エピローグ 1
マスターワールド・0
7月。
夏休みを間近に控えたその日も私は中学を自主的に休校して祖父のラボへ向かう。
祖父が勤める大学の附属病院の敷地、中庭を抜ける近道を歩く。中庭に植えられた樹木にはセミが止まり朝から気ままに鳴き続けている。
「黒田ひまり」
私は木陰に置かれたベンチに座って読書をする少女に声をかけた。
「ふぇ?」
間抜けな声をだす彼女の痩せ細った腕には点滴が刺さっている。黒い髪のショートカット、どこか儚げだった少女はポカンと口を半開きに開くと幼い表情に変わる。
私は声をかけてしまったことを後悔した。彼女とは去年からのクラスメイトだが一度も話したことが無かったからだ。
祖父の研究の手伝いや自分の研究を優先する私は最低限の出席で不登校気味。一方の彼女は見ての通り病弱なようで殆ど学校には来ていない。そもそもクラスメイトというだけで接点のない私達が会話をする道理はないのだ。学校でほんの数回しか会ったことがない私は彼女に認識すらされていない可能性もあり、ましてやラフな私服に白衣を羽織った今の私は彼女にとって未知の存在かもしれない。
一瞬の気まずさが顔に出てしまったのか彼女も困り顔でこちらをじっと見つめている。
私がその場を離れようとした時、セミの鳴き声に邪魔をされるなかでかろうじて聞き取れる彼女の声。
「め、廻、京香、さん…?」
「そ、そう。廻京香。よく覚えていたわね」
私は立去ることをやめてその場に留まった。
「は、はい…。く、クラスメイト、ですし…」
そう言った彼女は歯切れが悪く、恥ずかしそうにもじもじしている。
暫しの沈黙。
彼女の言葉は続かない。話すことがないのだろう、私にもない。
「読書の邪魔をしてごめんなさいね。珍しいものを見たからつい声をかけてしまったの」
私は営業スマイルを作り小さく手を振ってからその場を離れてラボへ向かう。
「それじゃ、お大事に」
これが私と彼女のファーストコンタクトだった。
このコンタクトをきっかけに私達は毎日のように朝の数分間を共に過ごすようになる。
夏休みに入って数日が経った。
「今日は点滴が刺さってないのね」
祖父のラボに向かう途中、日課になりつつある朝の会話。
「ふぁい?あ、め、廻さん。おは、おはようございます」
慌てて読書をやめると彼女は読んでいた本を小さなノートに持ち替えてそれを開く。
ファーストコンタクトの翌日からそのノートを持っていて、会話をしている間は私を見るよりもノートを見ていることの方が多い。
顔が隠れるほど近くでノートを持って書き込まれているであろう文章を読む。
「め、廻さんは今月、な、何日学校に行きましたか?」
それが何のノートか、私は数秒で理解していた。会話のネタ帳、トークデッキだ。
「3日よ。あなたは?」
「う…ふ、2日、です」
彼女は少し悔しそうにノートから視線を外す。
「で、でも、最近は調子が良くて、夏休みがなければ4日くらい行けてたかもです」
誇らしげに微笑む。
「なに?登校日数で勝負でもしてるつもり?」
下手にマウントを取ろうとする彼女を牽制する。
「私は毎日お祖父様のラボ、大学に通っていてね、それを数えると20日以上登校しているわよ」
「ふぇ?で、でも、それは…」
「中学校とは話がついていて、大学で研究を手伝ったり自分の研究成果を発表することで出席日数は大目に見てもらっているの。テストは受けてて学年トップだし、サボりって訳じゃないのよ」
「う、うぅ…」
困り顔で再びノートに視線を戻してページをめくる。想定していた内容から脱線したのだろう、この場合彼女は次のネタへ脈絡もなく飛んでしまう。体の調子が良いことを褒めてもらう算段か、はたまた夏休みがない世界の話を広げるつもりかは分からないが、ネタ帳に踊らされてやるほど私は優しくない。どんな内容を描いていたかはノートを取り上げれば分かるのだろうが、そこまでするほど悪くもない。
