八正道と四聖諦――2
シッダールタはこの世のままならぬ苦について、再び説く。
一切は苦であるという認識[苦諦]、その苦しみは苦を生じさせる原因を集める行為や思考にあること[集諦]、苦しみの原因を生じさせないことでそれは消滅させることが出来ること[滅諦]、そして、苦の原因を消滅させる方法[道諦]、すなわち八正道。
コンダンニャは坐りなおし、半眼となって心を静めた。火花が盛んに散り、何かがわかりかけていた。
(思いのままにならぬ苦のさまざまな性質を知り、苦の原因を認識して、その起因たる欲望をなくせば苦もなくなるという法則をわきまえ、そのための方法を実践する……これは……)
彼の精神はシッダールタが経てきたようにすぐさま初禅の域へ達し、第二禅、第三禅、第四禅へと進んで清浄な執着のない状態となっていった。さらに空無辺処定(一切のものは空であると知る境地)、識無辺処定(心にかたよりのない境地)、無所有処定(ものにとらわれない境地)、非想非非想定(ものを考えるにあらず、考えていないにあらずという境地)と進んでゆき、滅想受定(心と心のはたらきをすべて滅した境地)へと至る。
このときすでに己と他との区別はなく、彼は黄金に輝き、ゆるやかに流れる生命の大河の中にいた。
(ああ、なんという歓喜、なんという安らぎ!)
恒河よりもはるかに豊かで大きく深遠なそれは、善も悪も業も何もかも呑み込んで、過去から未来へと時には渦を巻き、きらめきながら果てしのない彼方に向かって滔々(とうとう)と流れている。
(これは何か……)
流れの中の一滴となりはてたコンダンニャは、多くのものたちの気配を感じた。それは草や樹や花などの植物であり、人をはじめとする牛や馬、鳥、象などの動くものたち……生きとし生くるもの……。
ほとんど知らないものたちであったが、ときに懐かしい感覚を憶えることもあった。
光輝く大いなる流れにすべてをゆだねれば至福の想いが満ちる。身体や精神はもとより、すでに感覚も思考も消えはてて、彼はこれまで想像したことのないやすらいの中にいた。
コンダンニャ個人の存在は総てに通じ、世にある総ての生命そのものが、コンダンニャ自身の中に集約されている。個は全、全はすなわち個であった。
(なんという境地であることか……)
光の洪水が押し寄せる。
と、そこで彼は唯一無二の存在、真の自分との邂逅を果たしたのであった。
そして、はたと見開いたとき、シッダールタと視線がぶつかった。
「コンダンニャ、アニャータ!(コンダンニャは覚ったのだ)」
彼の内なる変化を見て取り、シッダールタが喜びの声を上げた。
「ああ、友よ。ゴータマ……いや、我が師よ。生まれるものは必ず滅びるのですね」
コンダンニャも瞳を輝かせた。
続いて、シッダールタは説く。
「出家等よ、形ある身は『我』ではない。もし形ある肉体や物[色]が『我』であるならば、この身は、かくあれかくあらざれと自由にすることができるはずである。それと同じく心[想]も感覚[受]も思念[行]も識別[識]も、また『我』ではない。すなわち、それらも『かくあれ、かくあらざれ』と自由にすることが出来ぬからである」
そして、問う。
「汝等は、どう思うか。形あるものは常住であるか、無常であるか」
「無常です、師よ」
「では、無常であるものは苦であるか、楽であるか」
「苦です、師よ」
「無常であり、苦であり、遷り変るものを、私のもの、私の自我であると見なしてよいであろうか」
「よくはありません、師よ」
「出家等よ、心も感覚も思念も識別についても、またこの通りである。尊い弟子はかくの如くに見、かくの如くに聞いて、形あるものを厭い、心も感覚も思念も識別をも厭う。そしてそれらに執着しないならば、すなわち解脱して、解脱したという智慧を生む。『生は尽きた、浄らかな行は果たされた。成すべきことは成し終わった。これよりのち、他の生はない』と知るのだ」
シッダールタの説法を聴いて、ワッパは想う。
(人から師として崇められる大沙門はみな、世界と同一な真実の自己・我の存在の有無から説き起すのに、彼はすべては移ろいゆき〔諸行無常〕、『永遠不変の』我は見い出せない〔諸法無我〕、と云う……)
それは、新鮮な驚きだった。
(世界も移り、我も移りゆく……ああ、そうだったのか)
ワッパは頓悟して、叫んだ。
「我等は縁りて、此處に在るのですね」
バッデイヤ、マハーナーマも云う。
「激しく貪るような、求めて止まない欲望[渇愛]も、この法によって滅し、心の平安が得られる……」
「ああ、欲望というものを、ことごとく知り尽くして自由となる」
そして最後にアッサジも執着を離れ、煩悩から脱れたのだった。
このようにして、拝むに足る人[阿羅漢]――聖者が六人、世にあることとなった。