アニルッダとバッデヤ
釈迦牟尼世尊と弟子たちの一行がカピラヴァストウより去ったのち、王弟ドートダナ[斛飯王]の長子マハーナーマ(摩訶那摩)はしばらく考え込んでいた。そして意を決したのか、自室へすぐ下の弟であるアニルッダ[アヌルッダ・阿那律]を呼び、真剣な眼差しでその思いを語った。
「今、名のあるシャーキャ族の人々はみな身内から出た仏陀に従って出家した。そこで、我が兄弟の中からも誰か御弟子となるものを出さねばならぬ」
「兄者……」
「いや、面目などというより、私が出家したいほどなのだ。シッダールタ太子の、覚を得たあの方の傍で話をもっと聞きたい、心の平安を得たい……。だが、その願いを押し止めるのは、家長としての責務である。父君亡き後、母上をお助けして幼い弟妹を養育し、家を保ってゆかねばならぬ身だ。その上、先年娶った妻との間に子が生まれたばかり。このすべてを捨て去ろうという決断を、私はついに出来なかった……」
「それで、私を……と」
マハーナーマは頷く。
「他の弟たちは幼いが、おまえは既に成人している。そしてまだ、独り身だ。
どうであろうか」
「兄者のお気持ちはよく分りますが……」
アニルッダが言葉を濁した。
(自らが出家したかったというのは、兄の偽りない本心だろう。驕慢といわれる我が一族の中にあって兄者は私心なく物事をみ、自己主張の強い者たちをまとめることが出来る。しかし、シッダールタ太子のように肉親の情を断ってまで家を出ることはしなかった。……優し過ぎるのだ)
アニルッダは兄の顔をつくづくと見た。
今、ゴータマ・ブッダと呼ばれる人とマハーナーマはよく似ていた。だが、優美な顔立ちの内にかすかな弱さが垣間見られる。
(そこが太子との明らかな違いだ。けれど、たいていの人間はそういうものではないのか。……では、翻って私はどうであろう)
アニルッダもまた、従弟という血の濃さから仏陀によく似た秀麗な面差しとほっそりとした体躯を持った若者であった。
(いや、やはり私もだめだ。体が頑健でない上に部類の音曲好きときている。それに兄には告げていないが、密かに言い交わした女もいる)
彼はジャーリニーという娘と、秘密の恋をしていた。
「兄者……一家の主である貴方のおっしゃること、従いたいとは思いますが、私は生来体が弱く、その上、樂の音がなくては一日も過ごせぬ性格です。歌舞音曲に近づくことを禁じられ、激しい修行に明け暮れる出家の生活は、とても耐えられそうにありませぬ」
「ふむ……」
そう応えられ、マハーナーマは唸った。
「だが、アニルッダよ。人の寿命など判らぬものだ。健康を誇っていたものが次の朝を迎えることがないかと思えば、身体の弱さを嘆いていたものが百の齢を数えることもある。それに出家の修行もつらかろうが、家にある生活も楽ではない。我らは王家に繋がる者とはいえ、この国は小さく、無為徒食で暮らしてゆけるほど豊かとはいえぬ。野に出て耕しから収穫まで、遠い先祖以来同じ苦労を続け、来る年も来る年もこれをくり返して終わることがない」
「しかし、兄者……」
「いや、弟よ。私が仏の御弟子になることを勧めるのはそれだけではないのだ」
いつもなら最後には人の意見に折れるマハーナーマが、何故かこのときだけは粘り強かった。
説得されるうち、アニルッダの心も揺れ動く。
(生きていくうちに味わう苦しさは、出家も在家も同じ。家に在って妻を娶っても、長子と次男以下は天地ほども違う。私は兄の一家の下で働き、その一生を終えるのみだ。それよりも世の真理に近づいて命果てるほうが、よほど良いやもしれぬ)