「め、廻さんの血液型は何型ですか?わ、私はB型だと思っています」
「あなたねぇ!会話ってのはコミュニケーション、一方的に話を進めるならAIと会話してなさいよ!何でB型だと思ったのよ!?」
「ひぇッ、び、B型の、特徴……自由気ままで変わり者、少し癖が強い…って本にか、書いてありました」
「失礼ね!A型よ私は!」
「わ、私はB型、です…」
「ピッタリじゃない!血液型性格分類に科学的根拠はないけどね!」
少し早口でまくし立てる私に怯えている。
「は、はひ……」
からかっている私を本気で怒っていると思ったのか慌ててページをめくる。
「黒田ひまり!」
「ひゃい!?」
「ノートはやめてこっちを見なさい」
ノートをつまんで閉じさせる。
「このノートはいずれあなたの黒歴史になっていくの…」
「ふぇ?」
「私はあなたのノートとお喋るするために立ち止まっている訳じゃないのよ」
「は、はい…」
反省してしゅんとなる。
「……別に、怒ってる訳じゃないからね?」
この子は人付き合いが苦手なのだろう、冗談を言うのも気を遣うタイプかもしれない。
「め、廻さん…」
「京香」
「?」
「親しい人は皆名前で呼ぶの」
「そ、そうなんですか……廻さんの親しい人は、名前で呼ぶんですね…。し、親和的、です……」
「……あなた、壊滅的に察しが悪いのね」
呆れつつも、周りにはいないタイプのこの子を面白いと思った。
少し変わっている彼女と私は少しずつだがしっかりと絆を深めていった。
8月に入り雨が降った日の朝、中庭のベンチに彼女の姿はない。私は病棟を上り527号室のドアをノックする。
「………」
微かに返事が聞こえたような気がしたのでドアを開ける。
「ひまり?来たわよ」
「き、京香、ちゃん。お、おはようございます」
車椅子に座ったひまりが笑顔で迎える。まだ慣れないようだが名前で呼ぶようになってくれた。
「あら?車椅子?」
「あ、え、えへへ…。ちょ、ちょっと転んじゃって……暫く車いす生活になっちゃいました」
ひまりは恥ずかしそうにてへへと笑う。
「大丈夫なの?怪我?捻挫でもしちゃった?」
パッと見た感じでは怪我をしているようには見えない。
「だ、大丈夫です……ちょっと、ふらついて躓いただけですから」
「そう?大事でなければいいのだけど」
「は、はい…たまによくある事なので…」
たまによくある事らしい。低確率か高確率か、よくわからないが珍しい出来事ではなさそうだ。
「ぼ、防火扉のトコに段差があるじゃないですか…。あ、あれによく捕まっちゃいます」
「防火扉の?あんなの5mmもないでしょう」
私が呆れてしまうとひまりはまた笑って誤魔化す。
「運痴なのね」
「う、うんちぃ!?」
「ふふっw、あんなものに足を引っかけるほうが難しわよw」
ひまりを少し怒らせてしまったかもしれない。でも全然怖くないので放っておく。
「それよりも、はい。約束してたもの」
板状の携帯端末をひまりに渡す。
「ホ、ホロ端末ですか?」
「うん、こっちの方が雰囲気出るから」
私は旧式の立体情報端末に呼びかける。
「音華、出ておいで」
ひまりはわくわく顔で端末を見つめている。が、私の呼びかけに音華が反応しない。
「おかしいわね?この病室、電波が遮断されてるのかしら?」
「そ、そんなことないはずですけど…。私のはいつも使えてますよ?」
私は病室の窓を開けてみる。
「は、反応ないです?」
ひまりが両手で端末を持って、じぃっと顔を近づけた時、眩い光と共に音華が飛び出す。
「私ダーーーッ!!!」
「ぴぎゃーーー!!?」
ひまりが驚いて端末を放り投げるとベッドの上に音華は着地する。
「にしししッww!!ドッキリ!大成功ー!ッス!」
「ふふっw!あははww!」
ひまりの反応に思わず笑ってしまった。
端末上に映し出されたピンク色のゆるふわの髪をした音華はしてやったりとけらけら笑う。
