恋人だったのに…
指輪
小さな自動車修理業の二階の部屋からは、油臭いツナギがアパートの窓からつき下げられ、太陽にあたっていた。
修一は幼い時からクルマが好きだった。だからそれで始めた自動車修理工場。でもいつも客は少なかった。
修一は修理工場の二階の部屋で過ごすことが多かった。
婚約指輪が修一の手から離れ、二階の窓から飛んでいった。
指輪は工場の脇の溝に落ちた。
「さよなら」
それだけを言って、みゆきはトランクを持って玄関に行ってサンダルをはいた。
そして玄関の扉を開け、一階に降りていった。
そして足音は聞こえなくなった。
工場は経営ができなくなっていって、仕方なく修一は工場を売ることになった。
修一は仕事を探すことになった。
やっぱり自動車関係の仕事がいい。
修一はクルマのテールランプやヘッドライトの制作会社の社員となった。
この会社は電気関係のデザインから制作まで行うメーカー。
修一は人一倍一生懸命に働いた。
クルマへの思いは強くなった。
修理工場での経験が役に立ち、修一は社長に認められ、だんだんとデザインの仕事をするようになっていった。
修一は三Dコンピューターでデザインを考える。試作品を作り、さらに詳細までデザインする。修一はとてもクルマへの思いは強くなっていった。
みゆきはいつもクルマのことを考えていた。
地球上で生きている自然を思いめぐらし、考えることが好きだった。
自然は重要な役目を果たしている。とても人間には考えられないような、形をしている。
みゆきは別荘でベランダの手すりに止まっていたトンボを観ている。トンボはとても魅力的だった。
「いいデザインだわ、とてもいいフォルムをしているわ」
みゆきはトンボをスケッチブックに描いた。次から次にスケッチし、興奮しながら描いていった。
この会社に入社して、もう十年が過ぎていた。
あのアパートを出ていってからこの自動車メーカーに飛び込んで社員になった。
みゆきは、クルマの全体のフォルムをデザインする仕事にしていた。
ある朝、みゆきの携帯電話が鳴った。デザイン課の部長からだった。
「よくやったな」
みゆきがモンシロチョウからデザインしたフォルムが、特別賞として採用された。
「ありがとうございます」
あのモンシロチョウのフォルムは森の中でスケッチしたものだった。
はねと頭の形、とても感動してスケッチしたものだった。
会社に帰り、フォルムを三D化し、試作品ができ、クルマとして完成できたときは感動した。
このクルマを世界に発表した。
みゆきは一週間の休暇をとった。日本の中では有名な温泉街、温泉につかって川の流れる音を聞く時がいちばん最高だった。ゆったりとした時間が過ぎていった。
みゆきは安堵した。
会社に戻ると、みゆきの為のデザイン課ができていた。
このデザイン課は、ビルの最上階のフロアーがみゆきの仕事場となっていた。
世界に認められてデザインが、みゆきの人生を変えたのだ。
修一には、みゆきは眩しかった。みゆきのデザイン課にはたくさんのクルマのデザインの部署があり、外注の会社がたくさんあった。修一はその外注会社のひとつであった。
修一はびっくりした。同じデザイン課のエレベーターホールでみゆきに会ってしまったのだ。
十年ぶりだった。
「えっ修一?」
「あ….....」
とうとう出会ってしまった。 修一が恐れていたこ
とだった。修一は、一礼して頭を下げ、
「お久しぶりです」
と言った。
「久しぶりね」
みゆきが言った。
「はい」
「今もあの工場なの」
「いいえ」
「私はもう三十八になったわ、あなたもね」
「はい」
「あなたは今もひとりなの?」
「はい」
「あ、すみませんそうです」
「私もよ」
「私、出世したでしょ」
「そうですね、あっすみません」
「あなたはどこのグループ?」
「電装関係です」
「そう、頑張ってね」
「ありがとうございます」
「あーっ、疲れた。たいしたものだな、みゆきは。いつの会社で認められたんだ」
みゆきは素直に喜んだ。
みゆきは、あの指輪を持っていた。一階から落ちていった指輪を工場の溝から拾っていた。
修一にとってあの日のことは、みゆきに申し訳ないと思っていた。
どうしても忘れられない出来事である。
修一はみゆきのデザイン課の部署の一員として働けることが嬉しかったのである。
修一は仕事の帰りは、この会社のすぐ目の前のバス停まで歩いた。バスに乗る時は最終便に近い。
バスが来た。するとバスの前に突然クルマが止まった。クルマとしては最高級クラスのクルマだった。
「修一さん、修一さん」
声がした。
みゆきだった。
「どうしてここに?」
「うん、みんなが、自宅まで送っていくわ」
「いえ、いいです。先に帰ってください」
修一は答えた。
「いいえ、乗って、助手席に乗って、お願い」
「いいんですか?」
「いいわよ」
「はい、わかりました。よろしくお願いします」
修一は、助手席に乗った。
みゆきは、スタートスイッチを押すとエンジンがかかり、すべての内装の明かりが暗闇に現れた。
「あのアパートでいいの?」
「いいえ、あの工場は売ってしまってその近くのアパートに住んでいます」
「わかったわ、とりあえずあの近くまで行くわ」
「はい」
みゆきのクルマはスピードを上げた。みゆきは高速道路に乗った。
この道は、修一のアパートに行く道ではなかった……
「いえ、この道ではなくて……」
みゆきは何も言わなかった。
あるサービスエリアにみゆきのクルマは入っていった。
駐車場に止めるとエンジンを切った。あたりは真っ暗になった。
すると、サービスエリアからの明かりがみゆきのクルマを照らした。
「修一さん、私、あの指輪を今でも持っているのよ」
「え?」
「あの窓から落ちた指輪を私は取りに行っていたの」
「今でもあなたを愛しているのよ」
「そんな、そんなはずはない」
修一は動揺した。
「待っていてください」
すると、修一は助手席から降りた。サービスエリアの売店に向かった。
自販機からブラックコーヒーを二つ買った。
クルマに戻ると、修一とみゆきは温かいコーヒーを飲んだ。
修一はあの時を思い出していた。
「実は……」
自分の黒いバッグから四角い箱を取り出した。ふたを開けるとそこには指輪があった。
「俺も今でも持っているんだ」
指輪の裏側には、「MIYUKI & SHUICHI」と刻んであった。
みゆきも小さなバッグから黒い箱を出し、ふたを開けた。
修一と同じ指輪だった。
修一とみゆきは、ふたつの指輪を顔の近くで見た。
そして、お互いの指輪をくすり指にはめた。
「私、こうなることをずっと待っていたの」
「俺もだよ」
暗闇の中、修一とみゆきは十年ぶりのキスをした。
「ありがとう、みゆき」
「私も……ありがとう」




