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長い彼方から(番外編)  作者: 天笠唐衣


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第1話 夜の湖

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 夜の湖には白い霧がふんわり漂い、月は静かな水面に銀の光を落としている。

 

 小さなコウモリ――アロンが、ぱたぱたと羽を震わせながらいつものように夜の空を飛んでいた。

 風が頬をなで、水面のさざ波が小さく揺れた。


 そのとき、岸の影からひとりの少女が現れた。

 ズボンをはき、膝にスケッチブックを抱えている。

 目は好奇心でキラキラしていた。


 (女の子一人で危ないな…)

 アロンは、今日は下の方に降りてみたくなった。

 女の子と関わるのは初めてだった。

 

「あ……コウモリ」

 少女――セシルは少し息をのんだ。

 アロンはくるりと回り、彼女の周りを舞った。

 (近づいてくるってことは、血を吸うコウモリ?)

 

 セシルは逃げずに、興味深そうに手を伸ばした。

 アロンは胸がドキドキしていた。ゆっくりとセシルに近づいた。


「ここに血を吸うコウモリなんていないと思ってた」

「私みたいに変わったコウモリなのかな?」


 アロンはセシルの腕に止まった。

 セシルは、アロンの目をじっと見た。

 そこには獣の飢えではなく、何かを必死に抑えている光があった。

(どんな感じなんだろう……知りたい)

 セシルの好奇心が少し顔を出す。

 

「ちょっとだけなら……いいよ」

 

 本能が騒ぎ、アロンの羽がふるえた。

 迷いながらも、そっと近づく。


「あ……」

 痛みはなかった。くすぐったい感じがした。


 世界の音は遠くなり、水面に映る月光だけが二人を照らす。

 小さな鼓動が胸に響き合い、時間は湖の静寂の中でゆっくりと流れた。


 ◇


 それからというもの、夜になるとアロンはセシルが来るのを待つようになった。

 セシルが来ると、喜んでいるかのように周りを舞う。

 

 セシルもアロンが吸うのを怖がらず、じっと観察するように見ていた。

「図鑑を探したけど、同じコウモリが見つからなかったな……」


 セシルは何故かコウモリに親近感を覚えていった。

「なんか、可愛い」

 セシルはコウモリを眺めながら呟いた。

 

 アロンは少しずつ本能を抑えることを覚えていった。

 

 月光が水面に銀の道を描き、霧はやさしく二人を包む。

 言葉はほとんどなかった。

 羽ばたきや呼吸、鼓動――それだけで気持ちは通じ合っていた。


 ◇


 ある夜、いつものように血を吸わせていたセシルが、ふらりと倒れた。


 アロンは驚き、羽を震わせてコウモリの姿を解いた。

 人間の姿に戻ると、セシルを抱きかかえて湖畔の小屋へ運ぶ。

 アロンはベッドに彼女を寝かせ、そっと毛布をかけて見守る。

 (大丈夫だろうか……僕のせいだ)

 アロンは自己嫌悪した。


 セシルがうっすら目を開け、かすれた声で漏らす。

「……う、ん……」


 アロンはすぐに顔をのぞき込む。

「大丈夫?」


 セシルはぼんやりと彼を見つめ、首をかしげた。

「あなた……だれ?」


「アロン。いつも血を吸ってたコウモリだよ」


「えっ!?」

 セシルが跳ね起き、目を丸くしてアロンを見た。

 けれどすぐ、彼が服を着ていないことに気づき、慌てて顔をそむけた。


「な、なんか……着て!」

「ご、ごめん。服、持ってないんだ」


 セシルは顔を真っ赤にして、自分のスカーフを差し出す。

「これ、巻いといて」

「ありがとう」

 アロンはスカーフを腰に巻いた。


 二人の間にしばらく沈黙が流れる。


 しばらくして、セシルはおそるおそる口を開いた。

「……ほんとにコウモリなの?」

「うん。本当だよ。見せてあげる」


 アロンはふっと姿を変え、ベッドの下に小さなコウモリがちょこんと止まった。


「うわあっ! 本当だ!」

 セシルはベッドの上から下を覗いた。

「すごい……魔法みたい!」

 そう言って目を輝かせた。


 アロンは元の姿に戻り、スカーフを腰に巻いた。

 セシルは毛布を口に当て、まだ信じられないように見つめていた。

 