「ふふw…。音華、やり過ぎよ。ひまりは一応病人なんだから」
車椅子に小さくうずくまりびくびく震えているひまり。
「あなたガ黒田ひまりでスね。お姉様から話は聞いてるでス」
ひまりはベッド上の小さなホログラムを怯えながら見ている。
「そう!何を隠そう私ガ京香お姉様の一の子分、波瀬音華ダっ!!」
仁王立ちで威張る20cm程度の音華の後ろで、小さな花火がドドンと上がって名乗りを盛り上げる。
「は、波瀬、音華。さん…?き、聞いてたよりもア、アグレッシブな人です…?」
ひまりは落ち着きを取り戻すと興味津々に音華に近づきぽつりと呟く。
「ほ、本当に人間みたいです…」
「そう、この子がACP。artificia consciousness personと呼ばれる人工意識者。お祖父様の研究チームが創りだした電脳人間よ」
ふふ~ん、と誇らしげにドヤ顔の音華はわかりやすく空中に胡坐をかいて座ってみせる。通常人間同士の立体通信では端末周辺の空間を映し出す為、空中に浮いて座ることはできない。
「そ、存在していることは知ってましたけど、実際に会ってみると、す、すごいですね」
音華のドヤを尊むように称えるひまり。小さな少女に触れてみようと手を伸ばすがホログラムを乱すだけで触ることはできない。
「残念でスが次元が違うので触れないでース。今のお姉様とも触れ合えないのが寂しいでース♡」
わざとらしく寂しがる音華。
「い、今の…?」
「ふふふ!」
音華に続いて私まで自慢気になってしまう。
「そう、ACP研究は既に過去のモノ!今私達が研究しているのは人類とACPの共存世界の創造!」
西暦2125年において発達した機械技術に欠かせないAI。そしてそれを補助し、より高度な運用を行うために数年前から導入されたACP。私達が生まれるより前に祖父の研究により確立されたACPは世界に大きな影響を与えた。
表立っての人類との接触は無いものの、今や社会基盤を支える大黒柱となりつつあるのだ。
「私達は人間の意識をメタバース上に構築することに成功しているのだよ」
「に、人間の意識…?……VRとは違うです…?」
「全ッ然違うわよ!そんな古臭い仮想現実じゃなくて、実際にメタバース、仮想空間に入ることが出来るの!」
今一つピンと来ないのかひまりは口をポカンと開いて顔を斜めにしている。
「ふふっw…体験してみると面白いんだけどね。C2TD、メタバースに入るための装置はまだ小型化できてなくて、この病室まで持ってくるのは難しいのよね」
「そ、そうなんですか…?」
私の研究を知ってもらいたい。のほほんとした友人にこの研究の偉大さを分からせたあげたいと思う自分がいる。
「お姉様、押してダメなら引いてミよ!でス!」
音華はまるで抱っこをせがむ子どもの様に両手をひまりに差し出す。ひまりはそれに応えて情報端末を拾い上げる。
「え、えへへ…」
音華を人形とでも思っているのかひまりの顔は笑顔だ。
「うん、充電状況よシ。電子制御ユニットとのリンクを確認。操作権限ヲ委譲…。お姉様、行けまス!」
満面の笑みを浮かべる音華。病室のドアが開く。
「アイハブコントローーールッ!!」
大きな声を上げてひまりの車椅子を操縦する音華。勢い良く病室を飛び出していく。
「ぴぎゃーーー!!?」
「ひ、ひまり!?」
音華によってさらわれたひまりは悲鳴を上げて車椅子にしがみついている。
「コラッ!音華!!止まりなさーい!!!」
私は慌てて2人の後を追うがリミッターまで解除したのか車椅子はかなりの速度が出ている。
音華が進む先、エレベーターが都合よく到着して扉を開くと車椅子は見事なターンを決めて乗り込み停止する。そして私を待たずにエレベーターは扉を閉じて1階へと降りていった。
「待ちなさいよ!私も乗せなさーい!!」
どうやら音華は病院設備までハッキングしてしまったようで、私は音華を連れてきたことを少し後悔した。