そう考えたとき、愛しい女の顔がふと浮かんだ。甘い吐息、艶やかな肌、豊かな胸としなやかな肢体の感触がまざまざと思い出された。しかしそれも、すぐに色あせた。
(総ては移り変わるのだ……)
と、アニルッダは想い、同時に答えていた。
「兄者、わかりました。……出家いたします」
言葉にすると、何故か心が晴れ晴れとした。爽やかな風が吹きすぎていくようだ。
「そうか、得心してくれたか」
マハーナーマは笑み、喜んだ。そして二人で母のもとへ行き、許しを乞うた。けれども、
「なりませぬ。私にもシュッドーダナ王と同じ哀しみを味わせようというのですか」
と、母はマハーナーマを睨み、顔色を変えて反対した。
「母上、それでも私は仏弟子となりたいのです」
もはや沙門となることを堅く心に決めたアニルッダは、幾度退けられようがあきらめない。
そのため、ついに母は嘆息して云った。
「……では、もしバッデヤさまが出家されたならば、あなたの願いも聞き届けましょう」
「母上、感謝いたします」
喜色に顔を輝かせ、アニルッダは駆けるようにして部屋を出てゆく。
(これはなんとも、難しいお方の名を出されたものだ)
後に残ったマハーナーマが、眉間に皺を寄せた。
バッデヤは王弟アミトーダナ[甘露飯王]の長子でシッダールタ太子より七つほど年上の男盛り、知恵、武芸に秀で穏やかな性格から選ばれて、老いたシュッドーダナ王を補佐し、政を行ってきた。ナンダ王子が沙門となった今では、次の王になるのはバッデヤであると誰もが考え、一番出家などしそうにない人物であった。
アニルッダは、戸外へ飛び出した。カピラヴァストウの中でそこは王族が住む一角であるため、バッデヤ王子の宮はすぐ近くにある。彼は扉の前に立ち、取次ぎを願った。
一方、アニルッダを居間へ迎え入れて用件を聞いたバッデヤは困惑するばかりだ。
「母御が私の名を出されたのは光栄であり、意外でもあるが、アニルッダよ、私は出家するつもりはない」
と、彼は即座に断った。
しかし、アニルッダは一度決心したことを曲げることなく、目的に向って真っ直ぐ突き進む青年であった。これしきのことでは、諦めない。
「バッデヤどのも、世尊の説法をお聞きになられたでしょう。彼の御方が示された真理への道は、在家であるよりも出家した方がより習得しやすいのです」
一途な瞳をきらめかせ、アニルッダが迫る。
「我が一族の若者よ、あなたも求道熱に取りつかれたか。誠に世尊の話は巧みである。そのため、多くの者があの御方に従って家を出た。まるで流行り病に罹ったかのように。だが、考えてもみよ、誇り高きクシャトリヤとして生まれ育った者たちが、人の施しによって糧をえ、寒林や岩山に起き伏す生活に満足できるだろうか。たとえ一時の感情に流されて出家したとて、修行の辛さに耐えかねて還俗する者がほとんどではないのか?」
「しかし、バッデヤどの。出家の功は在家の生活を捨ててもまだ余りあるものと思います」
アニルッダの言葉が、さらに熱を帯びた。
それに対してバッデヤも反論するのだが、やがて心揺るぎ、半日近く経ったのちにはアニルッダを止めるどころか自らも出家の覚悟を決めた。そして、云う。
「……アニルッダよ、私もすべてを捨てて世尊に従おう」
「心強いことです、バッデヤどの」
アニルッダが、にこりとする。
「この機縁、我らだけというのも惜しいことです。他にも声をかけてみましょう」
と、彼らは一族の若者たちを誘った。
その中に、王弟スッコダーナ[白飯王]の子でその年、十六になるディーヴァダッタ[提婆達多]がいた。彼はアニルッダから話を聞いて宮へ戻り、何かを探して部屋べやを巡ると最後に北に面した小さな室の戸を押し開けた。