給孤独長者
この出来事の後、しばらくしてからのことである。コーサラ国第一の富豪でスダッタ(須達多)というものがラージャグリハの義兄を訪ねてやってきた。
彼は穏やかな顔をした小太りの男であったが、見かけより動作は機敏で、有能な商人である。また信仰心が篤く、よるべのない人や貧しい人々によく喜捨したので、アナータピンディカ[給孤独]長者と呼ばれていた。
スダッタはいつものようにラージャグリハ有数の富商でもある義兄の家へ宿を取った。けれども、この日だけはどういうわけかざわめいて、家中の者が常にも増して忙しくたち働いており、妹婿の自分とその供の者は場違いな所に迷い込んだような奇妙な違和感を覚えた。
(この家の主人はいつも私と会う毎に、何事も投げ捨てて親しい話を交わしたものだが、今日は様子が違っている。嫁を迎えようとするのか、大きな供犠をしょうというのか、あるいはこの国の王か大臣達を招こうとしているのであろうか)
彼がそのように考えているうちに、義兄は家の者たちに命じ終わってから初めてスダッタのもとへやってき、その疑問に答えた。
「久方ぶりのお越しであるのに、ろくなおもてなしもせず、申し訳ありません。私どもは明日、仏と御弟子達をお招きするのです」
「なんと」
スダッタは、義兄の口から出た言葉に驚いた。
「あなたは今、仏と云われたか」
彼は三度同じ問いを発して確かめたのち、吐息を吐くかのように続けた。
「ああ……この世で『仏』という語を聞くことすら難しいものを。今、私は世に尊い覚の方を見奉るために出かけることが出来ましょうか」
「今はまだ」
逸るスダッタに、義兄が苦笑する。
「明朝、こちらへお出でになられますから、その折に」
それからスダッタは、仏陀のことを心に思い浮かべながら床に就いた。だが、興奮のあまり「すでに朝か」と、暁までに三度も目覚めてしまった。
そして仏の来訪を待ちきれなかった彼は、ひとり早朝に義兄の家を出た。城門が開くのを待ち、前日の閉門時間に間に合わず外の宿泊施設・公室に寝泊りした四、五人の旅人たちと入れ違いに、スダッタはラージャグリハの大門を抜けた。そこからは道がはるか遠くまで延び、木立がまばらに続いて人影もない。
スダッタは『目覚めたる人[ブッダ]』が居ると聞いた郊外の寒林[墓場]へと急いだ。
夜が明けたばかりの空は澄んだ薄青で、鈍色の雲が細く地平線近くにたなびいているばかりだ。涼しい風を頬に受け、スダッタは息を切らしながら足早に歩いた。
ところが突然、日の光が隠れて辺りが闇に閉ざされた。
(雲もないのに)
いぶかしく想った彼が東の空を見やると、昇ったばかりの陽があるべきところに昏く大きな球体が浮かんでいる。
スダッタ長者の心中に、怖れが走った。
彼が引き返そうと考えたとき、何処からか歌が聞こえた。
「百の家、百の馬、百の車や宝玉の、耳輪を垂れし娘を施すも、一歩進むる功徳にしかじ」
さらに空中から、声が響く。
「長者よ、進め。進まば利益あり、退かば利益がない」
そして、光が顕れた。
(神霊だろうか)
スダッタは寂しげな道を再び歩き始めたが、少し行くとまた陽が翳り、怯えた長者が歩みを止めれば、同じ声が響いて彼を勇気づける。この現象は寒林に着くまで三度起こった。
寒林、そこは死体が遺棄される場所であった。置き去りにされた死者の骨が散乱し、あるいは土に還る途上のものが醜く崩れ、腐臭を漂わせていた。
腐肉を喰らう鳥が一羽、近くの樹の枝にとまってスダッタを見ていたが、仏に会いたい一心の彼には気にもならない。
その仏であるゴータマ・シッダールタ……釈迦牟尼世尊は、ちょうど路地をそぞろ歩きしているところであった。元々、沙門たちは墓場や岩山、樹下などで修行する。ゴータマ・ブッダも一人の修行者としてこの場に居た。
世尊は長者の姿を認め、樹下に設けられてある座について呼びかけた。
「スダッタよ、来たれ」
朗とした、心地好い声が響く。
(あの方は、私をご存知なのだ)
嬉しくなったスダッタ長者は、近づいてその御足を礼拝し、
「世尊、昨夜は安らかに御休みなされましたか」
と、訊いた。
それに対して仏陀は偈で応えた。
「覚に入りて、欲をば離れ、汚れなく清らかになれば、楽しく眠る。なべての縛めを離れ悩みなく、心静けさに入りぬれば、楽しく眠る」
そして釈迦牟尼世尊は長者に向かい、布施の話、天界に生まれる話、樂欲にまつわる禍、その卑しい汚れと、これを出離することの利益とを語り、次に四聖諦を説いた。
ひたすら聞き入っていたスダッタ長者は、ちょうど真っ白な汚れのない布が容易く色に染まるように、その場で『生まれるものは必ず滅びる』という法の眼を生じ、疑と畏とを離れることが出来た。
「世尊、誠に勝れたことであります」
スダッタの心には、喜びと安らぎが満ちている。
「迷える者に道を示し、物を見る眼を開いて下さいました。私は今から世尊と法と僧伽とに帰依いたします。どうぞ信者として私を受け入れて下さい。それからまた、世尊、明日、御弟子達と共に私の供養をお受け下さるよう願います」
世尊はその願いを黙然として受け、長者は許されたことを知って座を立った。そして貴人に対する作法通りに右まわり[右遶]の礼をして退き、寒林を去っていった。
義兄であるラージャグリハの富商は戻ってきたスダッタ長者から、明日、世尊と御弟子達を御招待申し上げると聞いて、
「私にその費用を出させて下さい」
と、助力を願ったのだが、長者は断り、その家で食事を用意し、師に時分の使いを送った。
やがて約束の刻にシャーキャ族の聖者は富商の家に入った。長者は自ら世尊と弟子達とを供養し、師の食後、
「世尊と御弟子達と、この年の安居はシュラーヴァスティー[舎衛城]で御送り下さいますよう」
と願い、それに対して
「仏は空屋[静寂なところ]を楽しむ」
との言葉を得た。
そして、世尊は長者に法を説いたのち、竹林へと帰っていった。
そのとき、「わかりました。幸いある人よ、わかりました」
と、答えた長者は、
(まこと、覚者にとってこの天が下すべてが家である)と思い、喜びに満ちて義兄の家を発った。
交易を手広く行っているスダッタ長者には、友人、知己が多く、彼はそれらの人々から厚い信頼を寄せられていた。長者はラージャグリハからシュラーヴァスティーへの帰り道、その知り人達へ、
「僧苑を作れ、精舎を立てよ、布施を用意せよ。世に顕れ給うた仏は、私の御招待に依って、この道をお通りになるであろう」
と、触れ回った。
これを聞いた人々は皆、長者の語に従って、シャーキャ族の聖者を迎える用意をした。