コーリヤ族とシャーキャ族の水争い
かくして釈迦牟尼世尊は祇園精舎にしばらく滞在したのち、ラージャグリハへ戻って竹林精舎で第三の雨期を過ごした。芸人のウッガセーナと俳優村の長タラブタを教化して弟子と為し、他にも多くの人々に教えを説いていたが、この年、隣のヴァイシャリーでは飢饉と悪疫の流行で死者が出るほどの状況となっていた。
民人は恐れ慄き、為す術を知らない有様であった。政を司る貴族たちは、世に名高い六師の中の一人を招聘して悪鬼を去らしめようとした。けれども強く主張する者がいて、シャーキャ族の聖者に来訪を乞うこととなった。
ヴァイシャリーの使者はマガダ国へ入り、ビンビサーラ王と世尊に悲惨な状態を訴えて遊化を願った。釈迦牟尼世尊はこれを許したので、ビンビサーラ王も恒河の岸まで道を繕い、師を送っていった。
恒河を渡り、少し行くとヴァイシャリーである。土地は荒れ、飢えと病に人々は疲れていた。
ところが、世尊の一行がこの地に入った頃より疾病の流行が衰えはじめた。そして弟子らが経を誦しながら城壁の周りを廻って水をまくと、それはすっかり収まり、人々は、
「六師よりもゴータマ・ブッダの威徳の方が上なのであろうか」
と、噂しあった。
釈迦牟尼世尊は二ヶ月ヴァイシャリーに留まって法を説き、そののち竹林精舎へと帰っていった。
また、成道四年めのことである。
雨期に入った頃、世尊はシュラーヴァスティーの祇園精舎に滞在していた。この年は旱魃が長く続いて河水も減り、田畑への灌漑用の水を得るのに非常な苦労をした。そんなとき、カピラヴァストウとディーバダハとの間を流れるローヒニ河の水をめぐって争いが起きた。
幾重にも婚姻をかさねた兄弟同様の二つの種族であったが、ちょうど穀物が実る大切な時期であったため、人々は必死であった。やがて不安と疑心が膨らみ、カピラヴァストウとディーバダハの民は互いに悪口を言い始め、それが高じて遂には棒を取り剣を抜き今にも血を見るかと思われるまでになった。
世尊は祇園精舎にいてこの噂を聞き、急ぎ故郷へ帰って、まさに矛を交えようとする両軍の真ん中に立った。
「仏陀よ!」
「おお、釈迦牟尼世尊!」
双方から、声が湧き起こる。
「いま我らの血筋から出た聖者を見ては、どうして相手に矢を放つことが出来ようか」
と、シャーキャ族、コーリヤ族の中には、武器を投げ出す者もあった。
人々の戦意が喪失したのを見た世尊は、両軍の首領を集め、云った。
「貴方がたは何故、ここに集まっているのか」
「戦うためであります」
「では、何事によって戦おうとするのであろうか」
「灌漑の水について、であります」
双方の軍の頭が、ぶ然と答える。
そこで彼らの仏陀は問い掛けた。
「人の生命と比べて、水は如何ほどの価値があると思われるか?」
「それは……」
ぐっと言葉に詰まった後、コーリヤ族の頭が云う。
「申すまでもなく、人の生命に比べれば、水はほんのわずかな価値しかありませぬ」
「されば何故に、価値ない水のために、この上なく価値ある人の生命を滅ぼそうとするのであろうか」
と、世尊は双方の人々に次の話をした。
「これは昔話であるが……山の奥に黒皮の獅子が住んでいたが、いつもパナダ樹の根元に寝転んで、他の獣の来るのを待っていた。ある時、風のためにその樹の枝が折れて獅子の背の上に落ちた。驚いた獅子は我を忘れて逃げ走ったが、そっと振り返って見ると、何者も自分を追いかけてこない。これはひとえに、樹の神が私を憎み、その樹の下から私を追い出そうと云うのであろうと腹をたてて立ち返り、樹の幹に噛みついて、
