第2話 珍しい蝶(タイリクコムラサキ)
澄み切った空、暑い夏の昼下がり。
僕は湖を泳いでいた。
バシャバシャ――水飛沫が飛び散る。
(あ、そろそろ先生が来る頃だ。戻らなくっちゃ)
僕は急いで小さな城に蝙蝠に変身して飛んで戻った。
城に戻って着替えていると、先生がやって来る。
「ブナ・ズィウア(こんにちは)。今日は古代教会スラヴ語を学びますよ」
「よろしくお願いします」
「……アロン君はやはり物覚えが早いね。この本も翻訳できそうだ」
先生は古い本を僕に渡した。
「ありがとうございます。読んでみます」
僕は本が好きだ。いろいろな知識が詰まっていて、世界が広がっていく感覚がある。
「次は剣術だ。山の麓まで先に降りているから、休憩したら降りて来るといい」
「はい。先生」
学んだことを整理して、山を降りた。
麓には広場がある。鉄製の鎧を着せた棒が三本、静かに立っている。
先生に型を教わってから、剣で実践する。ごくたまに先生が相手してくれることもあるが、その時は木剣を使う。
ここトランシルヴァニアでは盾もよく使う。
「今日は、Apărare cu scut=盾受けを習います。先生が相手します」
「はい」
「盾で受け、同時に足払い・突きで崩す技です。アロン君、先生に斬りかかってきなさい」
木剣を握り、上から斬りかかる。
先生は華麗に盾を翻し、盾で逆に押し返す。と同時に、足払いで足を引っ掛け、木剣で急所を突き体勢を崩す。
僕はあっさり派手に倒れた。
「いたた……」
「まだ早いな。あとは前回のおさらいをしようか」
鎧の前で木剣を肩の高さに掲げ、十字を切るように右上から斜めに振り下ろす。
ギィンッ――! 金属と木の衝突音が、山に響き渡った。
「よくできた。それが ロヴィトゥラ・ン・クルーチェ(十字打ち) だ。刃で十字を描き、悪を断つ。手首で受けて、腰で返せ。さあ、もう一度。何度も繰り返せ」
何度も繰り返すうちに、だんだん打ち場所が急所からずれてくる。
「立ち方が悪い。右足を半歩後ろ、踵で地を押せ。
剣は腕ではなく、腹で振るんだ!」
木剣を振るたびに、霧の中で十字の軌跡が浮かぶ。
それを見た先生が、うっすら笑った。
「そうだ。それでいい。
剣を抜くときは祈りを、振るうときは信念を、収めるときは慈悲を忘れるな。
それが我らの剣――ワラキアの魂だ」
◇
夜になり、いつものように僕は抜け出す。
ビドラル湖のほとりの小屋に飛んだ。
小屋に入るとセシルが先に来ていた。
「アロン……」
僕らは抱き合って挨拶する。
「セシルに見せたいものがある」
「私もよ」
油ランタンの揺れる灯りの中、セシルの微笑みが見えた。
僕は布の袋から一匹の蝶を取り出す。
「なにそれ?」
セシルはランタンをかざす。
「珍しいと思って捕まえた。すごく綺麗だよ――蝶だ」
僕が手を離しても、蝶は逃げずに手のひらで羽を広げていた。
羽はランタンの光を受け、深い紫にほのかに輝く。
「本当だ、綺麗」
セシルの目が輝いた。
僕はそんなセシルの表情を見て、満足する。
「……でも、見たことあるかも」
セシルは蝶をじっと見つめ、小さく笑った。
「そっか、そうか」
「でも、ありがと」
微笑むセシルの手を僕は握る。
「あ、私も渡したいものがあるの」
そう言ってセシルはバッグの中から本を取り出した。
「今日、父とブカレスト行ったのよ。毎月行くやつ。大きな本屋があって、アロンが欲しそうな本を買ったわ」
手に取ってページをめくる。
「《呪い・解呪の見解》 まさしく僕が探していた本だ!」
「本当? 良かった! 私はスラヴ語読めないから……店員さんが勧めてくれたの」
「もしかしたら、僕の呪いを解く方法がわかるかもしれない」
「その本、見つけて本当に良かった」
セシルが泣きそうな顔をした。
抱きしめてキスをして、おでこをくっつけた。
「ありがとう。帰って読んでみる」
「うんうん」
僕はもう一度、セシルにキスした。
小屋の隅で、油ランタンが静かに燃えていた。
炎がゆらりと揺れるたび、ふたりの影が重なり、そしてそっと離れる。
湖畔を渡る風が、二人の秘密をそっとさらっていくように吹き抜けた。




