誰は彼時の色づく前に
その日は連休の中日だった。
夏の盛りも終わり、少し肌寒い朝簿の霧を纏いながら、露に濡れたベンチの片隅に腰をかける。
小休憩に降りたサービスエリアは運のいいことに灯りを落とさないコンビニが入っていた。なくなってしまった飲み物を購入する。程よい冷たさがまだじっとりとまとわりつく空気の嫌悪感を和らがせてくれた。
耳に飛び込んでくるのは虫の声とタイヤの転がる音ばかり。静かに考え事をするにはいい時間とも言える。ある種の自然音は周りを囲み、ただただ心を波立たせた。
未明をようやく明けたばかりのこの時間に人が出歩くことはめったにない。トイレに行く子供とその付添、トラックやバスの運転手、コンビニ店員がせいぜいで、目の前を通り過ぎていくのはもうすぐ必要なくなるだろう車のヘッドライトばかりだ。
手に持ったペットボトルを開けると炭酸の抜ける音がした。のどを通り抜ける刺激と音が、頭を少しだけすっきりさせてくれた気がする。
今日はどこまで行こう。
アテのないといえば嘘になるが、この時だけは一人になれる時間だ。白くなっていく空に視線を彷徨わせながら、次のジャンクションがどのくらいだったか考えるのだった。
「となり、いいですか?」
女性のものと思われる声が聞こえてきたのは視線とは反対側からだった。
いくつかベンチは並んでいるが、トイレからも売店からも一番遠いのはここだ。
何人も腰掛けられるほど大きなものではないが、端に座っていたこともあり、もう一人二人くらいなら十分に座れる。
声をかけてきたのだからこちらを見ているだろうと思い、手のひらを座面に向けた。
ジャリっと砂を踏む音が近づいてきて、ベンチがギシリと啼いた。
長年風雨にさらされている彼は相当くたびれているようだった。
「いい朝ですね」
楽しそうに弾む声が耳朶をうった。
声の高さからすればそう年を重ねてはいないと思われた。こんな時間に一人で外を歩いているよら珍しいことだとは思うが、間違いなく自分もその奇特な人間の一人だ。殆どの人が自分の車の中にいることだろう。だからそんなことは気にしたところでただの徒労だ。誰がそんな奇特なものを見るだろうか。どうせまだ朝日も昇らぬ時間だ。
休みの日にまで余計なことは考えたくない。とはいえいくつもあるベンチの中からわざわざ隣に座って来るくらいだ。話くらいなら、と思ったのかもしれない。私はそれとなく続きを促していた。
「私、この時間が好きなんですよ」
その声は正面に抜けていく。炭酸よりもはっきりとした音で。もう一度蓋を開けて喉を潤そうかとも思ったが、おとなしく耳を傾けることにした。
「何もかもを静かに眠らせていた夜自身が少しずつ眠りに落ちていくようで。気がつけばいろんなものが目を覚まし始めているんです」
少し詩的な表現だなと思いつつ、確かに朝とはそういう時間だと内心同意する。早朝の今は、まだ寝ているものも多いかもしれないが。
少し、続きを聞いてみたいと思った。
「山の端の辺りはもう起きてるんですかね?」
「きっとそうだと思いますよ。この辺りはまだ少し先でしょうか」
どうやら私の言葉も届いたようだ。
山間を縫うようにして作られた高速道路にまだ陽はさしていない。このサービスエリアも同様だった。
「だから夕方は好きじゃないんですよね……」
早朝に放たれた声はおそらく隣に座っていなければ聞き取れないものだっただろう。それでもなぜか、深く刻まれたような気がした。
「夕方って朱色と紺じゃないですか。それも増えていくのは紺なんです。あれだけ力のある朱がどんどん追いやられていくんですよ?」
ふと空を見上げてみた。
なるほど、白んできた空はせいぜい薄紫だ。山向こうなら青かもしれないが、ここから見えるのは少しだけ朱みがかった木々の山肌くらいだ。
何を言いたいのかはわからないが、気に入らない色がないというだけでも少しは気分が違うのかもしれない。
せっかくだから声を返してみることにした。
「そんなに夕方が嫌いなんですか?」
「むしろなんで夕方が好きなのかわかりませんね」
最後の言葉だけ、棘があるように聞こえた。まぁ、いい言葉の印象を持っていないのは間違いないだろう。
突っ込みすぎたかと反省するが、それでも心底わからないという様子が印象的だった。
「まあ、それだけ朝が好きということです」
「日の出はどうです?」
朝が好きなら嫌いということはないだろう。もうすぐそんな時間だ。
「んー…夜明けほど好きではないですけど」
「何が違うんですか」
夜が明けることと日が昇ることは同義だ。そこに違いがあるとは思えなかった。
「それを語るにはちょっと時間が足りませんね」
「どれだけ話すつもりだったんですか」
所詮通りがかりに出会っただけの、知り合いにも満たない間柄だ。薬にも毒にもならない話で十分だろう。
「そうですね。こうして話を聞いてくれる人がいただけでもラッキーでした」
日の出とともに起きだす働き者、なんて言ったりもするが、山のせいか周りを見渡してもまだ太陽のカケラなんて見えやしない。
日が昇り切る前の高速道路で起き出している人間など、運送業が大半を占めているだろう。忙しくエンジンをかける彼らに、会話をする余裕のある人どれだけいるだろうと我が事ながら思ってしまう。
そんなことを考えていると、すぐ隣から少しだけの砂利を踏みしみた音がした。
「私もそろそろ行こうと思うんですけど、」
なるほど。よく見れば駐車場に止まっていた車が少しずつ変わり始めていた。ヘッドライトをつけない車もちらほら見られたし、あったはずの車がない場所もあった。視線を横に向ければゾロゾロと人が出歩き始めている。バスやトラックに至っては顕著で、その殆どが数を減らしていた。きっといくつかは夜行バスだったのだろう。
「最後に一ついいですか?」
ずっと喋り続けていた中で久しぶりに尋ねてきた。いや、最初のそれも礼儀としてという意味で考えれば初めてなのかもしれない。
「ええ、どうぞ?」
なんのことはない。話をしてしまった人間の誼としてまあそう答えておくのが礼儀かと思った。曲がりなりにも会話を楽しんでいたのだから。
「ありがとうございます」
先程までの真面目一辺倒ではなく少しだけ弾んだような声。嬉しいのか楽しいのか、流石にそこは正確には知れなかった。
その声をやたらとはっきり覚えているのは、続く声とはあまりにもかけ離れたものだったかもしれない。
「あなたはいつまで眠っているつもりですか?」
聞こえてきた言葉の真意がわからない。訝しく思って声の主を探すために首を回すが、そこにはまだ夜の明けていないベンチがあるだけ。
その横でどこからやってきたのかカサカサと音をたてる葉が風に巻かれていた。
緊張のあまり口がカラカラに乾く。左手には先程買った炭酸のペットボトル。
ペットボトルからはキャップを回す音だけが聞こえる。甘ったるいだけの液体が喉を通り過ぎていった。