『私はお前の葉一枚でも食った事もなければ、一本の枝を折った事もない。なのにお前は他の獣にはここに居ることを許して、私には許さない。私が何をしたというのか。よし、その内、お前を根こそぎ抜いて切りさいなんでやろう』
と、さまざまに悪口して人を探しに出掛けた。
そこへ車作りの大工が樹を探しに来たので、黒獅子はその男にパナダ樹の在処を知らせ、その樹を切らせようとした。男が鋸で樹を切り出すと、樹の神も驚いて姿を現し、
『お前はこの樹を切って車を作ろうとするのであろうが、その車の輪には黒獅子の頸の皮を少し張りつけると非常に丈夫なものになる。あの黒獅子を殺して皮を取るがよい』
と、そそのかした。
大工は喜んで樹の神の教えた通りに黒獅子を殺し、樹を切って村へ帰ったということがある。
公子達よ、この物語にも顕れているように、人間はつまらぬ誤解のために争いを起こし、互いに傷つき殺しあうものである。
また、こういう話もある。
西海のほとりに橡の樹の交じった林があって、一匹の兎がその樹の下に生えた棕櫚の林の中に住んでいた。
兎がふと、『もしこの世界がこわれたら、どうしよう』と考えた。その折も折、橡の実が棕櫚の葉の上に落ちて、かさりと音がした。
『すわこそ世界がこわれかかった』
と、兎は飛び上がって後をも見ずに逃げ出した。
すると他の兎がそれを見て、あまりな逃げ様だが、何が起こったのだろうかと不審に思って続いて走り、『どうしたのか』と尋ねると『世界がこわれかけたのだ』と、逃げ走る。
第二の兎も『それは大変』と、負けずに走る。第三第四の兎も途中から加わって逃げ出し、しまいには数千の兎が逃げてゆく。
鹿が加わり、犀、虎、獅子、象とあらゆる獣がことごとく加わって、数里の長さをつくり、世界の破壊を恐れて逃げ走った。
そのとき一頭の獅子がこれを見て、彼等が世界の破壊を恐れているのであると知り、そんなことがあろうはずがない、何かの音を聞き間違えたのであろう、もしいま私が傍観していたならば、彼等はみな滅びてしまうであろうと気の毒に思い、速足で駆けぬけて彼等の前に出で、山の麓に待ち受けて、大きな声で吼え上げた。
と、先頭の兎がぴたりと停まり、何万という獣が入り混じって立ち停まった。
獅子はその真ん中に進み、何故逃げるのかと尋ねた。
『世界がこわれかけたからです』
『誰がそれを見たのか』
『象が知っています』
象はそれを聞かれて、
『私は知りません。獅子から聞いた』
獅子は虎から、虎は犀から、という風にだんだんと元へ戻って、第一の兎が見たことが分った。
獅子は兎に尋ねた。
『お前が、ほんとうに世界のこわれるのを見たというのか』
『本当です。私は現に見ました』
『お前は何処に住んでいたのか。何時それを見たのか』
『西海に近い橡の樹の下の棕櫚の林に住んでいましたが、世界がこわれたらどうしようと思ったとたんに、がらがらという壊れる音を聞いて逃げ出しました』
獅子は大抵見極めがついたので、獣の群れをそこに待たせ、兎を背中に乗せて棕櫚の林へ帰り、どこのところか聞かせよと云った。
しかし兎は、ぶるぶる震えて近づくことが出来ぬ。獅子はその場所を綿密に調べて落ちた橡の実を拾い上げ、世界には何の変わりもないのを確かめて獣の群れへ帰り、橡の実を示して彼等の恐れを除き去った。もし獅子の教えがなければ、その無数の獣は逃げ走って、海へはまって滅びたに相違ないのであった。
公子達よ、人は正しい了解を持たねばならぬ。つまらぬ誤解がもとで、万人これに同じて悲惨な最後を招くものであるから、注意せねばならぬ」
カピラヴァストウとディーバダハの人々は世尊のねんごろな教えを聴いて心解け、これを機会に弟子となる者もあった。