カーシャパ三兄弟
このように教えを説きながら、シッダールタは再びネーランジャラー河[尼連禅河]の辺へと至った。
この河畔には、そのころマガダの人々から耆宿――学問、人格ともに優れた老人と尊敬を受けていた三兄弟の庵がある。
カーシャパ(迦葉)姓の彼らは、長兄ウルヴェーラ[優留毘羅]が五百人、次兄ナディー[那提]が三百人、末弟ガヤー[伽耶]は二百人の弟子を率いていた。彼らはみな結髪の拝火教徒であった。
シッダールタはまず、ウルヴェーラ・カーシャパを訪ねた。
そこは森の中の開けた場所で、中央に煉瓦造りの大きな塔があり、周囲には修行者たちの質素な庵が点在している。
「この地で修行を為したいと云われるは、貴方であるか」
弟子たちから異教の沙門の来訪を告げられ、ウルヴェーラ・カーシャパがやってきた。
輝くような白い衣を身につけた彼は、銀髪を高く結い上げ、白髭を垂らし、彫り深いその面は穏やかで瞳には知恵の光がきらめいていた。
シッダールタは挨拶をしたのち、ウルヴェーラ・カーシャパへ一夜の宿りを求めた。
「あなた方の火室へ、ぜひ泊めていただきたい」
(またもや無謀な若者がやってきたのか)
老人は思い、背後の塔にちらりと目をやった。そこには昼夜を問わず、彼らのあがめる聖火が燃やされている。
「我らの聖なる炎の御堂には、巨大な毒龍が棲んでいる。中へ入って出てきた者は、今まで誰一人としておらぬ。やめたほうが良ろしかろう」
仁者の威厳をもって、ウルヴェーラ・カーシャパは断念するよう勧めた。
しかし、シッダールタはその態度の内に、過信と驕りの匂いを感じとっていた。
(彼は徳者であるが、修行完成者ではない。だが、なまじ知恵と経験が豊富なだけに、自らの信ずるもののみに固執し、ほかの教えに耳を傾けようとはすまい)
シッダールタはそう考え、今こそ激しい修行の末に身につけた六神足の力を使うときであると、心を決めた。
「この身を案じてのお申し出は、有り難きこと。しかし、修行でありますれば」
と、シッダールタはカーシャパたちにかまわず、聖火堂へ入っていった。
「なんとも気の毒なことをした……」
ウルヴェーラ・カーシャパは嘆息し、まんじりともせず夜を過ごした。命を落とすとわかっていて止められなかった。これは、実に後味が悪い。
聖火堂の窓からはさかんに炎があふれ、夜どうしそれは燃え続けている。
やがて朝となり、彼は弟子たちに命じて骸を運び出させようと、御堂の扉を開けた。
「高貴な相をした者であったが……さて」
老人は、若い沙門が死んだと思っていた。
けれども、傷一つない姿でシッダールタが立っている。
「貴方の云われた毒龍とは、これのことでしょうか」
と、彼は鉢の中でとぐろを巻いている小蛇を見せた。
(……やりおるな)
ウルヴェーラ・カーシャパは、シッダールタがかなりの神通力を持つ者であると知った。しかし、自らの力量の方が上だと信じる彼は、シッダールタの言葉を聞こうとはしない。
そこでシッダールタは引き続き火室へとどまり、神変を表した。
その夜、林が清らかな光に輝き、人々は眠ることが出来なかった。
「尊師カーシャパ、これは如何なることでありましょうか」
不安がる弟子に対して、心配するなと平静を装ったカーシャパだが、内心は穏やかでない。
(あの沙門の仕業であろう……)
彼にはシッダールタが起こした不思議であると、分かっていた。
そして翌日には、ふくいくたる芳しい香りが辺りにたちこめた。
「御師さま、これをあの修行者からもらいました」
と、弟子のひとりが見たこともない果実を両手に抱えてやってきた。香りの元は、それのようであった。
「あれは何者でありましょうか」
弟子たちも、シッダールタの存在が気になってきた様子だ。
「何であろうと」
ウルヴェーラ・カーシャパは、いまいましげに云う。
「我らは聖なる火を崇め、修行に励むばかりである」
彼は、シッダールタに関わらないよう弟子たちへ命じた。
ところが、
「大変です。薪に火が点きません」
次の日、弟子が駆け込んできた。
「これは、何としたことか」
カーシャパが見に行くと、斧を振り下ろしても薪は割れず、どれほど火打石で火花を散らそうとも、炎は燃え上がらなかった。
「あれを見ろ!」
そのとき、一群の弟子たちが川を指差して騒ぎはじめた。
ネーランジャラー河の水面が二つに分かれ、水中から乾いた土が現れようとしていた。と同時に、轟音を響かせながら塔のそばの地面が陥没し、水のないところに池ができた。
「……あの沙門だ」
恐怖に引きつった表情で、ひとりが云う。
「奴がやったのだ」
「あれは魔術師だ!」
みなが、驚きのあまり口々に言い騒ぐ。
「うろたえるでない!」
一喝して弟子たちの動揺を収めたウルヴェーラ・カーシャパは、穏やかに続けた。