「変身する時ってどんな感じ?」

「体が変化するから、変な感じがする。でも慣れたよ」

 セシルはアロンに続けて聞いた。


「どこに住んでるの?」

「ポエナリ城だよ。外にはあまり出られないんだ」

「ふうん……わたしは東の山の上の城。クレマン家の娘なの」

「クレマン家? 聞いたことある。僕はアロン・ドラクレシュティ」

「ドラクレシュティ……ヴラド三世の?」

「うん。孫なんだ」

「すごいね……初めて会うかも。身分高い人……」

「僕は追い出されてるから関係ない」

「そうなの?」

「うん」


「……しばらく血は吸わない」

「どうして?」

「君が倒れてしまうから心配になる」

「しばらく経ったらまた吸うの?」

「……うん。でも、吸わないよ。君が嫌なら」

 アロンは俯いて答えた。

 

「吸いたくなっちゃうものなの?」

 セシルは興味深そうに聞いた。

「うん」


「アロンはコウモリなの? 人間なの?」

「人間だよ」

「じゃあ、血を吸わないほうがいいんじゃない?」

 セシルは真剣な顔で言った。

 

 アロンは少し黙ってから、小さな声で答える。

「君の血を吸うと……落ち着くんだ。安心する、っていうのかな。

 でも、それは血だからじゃなくて……君だからなんだと思う」

 

 セシルは少し頬を赤くした。

「えっ、それって……もしかして告白?」

 アロンは一瞬言葉を失ったが、真っすぐ彼女を見つめて言った。

「うん」


 セシルの目がまんまるになった。

「な、なにそれ……」

 顔が熱くなり、思わず立ち上がった。

 

「……もう帰る」

 セシルはドアを開けて走り出した。

 アロンは小屋にひとり取り残された。


 外の霧の向こうへ、セシルの足音が遠ざかっていく。

 アロンはコウモリの姿に戻り、夜の闇の中を静かに飛んだ。

 彼女が無事に家へ帰るのを、ただ確かめたかった。

 

 ◇


 次の夜、セシルは湖に来なかった。

 その次の夜も、来なかった。


 三日目の夜、ようやくあの足音がした。

 霧の中から、セシルがスケッチブックを抱えて現れた。


 アロンは今日は服を咥えて持ってきていた。

 人の姿に戻り、それを着ると小屋の中へ入った。


 二人はベッドの端に並んで座る。

 静かな夜の空気が、少しだけ気まずい。


「この前は……ごめん」

 アロンが小さくつぶやく。

 セシルは何も言わず、スケッチブックを開いた。


「……これ、見て」

 そこには、フクロウ、植物の絵が描かれていた。

「すごく絵が上手だね」


「これは、メンフクロウ、ツキミソウ……夜だけど観察できるの。昼間は外に出ちゃダメだから」

「僕もそうだよ。外に出るのは夜だけ」


 ふたりの視線が合い、少しだけ笑った。


 アロンはそっとペンを取ると、自分の腕をちくりと刺した。

「なにしてるの!?」

 セシルが慌てて立ち上がる。


 血がにじんだ傷はすぐに消えた。

 セシルは驚いて彼の腕に触る。

 