とはいえ音華の行き先は分かっている。C2TDがある祖父のラボだ。姿の見えない彼女達を走って追いかける。
体育の授業を受けたのはもう1年以上も前、隣の大学まで走った私の足は悲鳴を上げている。肩で息をして足を引きずりラボへ到着すると同じようにグロッキーなひまりの姿。
「ひまり…無事……?」
「う……うぅ…。きょ、京香、ちゃん…私は……風になりました…」
「そう…無事ならよかったわ」
私は深呼吸をして息を整える。
「ふぅ……。音華!?」
私が強く呼びつけると音華はラボのホログラムを使って等身大の姿で現れる。
「はいでース!お姉様、C2TDの準備できたでスよ」
「そう?早いわね……ひまりはゲストアカウントで、ルーム3で入りましょう」
「ひえッ!は、波瀬音華さん!?い、いきなりでっかくなっちゃいました!?」
膝の上から居なくなった音華は私と同等の背丈で隣に並び、ひまりの目を丸くさせる。
「ルーム3行くでスよ~」
「ぴぃっ!?」
膝から居なくなったとはいえ車椅子の操作権限は音華が持っているようで、音華は指定したルーム3に車椅子を走らせる。
私はラボに他の人が居ないことを確認してから2人を追う。
「まあ、ここまで来たんだし、ちょっとメタバースに入っていきなよ」
私はC2TDが設置された個室でおろおろしているひまりを落ち着かせる。個室は車椅子で入るには狭く、大きめのリクライニングチェアのようなC2TDがその部屋の大部分を占めている。
「ひまり、立てる?」
ひまりの手を取って一度立ち上がらせてからC2TDに座らせる。
「きょ、京香ちゃん…?だ、大丈夫です…?」
私は時計を確認する。
「8時22分ね。30分には撤収するわよ」
準備を進める私の横でひまりは備え付けの時計を見て落ち着く。診察の予定があるのかもしれない。時間は厳守しよう。
「ほんの少しだから、病院の方も大丈夫でしょ。ほら、リラックスして」
セッティングを完了してC2TDを起動させる。
「私は隣のルームから入るから、メタバースに入ったらそのまま待ってて」
言って、ひまりの意識が落ちるのを確認して移動する。
「音華、ひまりをよろしく」
「はいでス。お姉様も早く来てくださいね♡」
音華が姿を消す。私も急いで隣のルーム4に入ってメタバースに潜る。
「8時24分」
時計を確認したうえでひまりと音華に合流する。
「音華。エリア3314から3317までを隔離。思考加速を実行」
「了解でース!エリア3314から3317までを隔離。思考加速を実行しまース」
私の指示を復唱し実行する音華。
「ひまり?」
海が見える崖の上で私達は風を受けて立つ。昔から続く伝統、警察や探偵が犯人を追い詰める為にあるような崖だ。そんな場所で海をボーっと眺めているひまりに声をかける。
「きょ、京香ちゃん!?わ、私、海に来てます!?」
地平線の向こうを追っていたひまりの視線が私に向く。
「うん、ACP、音華達が暮らしてるメタバースの海にね」
「す、すごいです!本物みたいです!VRよりもキレイで、風を受ける感覚も、海の匂いも…。まるで現実のようです…」
キラキラしたひまりの目はこの世界のモノを見逃さないようにきょろきょろと動く。
「は、波瀬さんも、本物の人間と見分けがつかないです」
「そうね、この世界はメタバースだけど、ある意味本物なのよ」
私の言葉を理解できていない様子のひまり。
「それよりも、音華?」
手招きすると音華はぴょこぴょこと近寄ってくる。
「はいでス~?」
私はそこまで来た音華の頭にげんこつを落とす。
「病院で暴走して!危ないでしょッ!!!」
「い、痛いでス~っ!」
ごつんと叩かれた頭を押さえて痛がる音華。
ひまりは先程の出来事を思い出しててへへと笑うが、すぐにその顔はきょとんと間抜け顔になった。
「え、痛い、ですか…?…あぅ…!」