「わしは彼の者と話をしてくる。そなたたちはいつもの勤めに戻るがよい」
そして老人は、踵を返すと火室の中へ入っていった。
(たいしたものだ)
初めシッダールタを面白く思っていなかったウルヴェーラ・カーシャパだが、その力を見せつけられ、素直に感心した。
けれどもまだ、
(この出家は我には及ばぬ)
と、想っている。
薪が足されないせいで聖なる火の勢いは小さくなっていた。しかし耐えがたい熱さは変わらず、カーシャパの額には玉のような汗がすぐさま噴き出した。
(かの沙門は……)
探すまでもなく、シッダールタはいた。炎を背にし、足を組んで黒々とした影となって室の床へ静かに坐っていた。
ウルヴェーラ・カーシャパが歩み寄っていく。すると突然、鋭い叱責があびせられた。
「カーシャパよ、汝は聖者ではない」
驚愕のため、老人の足が止まった。
「汝は聖者に至る道を見出していない。汝の教えは聖者になる道ではない」
ウルヴェーラ・カーシャパは、耳を疑った。
(私が聖者ではないと? 数々の修行を積み、人からは耆宿よと敬せられるこの私が……)
しかし彼は、自らを冷静に見つめることの出来る人物でもあった。
(たしかに私は修行の末に力をえ、これこそが真実へ至る道であると確信して弟子たちを導いてきた。だが、そこに驕りがなかったか。人から崇められることに安穏として、真理へ近づこうとする努力を怠っていはしなかったか)
老人は己を省みて愕然とする。するとそのとき、薪がはじけた。
炎がゆらめき、眼前の黒い影がぐんと伸びて、沙門の姿がとてつもなく大きくなった。
(これは、人ではない……)
啓示のような想いが、カーシャパをとらえる。紅蓮の炎を背負ったシッダールタは、魔を調伏するため恐ろしげに変化した黒い神に似ていた。
そして、がくりと膝を落とし、彼は若い沙門の前にひれ伏したのだった。
「大徳よ、貴方の下で私は出家したい」
シッダールタの一声はウルヴェーラ・カーシャパの頑なな心を打ち砕き、柔らかな新しいカーシャパを生み出した。
老人は髪と髭を剃り、シッダールタと共に外へ出た。
どよめきが起きる。
「師よ! 何というお姿に」
騒ぐ弟子たちへ、ウルヴェーラ・カーシャパは云った。
「静まるが善い。私は長年、神聖な火を拝み、その神の下で修行を続けておったのだが、これほどの神通力を得ることは出来なかった。そこでこれまで行ってきたことは正しい道ではないと知り、いま真実の道を歩もうと思う。
私はこの方を師といたす。そなたたちは、好きなようにするがよい」
しばらくざわめきが続いたあと、頭だった弟子のひとりが進み出て云った。
「尊師カーシャパ、我らは貴方をこの上なき御人として敬愛してまいりました。その貴方が認められた方を我らが認めないわけがありませぬ。これからは我らもこの方を師と仰ぎ、弟子としてお仕えいたしましょう」
彼らは即座に髪を切り落とし、火の神の祭祀道具とともにそれをネーランジャラー河へ流し去った。
この有様を伝え聞いたナディーとガヤーは兄のもとへ駆けつけて意見しようとしたが、ウルヴェーラ・カーシャパにかえって諭され、教えに耳を傾けることとなった。そこでふたりのカーシャパもその弟子たちと共に、帰依を誓ったのであった。
シッダールタが千三人の弟子を得たこのとき、成道を為してから半年しか経ていない。けれども転輪聖王[チャクラ・ヴァルティン]の輪宝が敵を粉砕して転がるように、法の輪も人々の煩悩を破壊しながら瞬く間に広まっていく。
(今こそまさに、ビンビサーラ王との約束を果たす時がきた)
そう思ったシッダールタは千余人の弟子を伴って、ラージャグリハ(王舎城)へと向かった。
途中には、ガヤーがある。その郊外の池と川は、古くから聖地として知られ、世俗の人々が悪を洗い去るために数多く訪れていた。また、この地には一つの山があり、頂の岩が象の頭に似ていたため、ガヤシーサ[伽耶山・象頭山]と呼ばれていた。
シッダールタたちがその山の上へ着いたとき、すでに陽が暮れていた。マガダの都の火がはるか彼方に輝いている。それを望めながら、彼は説く。
「弟子等よ、総ては燃えている。いかに総てが燃えているか。
弟子等よ、見る眼も見らるる物も、見て分別える識も、またそれによって起こる感受も、みな燃えている。そのように、耳、鼻、舌、身、意と、その境界やそこに起こる分別や感受も、また皆すべて燃えている。
弟子等よ、何の火によって燃えるか。貪欲の火、瞋恚の火、愚癡の火によって燃えている。生と老と病と死と、憂、悲、苦、悩、悶の火によって燃えている。
弟子等よ、もしこの教えに従う者が、かように見、かように聞いて総てを厭うならば、欲情を離れて『我は解脱した』という智慧を生じ、『生は尽きた、浄らかな行は成し遂げた、成すべきことは成し終った、これより後に迷の生はない』と知るであろう」