「すごい……もう治ってる」

「吸血鬼の力だから大丈夫。でも、君を傷つけたりしないよ」


 セシルはアロンの目を見つめる。

 その中には、寂しさと優しさが同じくらい混ざっていた。


「……アロンって、ほんとは優しいんだね」

「そう思ってくれる?」

「うん。だから、怖くない」


 アロンはうれしそうに笑った。

「僕は君のことが好きだよ。君が望むなら、実験でもなんでもする」

 その言葉に、セシルの頬がほんのり赤くなった。

「じゃあ……もっと知りたい。アロンのこと」


 アロンは立ち上がって手を差し伸べる。

「飛んでみる?」

「飛ぶ……?」

 セシルが目をぱちぱちさせる。


 アロンは彼女の手を取り、小屋から外へ出た。


「怖かったら、言ってね」


 アロンの背中に黒い羽が広がる。

 セシルは驚いたが、好奇心がまさった。少し不安そうに腕にしがみつく。

 次の瞬間、ふたりの足がふわりと浮いた。


 だんだんスピードを上げながら地面から離れていく。

 湖面ギリギリを滑るように飛び、水面に映る二人の姿が揺れた。冷たい夜風が頬をかすめ、湿った水の匂いが漂う。

 

 山の斜面を這うようにてっぺんまでとんでゆく。

 満天の星がきらきら瞬き、月の光が二人を照らしていた。


「わあっ……すごい!」

 セシルは両手を広げて風を受けた。

「口は閉じてね。虫が入るよ」

 セシルは慌てて口を閉じ、アロンの胸に顔をうずめた。


 山の稜線が月に照らされ、まるで銀色のようにうっすら光っていた。


「きれい……」

 セシルは小さくつぶやいた。

 アロンはうなずき、静かに笑った。


 小屋へ戻ると、セシルの足はふらふらしていた。

「大丈夫?」

「うん、……まだドキドキしてる。でも、とっても楽しかった!」

 


 アロンは小さく笑い、彼女の肩を支えた。

「これからは、君の家まで送るよ。夜道は危ないから」

「うん……ありがとう」


 セシルは顔を上げて微笑む。

 アロンも静かに手を振った。


「おやすみ、セシル」

「おやすみ、アロン」


 霧の夜に、二人の声がやわらかく溶けていった。


 ◇


 次の夜、アロンはいつもより早めに湖の小屋にやってきた。

 セシルが来るまで、外をそわそわ歩き回る。


 いつもの時間、セシルが現れた。

 二人はベッドに腰を下ろす。


「昨日みたいに痛そうなのは、もうしなくていいよ」

 セシルが言うと、アロンはうなずいた。


「……君が嫌じゃなければ、少しだけ血、吸ってもいい?」

「うん。少しだけならいいよ」

「ありがとう。僕、人の姿でも吸えるんだ」


 セシルはアロンの顔をずっと見ていた。

 アロンの目が輝き、そっと彼女の首に近づく。


 しばらく静かに吸われ、セシルは目を閉じた。


 アロンが顔を上げると、唇は赤くなっていた。

 セシルの目はとろんとし、ちょっとびっくりした声で言う。

「わぁ……ちょっとびっくり。……なんか変な感じ」


 アロンは優しく彼女を抱きしめる。

 セシルの目から小さな涙がこぼれた。

 

「ご、ごめん……」

 アロンはそっと涙を拭った。


 セシルは自分の両頬に手を当てた。

「アロンの……なんか、苦しいのとか寂しいのとか、伝わってきた」

「そうか……僕の秘密は全部見せたから、もう隠すことはないよ」

「アロン……可哀想……」

 セシルは小さな声でつぶやいた。


「わたしも……アロンのこと、好きかもしれない」

「ほんと?」

 アロンの目がぱっと輝いた。 嬉しさで言葉にならなかった。

 ただ、そっとセシルを抱きしめた。


 セシルも、優しく笑った。

 その笑顔は、夜の湖よりやわらかかった。


 ◇


 次の日、ポエナリ城の一室。

「今日はドイツ語とハンガリー語を勉強しようね」

「Ich werde mein Bestes geben!」

「わぁ、やる気満々だね!」

 アロンは明るく笑った。

「アロンくん、今日はなんだかいつもより機嫌いいね。何かいいことあったの?」

「うん、でも内緒!」


 アロンは胸の奥が温かくなるのを感じた。

 夜の湖のことは、誰にも言いたくなかった。

 二人だけの秘密にしたかった。

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