マガダ国・ビンビサーラ王との再会
そして翌日、シッダールタはカーシャパ兄弟をはじめとする千余人の弟子を率いてマガダ国の都、ラージャグリハへ至り、北門近くにある園林に留まった。
この知らせはすぐさま王宮へ届き、ビンビサーラ王は喜びのあまり玉座から立ち上がって叫んだ。
「あのシャーキャ族の若い修行者が、そのような偉大な師となったのか。きっと私との約束を果たしに来たのだ」
「民人はシャーキャ・ムニ(釈迦族の苦行者)と彼の御人を呼んでおるようです」
傍らに侍していた大臣のチャンドラプラディーパ(月光)が言葉を継ぐように云う。
「いや、もはや苦行者ではあるまい」
ビンビサーラ王は大臣を顧みた。
「證を得、千人を超す弟子を持つ大沙門となったからには、シャーキャムニ・ブッダ[釈迦牟尼世尊・釈尊]と呼ぶがふさわしい」
そして王は宝冠を被り正装をして車に乗り込んだ。御者に命じて、マガダの王はそれを全速力で走らせる。同じく衣服を整えた家臣たちも各々(おのおの)、主君に遅れまいと車を引き出し、馬へ鞭を入れた。
(我が君がこれほど執着される沙門とは、いかなる人物か)
王の車は土埃をあげて疾走している。そのの斜め後方に馬車を駆けさせながら、チャンドラプラディーパは想う。
彼は王とシッダールタの会見の様子について聞き知ってはいたが、実際にその相手を見たことがない。
(我が君があれほど肩入れをする沙門であれば、さぞや立派な……いや、仏陀とまでいわしめた者。じつに興味深い)
いつもならば厳しく引き結ばれた大臣の口元が、かすかにほころんだ。
彼はビンビサーラ王よりも一回り年上のバラモンであった。白髪の混じりはじめた髪と髭は常に美しく整えられ、薄い瞳と端正なその顔はどのような状況に陥っても乱れたことがない。王が十五のときに即位して以来、仕えてきた。行動的なビンビサーラ王もさることながら、智慧者のチャンドラプラディーパ、マガダ国の繁栄は彼の功によることが大であると、国の内外で云われている。けれども、それを鼻にかけるでもなく、彼は淡々と政務をこなし、王を補佐していた。
やがてビンビサーラ王とその家臣たちを乗せた車が次々と北門を出で、すぐそばの林の手前で停まった。
カランダカ竹林園、このあたりはかつて栗鼠が眠れる王を毒蛇の害から守ったので、その恩返しにこの竹林へ放し飼いにされた、という伝説を持つ。竹薮だけでなく、実の成る樹木も生い茂り、そこは清浄な気に満ちた場所であった。
車から降りた王は、さわさわと竹の枝葉が揺れる小道を抜け、『善く住める[スパティッタ]』という名の霊樹がある場所[善住制底]へと歩みを進めていった。
広々としたその草地には中央の大樹の根元に、多勢の黄衣を身につけた沙門が坐っていたが、ビンビサーラ王は迷わず真っ直ぐひとりの若い出家のもとへ歩み寄る。そして拝んだ後、当然のような態度で一方へ坐った。
(あれが、そうであるのか)
思ったより若いということが、一番の印象だった。しかし自らも近寄り、王に倣って拝した大臣は、座につくころには納得していた。
(浄らかであり、寂かである。これぞ、まさしく仏陀)
彼には観相の心得があった。
(王はまことに善い御方を得られた。このマガダのためにも)
チャンドラプラディーパ大臣は、バラモンの自分が階級が下であるクシャトリヤの王に仕えることを恥としていない。むしろバラモンの智慧をもってビンビサーラ王を導き、国を平らかに人々を幸福にすることが神意に叶うと思っている。なによりも彼は生まれ育ったこの国を愛し、ビンビサーラ王の人となりを認め、信頼していた。
けれども他の人々は違う。
「我が君は、あの若い沙門をたいそう丁重に扱っておられるが、あれはカーシャパどのの新参の弟子ではないのか?」
「いや、カーシャパどのたちが、あの沙門について修行されるのではないのかな」
「まさか」