自分の頬をつねってみる。人間の五感すべてを再現することができるこの世界に驚くひまり。
「ご、ごめんなさいでス~。でも、このくらいシないとこの子を連れてくることできないでシたよぉ?」
確かに、私だけならひまりを病院から連れ出すことはしなかっただろう。ひまりにこの世界を見せたかったのは事実だが、教育の為に甘やかすことはできない。
「安・全・第・一!周りのシステムをハッキングしてもマスターワールドではあなたに見えない部分も多いのよ!?誰かにぶつかって怪我したりしたら大変でしょ!」
それに、ハッキングがばれたら怒られるかもしれない。主に音華を管理している私が…。
「うぅ~…」
涙目で小動物のように縮こまる音華。私の意図を汲んでくれたことは理解してる。叱るのはここまでにしよう。
「く、車椅子って、あんなに早く走れたんですね。私、知りませんでした」
ひまりも音華に同情したようで庇うように言葉をかける。
「ひまり、あまり甘やかさないでね」
私は音華の頭を撫でてもう怒らない、というスタンスを見せる。
「すぐ調子に乗るんだから」
「うぅ~、ごめんなさいでシた」
ひまりにもごめんなさいができたところで話を進めよう。せっかく来たんだから、ひまりにはこの世界を満喫してもらう。
「それじゃ、音華、フライトモード。コンソール起動」
「りょ、了解でース!フライトモードに移行します!」
私の考えが伝わったようで、音華は満面の笑みになり顔を見合わせて頷き合う。
「ふぇっ!?」
音華と2人でひまりの手を取り引っ張って崖に向かって走り出す。
「ちょ、ちょっと待ってくだしゃい!お、落ちちゃいますーーーっ!!?」
私達は3人で崖から飛び出し空中に身を投げる。
「ぴぎゃーーーーーーッ!!?」
「アイハブコントローーー!!」
「音華!!!」
主導権を握ろうとする音華を強い視線で制止する。
「アイ!ハブ!コントロール!」
怖い顔をしていたのだろう、音華が少し怯えてしまった。
「ユ、ユーハブコントロール…」
私はコンソールを操り3人で空を舞って見せる。
「はわわわーーーッ!!?落ちっ!?飛っ!???」
語彙を失い混乱するひまりを落ち着かせるように、ゆっくり海面と平行に慣性飛行する。
「落ち着きなさい、フライトモード。この世界では飛べて当り前よ?」
「で、でも、こ、怖い、です…。VRで空を飛ぶのとは全然違う感覚で…」
「あら、ゲームとかするのね」
「あ、はい。割と、好きです…」
「それならこの世界もきっと楽しめるわよ」
私が旋回しながらゆっくりと高度を上げると握ったひまりの手が強張る。
高度が上がり、300メートルまで来たところで制止する。
「ひ、ひぇ~…」
怯えながらもひまりは周囲を見渡して興奮している。
海と、崖の奥には山。広がる大自然の中、浜辺に2階建ての一軒家がぽつんと建っている。
「あ、あそこ!家があります!」
両手を強く握ったままのひまりは指差すことができずに視線だけで見つけた物を知らせる。
「音華のおうちでース!寄ってくでスか?」
「そうね、あそこまで行くの、ひまりが操作してみる?」
私はひまり用のコンソール作ってを差し出す。
「ふぇ!?め、免許持ってないですぅ」
「ないわよそんなの。落ちたって死んだりしないから、試してみなさいよ」
音華の手を放し、恐る恐るコンソールに手を伸ばすひまり。
「でモ、落ちたりしたらめちゃくちゃ痛いでスから、気を付けるでスよぉ」
ひまりの手がぴたりと止まる。
「ユ、ユーハブコントロール…で、お願いしますぅ…」
音華の家の玄関を開ける。
「か、鍵、かけてないです?」
「うん?ロックはかかってるでスよ~。許可してない人は入ることができないでース」
「さぁ、入りなさい。お茶していくわよ」
自分の家の様にひまりを招き入れる。
「お、お茶まで飲める、ですか…?」
飛ぶことよりも随分と日常的な行為にも驚いている。
「飲ミ放題!食ベ放題でース!」
