だった。
普通がここでは……異常だった。
《異常な行動》をとった由愈は、夏雪さんにつれられて、自室へと戻された。
夏雪さと由愈、鏡ん以外の全員、時雨さんと和湖さんを欠いた全員、紀伊 大地、南雲 朝熊、風間 麻紀、早苗 明、この四人が『処理』に向かった。榎凪が茜、葵も手伝わせると言ったが、紀伊 大地はそれを断り、四人だけで出ていった。
僕は榎凪に抱きすくめられたままだったが、ようやく落ち着いてそれをふりほどいた。そして、一人になりたいと言って、榎凪の元を離れていく。
榎凪が……ついてくることはなかった。そのかわり、二、三分撫でられ続けられたが。
榎凪は何があったところで変わりはしなかった。少なくとも旧知の人間が“死んだ程度”では。一体、榎凪は……何があれば変わるのだろう。僕には、予想もつかなかった。
思考の海に沈む前に、僕は考えるのをやめた。
僕は榎凪を疑わない。
僕は榎凪を信じてる。
だから、僕は榎凪を、榎凪の存在を、考えない。
僕は別のことを考えるため、紀伊邸の中を彷徨する。
そして、たどり着いたのは、大図書館。
まだ片付け終わらず、雑然とはしているが、静かに思考するには十分だった。
雑然としているからといって、妨げられるような思考でもない。
妨げられたからといって、困るような思考でもない。
考えるのは鏡のこと。
鏡の輪廻のこと。
死者に思いを馳せたりは、しない。
一体、鏡の輪廻は本当に無事終わるんだろうか?
一人死に、二人死に、僕は裏切り、僕が言うのもなんだが、大丈夫とは思えない。
大丈夫ではなかったところで、僕がなにかできるわけではないけど。でも、鏡のことは心配だ。
「っと」
考えながら歩いていたせいで、本につまずいた。
当然のことだ。散らかっているんだし。
つまずいた本を手にとってみる。金で縁取られた豪奢な本に、対角線状にかけられた革製の紐の交差点で厳重に閉められている。
酷く気になった。
鍵に触れてみる。
ガチリ
と、鍵があく。いや、壊れたというのが正確なきがする。
鍵も使ってないのに、錠が外れるはずはないのだから。きっと、古い鍵がつまずいた瞬間に壊れたに違いない。
そんな『適当な』、『都合合わせな』、『後付けな』理由で僕は本を開く。
一ページ目は……白紙。
めくると、次のページにはこう書いてあった。
『ネクロノミコン』
日本語でそう書いてある。宗教に詳しくない僕でさえ知っている本の名前だ。和名は確か……『死者の書』。
題目らしいその言葉の下には手書きで右肩上がりに、作者らしき名前が書いてある。
『ユリウス・F・ラグヴィス』
僕の知らない名前だ。知らないからなんだというのか。
僕は本を読む。
思考を捨てて、
思考を忘れて、
ただひたすらに……読んでいく。
僕は、己が目を疑い、目をそらすため、逃げるために本を閉じた。




