第1話 夜の湖
https://49829.mitemin.net/i1095232/
夜の湖には白い霧がふんわり漂い、月は静かな水面に銀の光を落としている。
小さなコウモリ――アロンが、ぱたぱたと羽を震わせながらいつものように夜の空を飛んでいた。
風が頬をなで、水面のさざ波が小さく揺れた。
そのとき、岸の影からひとりの少女が現れた。
ズボンをはき、膝にスケッチブックを抱えている。
目は好奇心でキラキラしていた。
(女の子一人で危ないな…)
アロンは、今日は下の方に降りてみたくなった。
女の子と関わるのは初めてだった。
「あ……コウモリ」
少女――セシルは少し息をのんだ。
アロンはくるりと回り、彼女の周りを舞った。
(近づいてくるってことは、血を吸うコウモリ?)
セシルは逃げずに、興味深そうに手を伸ばした。
アロンは胸がドキドキしていた。ゆっくりとセシルに近づいた。
「ここに血を吸うコウモリなんていないと思ってた」
「私みたいに変わったコウモリなのかな?」
アロンはセシルの腕に止まった。
セシルは、アロンの目をじっと見た。
そこには獣の飢えではなく、何かを必死に抑えている光があった。
(どんな感じなんだろう……知りたい)
セシルの好奇心が少し顔を出す。
「ちょっとだけなら……いいよ」
本能が騒ぎ、アロンの羽がふるえた。
迷いながらも、そっと近づく。
「あ……」
痛みはなかった。くすぐったい感じがした。
世界の音は遠くなり、水面に映る月光だけが二人を照らす。
小さな鼓動が胸に響き合い、時間は湖の静寂の中でゆっくりと流れた。
◇
それからというもの、夜になるとアロンはセシルが来るのを待つようになった。
セシルが来ると、喜んでいるかのように周りを舞う。
セシルもアロンが吸うのを怖がらず、じっと観察するように見ていた。
「図鑑を探したけど、同じコウモリが見つからなかったな……」
セシルは何故かコウモリに親近感を覚えていった。
「なんか、可愛い」
セシルはコウモリを眺めながら呟いた。
アロンは少しずつ本能を抑えることを覚えていった。
月光が水面に銀の道を描き、霧はやさしく二人を包む。
言葉はほとんどなかった。
羽ばたきや呼吸、鼓動――それだけで気持ちは通じ合っていた。
◇
ある夜、いつものように血を吸わせていたセシルが、ふらりと倒れた。
アロンは驚き、羽を震わせてコウモリの姿を解いた。
人間の姿に戻ると、セシルを抱きかかえて湖畔の小屋へ運ぶ。
アロンはベッドに彼女を寝かせ、そっと毛布をかけて見守る。
(大丈夫だろうか……僕のせいだ)
アロンは自己嫌悪した。
セシルがうっすら目を開け、かすれた声で漏らす。
「……う、ん……」
アロンはすぐに顔をのぞき込む。
「大丈夫?」
セシルはぼんやりと彼を見つめ、首をかしげた。
「あなた……だれ?」
「アロン。いつも血を吸ってたコウモリだよ」
「えっ!?」
セシルが跳ね起き、目を丸くしてアロンを見た。
けれどすぐ、彼が服を着ていないことに気づき、慌てて顔をそむけた。
「な、なんか……着て!」
「ご、ごめん。服、持ってないんだ」
セシルは顔を真っ赤にして、自分のスカーフを差し出す。
「これ、巻いといて」
「ありがとう」
アロンはスカーフを腰に巻いた。
二人の間にしばらく沈黙が流れる。
しばらくして、セシルはおそるおそる口を開いた。
「……ほんとにコウモリなの?」
「うん。本当だよ。見せてあげる」
アロンはふっと姿を変え、ベッドの下に小さなコウモリがちょこんと止まった。
「うわあっ! 本当だ!」
セシルはベッドの上から下を覗いた。
「すごい……魔法みたい!」
そう言って目を輝かせた。
アロンは元の姿に戻り、スカーフを腰に巻いた。
セシルは毛布を口に当て、まだ信じられないように見つめていた。
「変身する時ってどんな感じ?」
「体が変化するから、変な感じがする。でも慣れたよ」
セシルはアロンに続けて聞いた。
「どこに住んでるの?」
「ポエナリ城だよ。外にはあまり出られないんだ」
「ふうん……わたしは東の山の上の城。クレマン家の娘なの」
「クレマン家? 聞いたことある。僕はアロン・ドラクレシュティ」
「ドラクレシュティ……ヴラド三世の?」
「うん。孫なんだ」
「すごいね……初めて会うかも。身分高い人……」
「僕は追い出されてるから関係ない」
「そうなの?」
「うん」
「……しばらく血は吸わない」
「どうして?」
「君が倒れてしまうから心配になる」
「しばらく経ったらまた吸うの?」
「……うん。でも、吸わないよ。君が嫌なら」
アロンは俯いて答えた。
「吸いたくなっちゃうものなの?」
セシルは興味深そうに聞いた。
「うん」
「アロンはコウモリなの? 人間なの?」
「人間だよ」
「じゃあ、血を吸わないほうがいいんじゃない?」
セシルは真剣な顔で言った。
アロンは少し黙ってから、小さな声で答える。
「君の血を吸うと……落ち着くんだ。安心する、っていうのかな。
でも、それは血だからじゃなくて……君だからなんだと思う」
セシルは少し頬を赤くした。
「えっ、それって……もしかして告白?」
アロンは一瞬言葉を失ったが、真っすぐ彼女を見つめて言った。
「うん」
セシルの目がまんまるになった。
「な、なにそれ……」