「そう、そして何より太ったりしない、素敵な空間よ」
ダイニングテーブルを3人で囲んで座り、コンソールを起動させる。
何もないテーブルの上をきょとんと見ているひまり。音華は空中からティーセットとお茶菓子を取り出す。ティーポットには既に紅茶が入っており、甘い香りが漂いだす。
「はぇ~……。も、もうお、驚かないです…!」
言っているひまりの目はぱちくりしている。
音華は慣れた手つきで紅茶をカップに注いでテーブルに並べる。
「それじゃあ、いただきましょう」
先に飲んでみせるとひまりも紅茶に一口つける。おどおどしていた顔が華やかな笑顔に変わった。
「お、美味しいですぅ」
「お菓子もドウゾ、でス」
差し出されたお菓子を頬張り満面の笑み。
「こ、これは、本物を超えていくかもしれません…!」
「一流店のモノを再現しているからね」
「さ、再現…。この世界はある意味本物、って京香ちゃん言ってました。と、飛んでる不思議な感覚も、地面を歩く普段の感覚も、こ、紅茶やお菓子の味や香りも…。VRとは違うものでした。この世界、メタバースって、何なんです?」
ひまりはお菓子を頬張りながらも真面目な顔で質問してくる。
「そうね。ちょっと難しい話になるけど、簡潔に言うとACP、人工意識者を生み出すということは人間の意識、魂のようなものを解明したと言っても過言ではないの。その中で、クオリアと呼ばれる感覚質は感覚的体験に伴う独特で鮮明な質感、つまり、私達が赤色を見た時にそれを赤色だと認識するモノ。それをC2TD、私達が使ってきた完全意識転送装置を通して刺激することで現実に体験したように感じることができるの」
私は紅茶を一口飲んでのどを潤す。
「従来のメタバースや仮想現実とこの世界が違うところは、ACPが存在する世界だからこそクオリアに重点を置いてる部分ね。ひまりはこの世界をリアルだと感じているでしょう?でも実際は他のメタバースとは比べ物にならないくらいデータ量が小さい世界なの。私達なんてクオリアを通さずに見れば関節が動くだけの棒人間でしかない、データ量にしてたったの2MBの存在よ。そんな棒人間に各個人のステータスと画像データを付けることで本物の人間のように見える、感じる」
ひまりは思考と共に体まで固まってしまったようだ。
「…例えばひまりも、人の顔写真1枚とその人がどんな背格好か、そんな情報があればその人を想像することができるでしょう?」
「た、確かに…?そう言われれば、想像くらいなら、できるです?」
「うん、想像することが大事なの。人や物が発信する僅かなデータを自分が持っているデータベースで補う。それがこの世界のからくり」
「な、なんとなく、分かった気がします…」
ひまりは両手でティーカップを持って紅茶をまじまじと見つめる。
「この紅茶も、ここにあるのは、ステータス?…だけで、私達がここにある紅茶のステータスを紅茶として認識する。ってことです?」
「そう。実際には物理エンジンも介入するけど、タネが分かれば単純でしょ?」
「この世界は、ある意味本物、ってそういうことですね。すごいです!」
「そうでース!ココはまさシくパラダイスなのでース!」
黙々とお菓子を食べ続けていた音華。
「ぱ、ぱらだいす、ですか?」
「いえ~ス!この第二世界はプログラム1つで全てを生み出せる、全てが存在する世界!マスターワールドの方々はここを楽園と呼びま~ス」
「マスター?第二世界…?知らない言葉が次々と出てきます…」
「ふふっw。マスターワールドは私達が住む現実の世界。第二世界はここ、音華達ACPが住むメタバースのこと。焦って覚える必要はないわよ」
「あ!違うでス!無いモノありまス!お姉様!にゃんこの実装早く欲しいでスぅ!」
そう、この第二世界では動物が存在していない。ここに住む数匹のモルモット以外は…。
「今はモルモットたちで我慢してちょうだい」