大臣の背後では家臣ばかりか、聖者と王の対面を見ようと集まってきたラージャグリハのバラモン、資産家たちが声をひそめて話していた。ある者はシッダールタに敬礼したのち坐り、またある者は挨拶を交わしたのちに一隅に坐った。合掌し、または姓名を名乗り、あるいは黙って、それぞれの所作は異なっていても彼らのほとんどは、沙門のゴータマがウルヴェーラについて修行するのか、ウルヴェーラがゴータマについて修行するのか、疑念を抱いていた。
シッダールタがこれを察してウルヴェーラ・カーシャパを顧みると、老人はその心を知り、人々の前で云った。
「私は以前、ウルヴェーラの林にあって火に仕え、苦行にやつれておりましたが、今は世尊の御教えによって真実の道を楽しむようになりました。世尊こそ私の師、私は弟子であります」
粗衣をまとい、髪も髭も剃り落としたカーシャパの姿は、マガダの人々にとってその言葉同様、衝撃的であった。
そして彼は、同じことを二度くり返して云った。
「ほう……あの優れた方々が、若年の沙門の教えを乞うとは」
「なんと」
驚愕とも感嘆ともつかぬ声が、居並ぶ人々の間を駆けめぐる。
ビンビサーラ王はこの様子を見てチャンドラプラディーパ大臣へ顔を向け、にっと笑いかけた。
こうして人々は初めて疑いを晴らし、ゴータマ・シッダールタがマガダの耆宿の師となったことを知った。
人々の興味が自分に向けられたところで、ゴータマ・シッダールタは順をおって法を説く。
耳に心地よい声が響き、的確で分かりやすい内容でありながら、それは師子が深い息吹を吐いて吼えるかのような印象を与えた。
そして法話が終わったあと、ある者は感動に打ち震え、またある者は胸をつかれてもの思いに沈んだ。このため、人々は皆しばらくの間、声を発することも出来なかった。
その咳ひとつない静寂を破り、ビンビサーラ王が口を開く。
「世尊……この上なき御方。私はかつて王子であったとき、五つの願いを持っておりました。
『私は王として灌頂せられたい。私の領国に仏が顕れていただきたい。私はその仏にお仕え申したい。その仏より法を聞きたい、解りたい』と。
今やこの願いのすべてを成し遂げました。たとえば倒れたのを起こし、蔽われたのを顕し、迷うているものに道を示し、眼あるものに形を見よと、闇に光をもたらすように、世尊はさまざまに法を説いて下さいました。
世尊、私は世尊に帰依いたします。法と僧伽に帰依いたします。今よりのち命終わるまで、信者として私を受け納れて下さい。また、明日は御弟子たちをつれて私の宮に来たらせ給うことをお願いいたします」
このときよりシッダールタはマガダの人々から認められ、『目覚めたる人[ブッダ]』と呼ばれる。
彼は黙然とうなずいた。
そこで王は宮殿へ戻り、夜を徹して食事の用意をした。そして翌朝、使者を遣わして師へ時を知らせた。
「もう時刻です。尊い方よ、食事の用意が出来ました」と。
衣を着け鉢を取り、千余の弟子を率いて、シッダールタはラージャグリハへ入る。沙門を見慣れた都の人々も、このような光景を目にするのは初めてのことだった。まるで強敵を打ち破って凱旋する将軍と兵士が歩むような晴れがましさがあり、わけを知らない者たちは樂を鳴らし、浮かれ騒いでいる。
やがて沙門たちが宮門をくぐり、広間に設けられた座へ着くと、ビンビサーラ王自らが給仕して供養を行った。
そして、もてなしが終わったとき、王は想う。
(世尊には長くこの地に留まっていただきたいものだ。町から遠くもなく近くもなく、往返に都合よく、いつでも行き易く、昼は人の雑踏がなく夜は騒がしさのない、閑居と静思にふさわしい場所はないだろうか)
いろいろ考えた末、あの北門近くの園林が善いと思い、これを寄進しようと決めた。
そこで王は黄金の瓶をとって師の御手に注ぎ、云った。
「私は、あの竹林園を世尊に捧げたいと思います」
シッダールタはこれを受けた。やがてその園林は竹林精舎と呼ばれて、仏陀のみならず多くの弟子たちが修行に励む場となった。