第6話 新スペイン
フェリペ二世の宮殿で、僕は深く頭を下げた。
王は玉座から僕を見下ろし、こう告げた。
「マルタを救った騎士団に、我が名において感謝を」
続いて僕は、ジャン団長から託された言葉を伝えた。
王はゆるやかに頷いた。
「君の勇気と忠誠は、すでに我が耳にも届いている。――アロン・ドラクレシュティ」
その声音は厳粛でありながら、冷たさはなかった。
「ひとつ頼みがある。新大陸の調査隊に同行してほしい。エルナンデス・デ・トレド博士の護衛としてだ」
「護衛……でございますか?」
「彼は我が王国にとって貴重な知恵の人だ。だが、知恵ある者ほど危うい場所に足を踏み入れる」
王は微かに笑った。
「君なら守れるだろう」
こうして僕は、新大陸へと渡ることになった。
◇
大西洋の波は静かだった。
甲板に立つ僕の胸は、なぜかざわついていた。
航海は長く、船員たちは日々の作業に追われている。
しかし僕の任務は単なる航海者ではない。
王命により、科学調査を行うエルナンデス博士の安全を守るボディガード――それが僕の第一の役目だ。
博士は僕に遠慮を見せなかった。
「あなたの生態は、あらゆる既知の理を越えている。ぜひ観察させてください」
「……できる範囲で」
その言葉に少年のように目を輝かせ、博士は血液や爪、髪を慎重に採取して観察した。
「再生の速さが尋常ではない……この細胞の結合構造、まるで金属のようだ」
畏怖ではない、純粋な探究心がそこにあった。
ある夜、博士は僕の羽を観察する。
手袋越しに軽く触れ、ノートに細かくスケッチした。
僕はじっと耐える。蝙蝠化の秘密は伏せたままだ。
知られれば実験はさらに苛烈になる。自尊心も傷つくだろう。
夜更け、船室で息をつく。
――僕は守るためにここにいる。
しかし同時に、観察される存在でもある。
この二重の重みが、胸を締め付けた。
だが、王の信頼を裏切るわけにはいかない。
瞳に映るのは、未知の大地、新たな生物、そして自らの存在の意味――。
航海は始まったばかりだ。
◇
メキシコ中央高原に到着した。
空気は乾き澄み、山々の稜線は鋭く、遠くに雪をいただいたポポカテペトル火山が見える。
焼けた大地の匂い、見慣れぬ鳥の声。
太陽は高く、風は冷たい。
博士は現地の言葉――ナワトル語を口ずさみながら記録をつける。
「言葉を知れば、彼らの心に触れられる」
僕にも発音を教えてくれた。
不思議な響きは、どこか音楽のようだった。
灰色の岩肌を踏みしめながら進むと、博士が立ち止まる。
「この地には、まだ神が息づいているようだ」
古代の石像を見上げる。風化したナワトル文字が刻まれている。
僕は手帳を開き、単語を指でなぞった。
「発音が難しい……」
博士は微笑む。
「ルーマニア語に慣れた舌には、喉を震わせる音が難しい。こうだ、《quetzalcoatl》」
「ケツァルコアトル……」
風が鳴る。鳥の羽ばたく音も混ざる。
そのとき、博士が突然、足を止めた。
「ッ……!」
膝をつき、靴の上に黒い影――蛇だ。
僕は素早く駆け寄る。
蛇を蹴り払い、博士の足首を押さえた。紫色の牙痕から血がにじむ。
「動かないで」
そのまま唇を寄せる。熱い痛みと奇妙な冷たさが同時に走った。
「アロン……それは――」
博士の声が震える。
僕は答えず、静かに血を吸い上げる。
空気が重くなる。火山の影が伸び、世界が赤く染まった。
しばらくして唇を離す。
「毒は、僕の中で止めた」
傷口の血は止まった。
博士は目を見開き、言葉を失う。
「君は……なぜそこまでしてくれる?」
「僕は、護衛だからです」
声は驚くほど静かだった。
博士はかすかに笑い、手を伸ばした。
「ありがとう。――アロン。私はこの新大陸の奇跡より、君という存在に興味が出てきたようだ」
その夜、焚き火の向こうで博士は何かを書き記す。
火の粉が舞い、星が空を覆っていた。
僕は背中を見ながら思った。
――この人は真実を恐れない。
そして異形であっても僕を人として見てくれる。
セシルも、そうだった。
◇
夕暮れの高原を抜け、細い山道を進む。
乾いた風が草を揺らす。遠くには雪をいただく山。
博士は地図を片手に何度も立ち止まる。
「標高はおよそ二千メートル。酸素が薄いですね」
「少し休みましょう。集落までは、もうすぐです」
山腹の道で、小さな土砂崩れの音。
次の瞬間、大岩が転がってくる。
僕は即座に反応し、博士を抱きかかえ斜面の下へ跳んだ。岩はすぐそばを転がるが、二人とも無事だった。
「博士、大丈夫ですか?」
「ええ、危なかった。あなた、あの速さは……?」
驚きと落ち着きが交錯する。
騒ぎを聞きつけ村人たちが駆け寄る。
異国の服装に警戒するが、岩を片手で移動させる僕の姿を見て、少しずつざわめきが広がった。
博士が一歩前に出る。
「彼は私の助手です。人を救うために動いただけです」
村人たちは安心し、夕食を用意してくれた。
焚き火の明かりの中、博士が僕を見つめる。
「あなたの力は、人を傷つけるためではなく、守るためにあるのですね」
僕は小さく頷いた。
力の片鱗だけでも、正しい行動を示せば恐れは信頼に変わる。
この高原で、人々の目に僕は《異形の守り手》として刻まれたのだった。
◇
――七年後、メキシコでの調査を終え、博士と共に帰路につく。
カリブ海を抜け、大西洋を越え、故郷へ。
セシルを失い、故郷を追われ、死に場所を求めて彷徨った日々。
戦火の中で命の重みを知り、戦友たちの死と向き合った日々。
あの高原の夜を思い出す。
焚き火の炎が揺れ、星が空を覆う村で、僕は人を守るために動いた。
恐れと好奇心が交差する人々の目に、僕は《異形の守り手》として刻まれた。
遠くに雪をいただく火山は変わらずそびえ、乾いた風が草を揺らす。
変わらない景色の中、僕は考える。
――永遠の生を抱え、呪われた存在としてこの世界に生きる意味は何か。
答えは、あの高原で見つけた。
――力は破壊のためではなく、守るために使う。
――孤独は呪いの影であっても、出会いや行動の中に意味は宿る。
七年の歳月を胸に、僕は今日も歩む。
この呪われた生で、意味ある日々を積み重ねるために。
世界は広く、出会いは尽きない。
そして、僕の足は止まらない。セシルの生まれ変わりを探しながら――
空と海の境に、朝日が滲んでいた。