口を尖らせて甘えるように拗ねる音華。
「ね、猫さんは、いないです?」
「猫、というか動物がこの世界にはいないのよ。従来のAI動物なら入れることもできるんだけど、ここは人間とACPの共存ができる世界を目指しているから魂のないものを創りだすことをよく思っていない人たちもいてね。アニマル型ACP、この場合ACAかしら?まあ、とにかくアニマル型が完成していない今はまだ、ってことね」
「…?モ、モルモットさんはいるです?」
「そうでース!それこそお姉様の研究ノ産物!アニマル型をこの世界に初めて生み出したでスよー!」
「きょ、京香ちゃん!すごいです!京香ちゃんはこんなすごい世界を創るお手伝いをしているんですね」
ひまりは小さく手をぱちぱちと叩いて私を称賛してくれる。
「そ、そう。すごいのよ、私達の研究は」
私は少し言葉を濁した。音華の言ったことは正確に言うと間違いであり、正しくは産物ではなく副産物。ここに生まれたモルモットはあくまで私の研究の”モルモット”なのだから。
「お姉様もお祖父様たちモ皆すごいのでス!神様と言っても過言でハないのでース!」
音華も称賛してクラッカーをパンッと鳴らす。
「そ、そうよ!研究者は未来を切り開く仕事なんだからね!」
称賛されて気分が良くなる私の横でひまりがあっと声を上げる。
「きょ、京香ちゃん、私、9時から診察でした…!」
焦りだすひまり。私は時計を確認する。もちろん忘れているわけじゃない、時間は厳守だ。
「そうね、そろそろ30分になるわね。今日はこの辺にして戻りましょうか」
「はいでス!パラダイスからのログアウトを実行するでスよ~」
私達は3人揃ってログアウトした。
ルーム4で意識を取り戻す。時計は8時29分。9時の診察なら焦る必要はなさそうだ。
隣のルーム3に移動してひまりを起こす。
「ひまり?起きれる?」
目を覚ましたひまりは寝ぼけているような感じだ。
「はれ?…あ、そうだ、京香ちゃん、私、診察に…」
「大丈夫よ、今8時半になったとこ。送っていくから焦らないで」
ひまりに手を貸して車椅子に座らせる。
「ふぇ?8時半…?」
「正味5分間のメタバース体験ね、どうだった?」
「あ、そ、そうですね、何でしょう…?あっという間…?というのか、長かった?…のかな?」
「時間の感覚がおかしくなっちゃった?」
「は、はい…。もっと長い時間が経ってると思ってました…」
「ふっふーん!」
得意気な音華が現れる。
「そうでース!なんと!パラダイスでは隔離された空間の時間を速くスることができるでス!」
「じ、時間までも、自在に…?」
ひまりはもう、驚くよりも呆れているみたいだ。
「thinking acceleration、思考加速や思考ブーストと呼ばれる機能があって、時間の流れを最大で5倍まで速くすることができるの。もっとも、ACPだけでの利用なら12倍まで可能だけど、安全性やサーバーの負荷を考慮して5倍を限度としているわ」
「ほ、ほへ~」
「普段ACPは皆、マスターワールドを支えるお仕事をしているけど、お休みの時間をブーストさせることで1日8時間労働80時間休憩を実現できるすっごいホワイトな労働環境になっているわw」
「むしろお姉様ト一緒のお仕事が待ち遠しいので私はあまり使わないでスがw」
「た、確かに…?空間を隔離?する必要があるなら、す、少し寂しいかもしれないです…」
隔離しなければ他のACPにも影響が出る為仕方ないことだ。
私は車椅子の電源を切ってルーム3から引っ張り出す。
「それじゃあ、私はひまりを送っていくから」
「送っていくなら音華が行くでスよ~?」
音華の提案にひまりの肩がびくっと反応した。
音華は車椅子を乗っ取ろうとするが、電源が切れているので音華には動かせない。
「あなたはお留守番していなさい!」
私の強めな口調に音華はしゅんとして、ひまりはほっとするのだった。




