ヤサ
その後、真実の眼を開いたコンダンニャたちは鹿野苑をはなれ、それぞれが想うままに旅立って行ったが、シッダールタはひとりこの地に留まっていた。
そしてある日の明け方、座禅に疲れた足を伸ばそうと、そぞろ歩き[経行]をしていたとき、声を聞く。
「危ない、危ない」
陽が射し染めたばかりの森には、乳白色の靄がたちこめていた。あたりが明るくなってくるにつれ、それは薄絹がたなびいているかのようにまだらな縞をなし、餌を求めて移動する鹿たちの姿を見え隠れさせている。
シッダールタは靄を通したむこうに目を凝らした。
そこには、足に黄金の履をはいた身なりの良い若者が佇んでいた。けれども、その足は土埃にまみれ、上等な衣もだらしなく着崩れている。
「何が、危ないのだね」
シッダールタは、声をかけた。
怯え、やつれた表情で振り返った青年は、精神の糸が切れたか、その場へうずくまってしまった。
シッダールタは青年の前へ行き、片膝をついた。
「ああ、尊い沙門さま……」
若者はこのとき初めて人がいることに気づいたようだ。
「ここは少しも危ないことはない。こちらへ来て坐りなさい」
シッダールタは彼の手を取り、傍らの大樹の下へと導いた。
若者は履を脱いで腰を下ろすと、自ら語り出す。
「わたくしはベナレスの長者のひとりごでヤサ(耶舎)と申す者でございます。思うかぎりの贅沢が許され、寒い時には冬の宮、暑い時には夏の殿、雨の季には雨の亭があてがわれて、あらゆる欲の楽しみに耽っておりました。昨夜も他では味わえぬような豪華な料理を食らい、美酒を呑み、女を心ゆくまま抱いて眠りに落ちました。ところが夜中にふと目を覚ましてみれば、蘭燈ひとつ輝く下、管弦に疲れた女達はたしなみを忘れて眠り、脇の下へ箜篌をはさんでいる女もあれば、首に太鼓を乗せている舞姫もおり、髪を乱している女、涎を垂らして寝言をいうもの……まるで墓場のようでありました」
ヤサはそのとき心に受けた衝撃を思い出し、両手で自分自身の肩を抱いて身震いした。
「魅惑的な女たちも、一皮むけば汚物の塊。贅を尽くした私の室も屋敷も、永い時を経たのちには塵に返るもの。そう感じた私の身の内には、総毛立つような嫌悪が湧き起こり、欲の禍に思い至ったのです。五欲を満たすことだけを追い求め、それが生の楽しみであると思い込んでいたところ、真実は奈落へと通じる深い穴の縁に立っていたと気づいたのです。そうして、これまでの生活の危うさと虚しさを感じた私は、後先も考えず家を飛び出し、ここまでやって参りました……」
ヤサが自らのことを話すうちに視界も晴れ、朝餉を探す鳥たちが鳴き騒ぎはじめた。
きらめく陽の下で胸の内にあった想いをすべて吐き出し、若者の精神も落ち着いてきたようだ。
(ここにも、かつての私と同じことを考える者がいる)
シッダールタは微笑んだ。そして、施しの話、戒の話、天に生まれる話、楽欲の禍と汚れ、欲の世界を出離することの利益など、順をおって話を進め、ヤサの心を調えたのち、苦集滅道の四諦の教えを説いた。
すると浄らかな衣が色に染まりやすいように、ヤサの精神も法の色に染まって『生まれるものは、必ずみな滅びる』という真理の眼を生じたのだった。
その一方、ヤサの邸では一人息子が消えうせたと大騒ぎになっており、使いが八方に走って彼の消息を尋ねていた。ヤサの父も自ら子を探して、陽が高くなったころに鹿野苑へやってきた。そこで父親は、大きな樹の根元に黄金の履が脱ぎ捨ててあるのを見つけた。
「これは、まぎれもなく我が息子のもの……」
跪いて履を手にした父親は、近くに坐っていた沙門へ尋ねた。
「尊い方よ、これを履いていた若者をご存じありませぬか。それこそ、行方の知れぬ我が子なのです」
けれどもシッダールタは、答える。
「やがて子に遇うことができようから、しばらくここへ坐るがよい」
得心のいかない顔で腰を下ろしたヤサの父に、シッダールタは法を説いた。
初め、しぶしぶ話を聴いていた父親だが、終わりのころには真剣に耳を傾けていた。そして、云う。
「勝れたことであります。ちょうど倒れたのを起こし、蔽われたのを顕し、迷うて居るものに道を示し、眼のあるものに物の形を見よと暗闇に光をもたらすように、貴方様はさまざまに法を示して下されました。尊い沙門さま、私は貴方様に帰依いたします。今より命終わるまで、帰依する信者として私をお受けください」
父がシッダールタを拝するのを見てヤサも木陰から姿を現し、そこで父子は共に喜びあった。
翌日、シッダールタは家へ招かれて法話をなし、ヤサの母と彼の若い妻をまた信者とした。
(このような優れた教えを体得するには、沙門となったほうがよいのではなかろうか)
そう考えたヤサは両親の許しを得て出家し、ヴィマラ、スバーフ、プンナジ、ガヴァンパティという彼の親友四人、また一団の友五十人もヤサの勧めによって髷を切り、粗衣を身につけ、弟子となった。
彼らはよく教えを守り、法に従って修行をし、まもなく證を得ることができた。そのため、この世に六十一人の聖者があることとなった。
ヤサと友人達が聖者となったとき、シッダールタは彼らに告げた。
「弟子等よ、私はすべての縛から脱れた。汝等もまた、すべての縛から脱れた。
弟子等よ、世間を憐れみすべての人々の幸福のために世を巡れ。二人して、一つの道を行かぬようにせよ。初めも美しく、中も美しく、後も美しく、義と文との備わった法を宣べ伝えよ。すべて円かにして浄らかな行いを説きあかせ。世には智慧の眼の汚れの少ない人々があり、彼らは法を説くことがなければ亡びるであろうが、法を聞けば覚るであろうから」




