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第41歩:幻影鏡界3

 正直に言って、鏡が目の前で傾いていき、それを大地さんが引っ張り戻した時、間違いなく僕は動転していた。何せ、一月ばかり同じ屋根の下いっしょに暮らし、同じ釜の飯を食い、それなりに仲良くなった――とは言い難いが、とにかく見知った人間の少ない僕にとって余り気持ちのいい事態ではない。簡単に言えば僕はこういう状況に酷く不慣れで、その上対処法も習った事も無い。

 だからどうした、と言われてしまえばそれまでの話なんだが……。

 とにかく、その瞬間に榎凪に指示されるまで、何の身動きも出来なかった僕を出来ることなら許してもらいたい。これもまた誰に対して言ってるんだか僕には見当がつかない。

 でもとりあえず、僕はまずしなければならない事がある。早急に、限りなく迅速に。


「ッ〜〜〜〜〜!!!」


 倒れかけた、鏡のすぐ近くで絶叫するわけにも行かず、脊髄反射であげそうになった絶叫を理性をもって噛み殺した。しかし動転した割には良く耐えれたものだと思う。目の前に手鏡でも置いて自分を褒めてやりたい気分だったが、そんな恥ずかしい行為はこれまた理性が許すはずが無く、僕の使える残りの理性は電子の質量ほども無かった。

 榎凪はといえば当の本人より早く痛みに気づいたらしく、葵と茜を両手に掴んで投げ飛ばし、水を三秒以内に十ガロンもってこい、と意味不明な指示を飛ばしているのが耳につく。

僕と同じく榎凪も動揺してたんだろう。

これはわざわざ僕のために動揺してくれる、いつもは完全無欠のようなポテンシャルを持つ榎凪に好意を抱かなければならないシーンなのかもしれないが、僕にとってはむしろ投げ飛ばされたにもかかわらず文句の一つも言わず甲斐甲斐しくも無体な命令を守るために旅立った二人に好意を抱くね。誰だってそうだろ。それにきっと榎凪のことだ、これも演技、即座に考え付いた計略だと思うのは僕が人間不信な所為なのだろうか?

 まぁ、僕の場合この程度ならすぐ『直る』だろう。

 僕にお粥がかかった所為で、榎凪の意識の外になってしまっている鏡の方が問題だ。見た目的には年齢にさほど差は無いが、僕は『魔術製合成生命体』、鏡は『人間』なんだ。致命的にこの差は大きい。いくら料理が上手で、仕事が速く、掃除に抜け目が無くて、仕草にそつが無く、感情を押し殺したように出来ても、言い方が悪いかもしれないが一般人だ。

 僕の危険度とは長い目で見れば雲泥の差がある。そんなわけだから榎凪、早く鏡の倒れた原因を調べろ。僕のことなんてほっといてさ。別に拗ねやしないから。

 何てことが自分の口からは吐き出せなかった。なんせ口が利けないほど痛い。尋常じゃない。初体験といっても良いぐらい痛い。ちょっと待て、いくらなんでもおかしいぞ。この程度ならもう痛みは治まって当然、のはず。治癒能力が早々なまるとも思えない。いったいお粥は何度だったんだ。百度か?二百度か?はたまた五百度か?その程度なら意識のはっきりした状態で斬られるより、痛くはないはずだ。

 前言を撤回させてほしい。榎凪助けろ、哀願でも何でもしてやるから助けてください、マジで!!


「鏡を早く遠ざけろ!!急げ!!ぶっ殺すぞ!!」


 そんな榎凪の罵詈雑言を利きながら僕の意識がブラックアウトしそうになる。ブラックアウトしてやるもんか。特に意味はないけど足掻いてやる。見苦しく抗ってやる。榎凪がそこまで言うのなら、僕は榎凪だけのために醜態でも何でも曝してやる。



 ズキン



 ズキン



 ズキン



 頭が痛む。



 体が傷む。



 心が悼む。



 止まること無く、



 歯止めが効かず、



 痛みが、



 害悪が、



 身体中に蔓延していく。



 呼吸がしたい。水が欲しい。欠乏している。枯渇している。どうしようもなく、満ち足りて無い。欲求不満だ。眼が充血してしまったのだろうか、世界が赤い。紅い。朱い。否定。赤くなんて無い。いつもの色だ。理性で 欲求を悉く拒んでやる。

 痛い。痛くない。

 欲しい。欲しくない。

 怖い。怖くない。

 助けて。助けなんて要らない。助けて。助けてほしくない。助けて。助ケテ。

 助けて。助けて、助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて!

 榎凪。榎凪。榎凪。榎凪。カナギ。カナギ。カナギ。カナギ。かなぎ。かなぎ。かなぎ。かなぎ。

 貪欲に、醜悪に、助けを求める。

 無欲に、純潔に、榎凪を求める。

 何処に居るんだよ、榎凪。手をさしのべてくれよ、榎凪。榎凪が近くにいてくれたら、何も要らない。榎凪が触れてくれるなら、他の感覚なんて――

 喜んで捨ててやる、そう考えが行き着く寸前に温もりが、僕を包み込んだ。

柔らかく、しなやかな感覚。

僕の感覚はこれを感じるためにあったと言っても、過言どころか全然足りないほどだ。愛しく、恋しく、狂おしいほどの安心感。鼻をくすぐる甘く、艷やな香りは……榎凪の紙の芳香だろう。抱きすくめられる形になっているだろう僕は、榎凪の唇が耳元に近づいてくるのを敏感に感じ取った。首にかかる息がくすぐったい。

 これでもか、と言うほど体が密着し、接触するほど口が近い。そこで、榎凪は数秒の間を、実際時間など経っていなかったのかもしれないが、榎凪は一言だけ呟いた。


「大丈夫――、私は此処に居る」


 それは言葉を用いた『魔術』ではなく、

 それは論理で固めた『魔術』ではなく、

 それは現実の顕現の『魔術』ではなく、

 それは奇術にも似た『魔術』ではなく、

 種も仕掛けもなく、

 卑怯も虚偽もなく、

 偶然も必然もなく、

 れっきとした『魔法』として存在する、限りなく単純な、誰にでも使える、けれど誰に対してでも使えるわけじゃない、暖かい、暖かい、涙が出る程暖かい――『魔法』だった。

 もう、痛さなんてない。

 もう、助けなんていらない。

 全て、喜びも悲しみも榎凪がいればそれでいい。


「榎凪――愛してるぜ」

「知ってるよん、大河」


 とりあえず、コレくらいの冗談と本音の境目ぐらいのことを言っとこう。これが僕らの、榎凪と僕の関係だ。今までも、今も、今からも、悠久に、永遠に、天穣無窮に続く関係だ。

 その為にも、

 永劫を途切らせないためにも、

 この茶番を終了させよう。

 この疑問を解決させよう。



 この単純命題を、

  余すところなく、

   完膚無きまでに、

    証明してやるよ。

     さぁ始めようか、

      『神々の墓守』、

       僕と勝負しよう。

        榎凪と対決しろ。

         なめてかかると、

        痛い目を見るぞ。

       白状は今のみだ。

      榎凪のためなら、

     僕は執拗だから、

    覚悟しておけよ、

   『神々の墓守』。

  場合によっては、

 完全に滅ぼして、



  ――最悪見せてやんよ、世界。


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