顔が熱くなり、思わず立ち上がった。
「……もう帰る」
セシルはドアを開けて走り出した。
アロンは小屋にひとり取り残された。
外の霧の向こうへ、セシルの足音が遠ざかっていく。
アロンはコウモリの姿に戻り、夜の闇の中を静かに飛んだ。
彼女が無事に家へ帰るのを、ただ確かめたかった。
◇
次の夜、セシルは湖に来なかった。
その次の夜も、来なかった。
三日目の夜、ようやくあの足音がした。
霧の中から、セシルがスケッチブックを抱えて現れた。
アロンは今日は服を咥えて持ってきていた。
人の姿に戻り、それを着ると小屋の中へ入った。
二人はベッドの端に並んで座る。
静かな夜の空気が、少しだけ気まずい。
「この前は……ごめん」
アロンが小さくつぶやく。
セシルは何も言わず、スケッチブックを開いた。
「……これ、見て」
そこには、フクロウ、植物の絵が描かれていた。
「すごく絵が上手だね」
「これは、メンフクロウ、ツキミソウ……夜だけど観察できるの。昼間は外に出ちゃダメだから」
「僕もそうだよ。外に出るのは夜だけ」
ふたりの視線が合い、少しだけ笑った。
アロンはそっとペンを取ると、自分の腕をちくりと刺した。
「なにしてるの!?」
セシルが慌てて立ち上がる。
血がにじんだ傷はすぐに消えた。
セシルは驚いて彼の腕に触る。
「すごい……もう治ってる」
「吸血鬼の力だから大丈夫。でも、君を傷つけたりしないよ」
セシルはアロンの目を見つめる。
その中には、寂しさと優しさが同じくらい混ざっていた。
「……アロンって、ほんとは優しいんだね」
「そう思ってくれる?」
「うん。だから、怖くない」
アロンはうれしそうに笑った。
「僕は君のことが好きだよ。君が望むなら、実験でもなんでもする」
その言葉に、セシルの頬がほんのり赤くなった。
「じゃあ……もっと知りたい。アロンのこと」
アロンは立ち上がって手を差し伸べる。
「飛んでみる?」
「飛ぶ……?」
セシルが目をぱちぱちさせる。
アロンは彼女の手を取り、小屋から外へ出た。
「怖かったら、言ってね」
アロンの背中に黒い羽が広がる。
セシルは驚いたが、好奇心がまさった。少し不安そうに腕にしがみつく。
次の瞬間、ふたりの足がふわりと浮いた。
だんだんスピードを上げながら地面から離れていく。
湖面ギリギリを滑るように飛び、水面に映る二人の姿が揺れた。冷たい夜風が頬をかすめ、湿った水の匂いが漂う。
山の斜面を這うようにてっぺんまでとんでゆく。
満天の星がきらきら瞬き、月の光が二人を照らしていた。
「わあっ……すごい!」
セシルは両手を広げて風を受けた。
「口は閉じてね。虫が入るよ」
セシルは慌てて口を閉じ、アロンの胸に顔をうずめた。
山の稜線が月に照らされ、まるで銀色のようにうっすら光っていた。
「きれい……」
セシルは小さくつぶやいた。
アロンはうなずき、静かに笑った。
小屋へ戻ると、セシルの足はふらふらしていた。
「大丈夫?」
「うん、……まだドキドキしてる。でも、とっても楽しかった!」
アロンは小さく笑い、彼女の肩を支えた。
「これからは、君の家まで送るよ。夜道は危ないから」
「うん……ありがとう」
セシルは顔を上げて微笑む。
アロンも静かに手を振った。
「おやすみ、セシル」
「おやすみ、アロン」
霧の夜に、二人の声がやわらかく溶けていった。
◇
次の夜、アロンはいつもより早めに湖の小屋にやってきた。
セシルが来るまで、外をそわそわ歩き回る。
いつもの時間、セシルが現れた。
二人はベッドに腰を下ろす。
「昨日みたいに痛そうなのは、もうしなくていいよ」
セシルが言うと、アロンはうなずいた。
「……君が嫌じゃなければ、少しだけ血、吸ってもいい?」
「うん。少しだけならいいよ」
「ありがとう。僕、人の姿でも吸えるんだ」
セシルはアロンの顔をずっと見ていた。
アロンの目が輝き、そっと彼女の首に近づく。
しばらく静かに吸われ、セシルは目を閉じた。
アロンが顔を上げると、唇は赤くなっていた。
セシルの目はとろんとし、ちょっとびっくりした声で言う。
「わぁ……ちょっとびっくり。……なんか変な感じ」
アロンは優しく彼女を抱きしめる。
セシルの目から小さな涙がこぼれた。
「ご、ごめん……」
アロンはそっと涙を拭った。
セシルは自分の両頬に手を当てた。
「アロンの……なんか、苦しいのとか寂しいのとか、伝わってきた」
「そうか……僕の秘密は全部見せたから、もう隠すことはないよ」
「アロン……可哀想……」
セシルは小さな声でつぶやいた。
「わたしも……アロンのこと、好きかもしれない」
「ほんと?」
アロンの目がぱっと輝いた。 嬉しさで言葉にならなかった。
ただ、そっとセシルを抱きしめた。
セシルも、優しく笑った。
その笑顔は、夜の湖よりやわらかかった。
◇
次の日、ポエナリ城の一室。
「今日はドイツ語とハンガリー語を勉強しようね」
「Ich werde mein Bestes geben!」
「わぁ、やる気満々だね!」
アロンは明るく笑った。
「アロンくん、今日はなんだかいつもより機嫌いいね。何かいいことあったの?」
「うん、でも内緒!」
アロンは胸の奥が温かくなるのを感じた。
夜の湖のことは、誰にも言いたくなかった。
二人だけの秘密にしたかった。




