大牟田のプーチン
伊藤謙一は、大牟田市役所の企画課長として、「炭都市構想」をまとめ上げるうえで、どうしても避けて通れない名前を思い浮かべていた。いや、思い出してしまっていたと言うべきか。あの男の存在が、今もどこかで重く横たわっている――そう感じずにはいられなかった。
「大牟田のプーチン」と渾名された男。九州大学で学び、やがて社会主義思想に傾倒し、実際に大学で教鞭を執った。その語り口は熱を帯び、講義の枠を超えて聴衆を巻き込むような説得力があった。教室という空間の中に、彼は思想運動の火種を撒いたのだ。
彼は鉱夫ではなかった。実際に炭鉱に潜ることはなく、外から炭鉱労働者たちの境遇を見つめ、支援と組織化を進めた。彼が目指したのは、搾取なき社会、労働者による自律的な都市の構想であった。単なる労働組合の枠を越えた、思想と行動が一体となった運動だった。
彼は教壇に立ちながら、頻繁に大牟田にも足を運んだ。理論と実践を行き来する生活のなかで、彼は自らの思想に共鳴する若者たちを数多く育てた。なかには、のちに武力革命の道を選ぶ者もいた。彼が直接指導した学生たちは、政治的行動の現場へと向かい、一部は過激な手段を辞さない覚悟で社会の変革に挑んでいった。大牟田は、そうした思想の臨界点の一つとして存在していたのだ。
昭和三十年代の三池炭鉱争議。大牟田の街は騒然となり、日本中の注目を集めた。マスメディアは「ここに日本の38度線がある」と報じ、冷戦構造の縮図のように語り立てた。実際には、そんな単純な対立構図ではなかった。資本と労働、組合と会社、そして労働者同士の間にも複雑な亀裂が走っていた。
争議は激化し、ついには労働者の間でも分裂が起こった。暴力沙汰も絶えず、死人も出た。労働者の団結を掲げながら、皮肉にもその闘争は血を呼び、町に深い傷痕を残した。そして企業側――すなわち三井をはじめとする資本家たちは、この混乱を契機に、大牟田からの段階的撤退を開始していく。炭鉱はやがて閉山し、大牟田という都市の経済的な中核は、静かに崩れていった。
その男は、正面に立っていた。群衆を前に、壇上から語りかける言葉には力があった。赤い旗の下で、彼が掲げたのは理想であり、その理想が現実の中で引き裂かれていくさまを、彼自身が最も深く知っていたのかもしれない。
あれから数十年。炭鉱は閉じ、町は静かになった。だが、企画課長として「炭鉱の記憶をどう都市に残すか」を問われるたびに、伊藤の脳裏にはあの男の姿がちらつく。炭鉱都市とは何か。それを生きた者とは誰か。大牟田が大牟田であった時代、そのただ中にいたのは、間違いなくあの「大牟田のプーチン」と呼ばれた男だったのだ。
そして伊藤は思う。町というものは、行政でも地図でもなく、そこに生きた人間の痕跡によって形づくられるのだと。たった一人の男によって、町は、市は、大きく影響されてしまうのだ。好むと好まざるとにかかわらず、その男がいたという事実は、風土や制度に染み込み、消せない輪郭を残していく。都市計画の机上には収まりきらない、土と声と熱の記憶が、いまもなお、大牟田の地中深くで脈打っている。