帰郷――2
シュッドーダナ王は釈迦牟尼世尊と弟子たちを高楼へ招き入れ、甘美な食事を捧げた。
そして出家たちへの供養が終わった頃、王妃マハーパジャパティをはじめとする宮殿の婦人たちがことごとくやってきて世尊を作法通りにつつましく拝んだ。しかしその中にヤショダラー姫の姿がない。
「姫は『もし妾にわずかでも取るべき徳があれば、あの方は自ら妾の所へおいでになるはず。そのとき拝しましょう』と申して皆の勧めに従わず、ひとり室に残っているのです」
マハーパジャパティが王へ申し訳なさそうに告げる。
そこで世尊は王に鉢を託し、シャーリプトラとマウドガリヤーヤナを伴って後宮へ入っていった。そして二人に言い含める。
「姫がいかなる礼拝の仕方をしても、何も申してはならぬ」と。
世尊が設けられた座につくと、ヤショダラー姫が歓喜に顔を輝かせ、小走りにやってきた。
(師に似つかわしい、愛らしい方だ)
シャーリプトラは微笑ましくそう思ったのだが、その婦人が跪き、師の両足にむしゃぶりつくように抱きついたときには二人とも、さすがに驚いた。しかし、言いつけを守ってそしらぬ顔で師の両脇に侍していた。
(この方は貴い生まれで行儀作法も十分わきまえておいでであろうが、それすら忘れ果てるほど世尊を深く愛しておられたのだな)
シャーリプトラとマウドガリヤーヤナはヤショダラー姫の心情を哀しいと想う。
姫はその間にも、『目覚めたる人[ブッダ]』の足に頭を何度もすりつけ、心ゆくまで礼拝した。
そして、傍らにいたシュッドーダナ王が姫の世尊に対する貞節を語る。
「我が姫は、あなたが黄衣をまとわれたと聞いて自分も常に黄衣をまとい、あなたが一日に一食をとると聞いては自分も一日に一食をとり、あなたが大きな寝床を廃されたと聞いては自分も筵の上に臥し、あなたが香華を用いられぬと聞いては香華を遠ざけ、他の親族の王が再縁をすすめ、または迎えようとしても少しも顧みず堅く自分を護っておりました。私の姫は、かような徳を具えております」
「大王よ」
釈迦牟尼世尊のまなざしが深く翳り、応える。
「誠に奇特なことであります。この姫は今は大王に護られているので、熟した智慧で自分を護るでありましょうが、昔は誰にも護られずに山の腹を歩きながら、熟さぬ智慧のままに自分を護っていました」
そしてふたりが天の鳥・チャンドラと月女であったときの前生譚を語り、その終わりを、
「大王よ、姫は今ばかりでなく、昔もこのように私に篤かった」
と結んだのであった。
あくる日は、異母弟ナンダ(難陀)の立太子と結婚の二つの式が執り行われる予定となっていた。
その朝、ゴータマ・シッダールタは弟の宮を訪い出迎えを受けた。
久しぶりに会うナンダは、その面差し、立ち居振舞いすべてが兄のシッダールタそっくりの美青年に成長していた。しかし、兄の眼には生まれたばかりの赤子の頃の面影が重なる。
(危ういことだ……)
迎え入れられ、座についた釈迦牟尼世尊はナンダへ祝いの辞を述べると共に鉢を与えて立ち去った。
(どういうことだ……)
意味が分らず呆然としたナンダだが、兄の持ち物をこのままにもしておけず、後を追って外に出た。
このとき、鏡に向かって髪をくしけずっていた許婚のスンダリー(孫陀利)姫が窓の向こうを通り過ぎるナンダの姿を目にし、驚いて振り返った。そして髪を手にしたまま窓に駆けより、身を乗り出して叫ぶ。
「我が君、何処へおいでになられます。早くお帰りください」
その声に気を引かれつつも、ナンダは兄の後をついていった。
(兄上は何をお考えなのだ)
困惑し、しかし引き返すことも出来ず、
「どうか、鉢をお受け取りください」
と、何度も頼んだ。けれども、彼の兄はそのまま足を速めて尼拘盧陀園へ行き、嫌がるナンダを無理に出家させてしまった。
これは、帰城三日目のことである。
七日目に釈迦牟尼世尊が托鉢のために城内へ入ると、ヤショダラー姫は九歳になる我が子ラーフラ[羅睺羅]を盛装させ、言い含めた。
「ごらんなさい。あの多くの出家に取り囲まれた神々しい大沙門が、あなたの父です。父君には数多の宝がおありになりますが、出家されてからは見られなくなりました。あなたは、あの方の所へ行ってその遺産を受け取りなさい。『父よ、私はあなたの子であります。私は位に就いて王者になろうと思います。どうぞ、宝を与えて下さい』と、申し上げるのです」
ラーフラは教えられた通り沙門のそばに行ったが、自然に親子の情を感じてまつわりつき、
「出家さま、あなたの影は楽しい」
と云って、離れなかった。
そして世尊が食事を終えて座を立っても、そのまま追ってくる。
「遺産を下さい。遺産を下さい」
子供は、そう云ってすがりついた。
(愚かなことを……)
ヤショダラー姫に似たその顔立ちから、一目見たときより気づいていた。
(生まれたばかりの我が子を抱きもせず、證を得たのちに見る方がよいと私は旅立った。これが、あのラーフラであるか)
その言葉もヤショダラー姫が云わせていると察していた。
(ナンダも出家した今、王位の継承権と財宝を譲れと云うことなのだろうが、私が与えることができるのは……)
そこで釈迦牟尼世尊はシャーリプトラに、ラーフラを出家させるよう命じた。
(この子の求める財宝は、移り変わり悩みを引き起こすものである。むしろ真実の法を与え、世に超えた遺産の相続者と為したほうが善いであろう)
『目覚めたる人』は想った。
そしてシャーリプトラは師の命の通りに幼いラーフラの髪を剃り落とし、黄衣を着けさせた。
この報を聞いたシュッドーダナ王は急ぎ尼拘盧陀園へやってき、杖にすがりつくようにしてよろめきながら仏陀の前へ進んだ。
「世尊、私に一つの恵みを願います」
力なく坐った王は云う。その顔は数日間でさらに老け込み、憔悴しきっていた。
「私の願う恵みというのは、欲の垢のない適当なものであります。
世尊の出家は、私に少なからぬ苦悩を与えました。ナンダの出家もその通りでありました。しかるにまた今日、ラーフラが出家いたしました。母のヤショダラーは驚きと悲しみのあまり室へ閉じこもっております」
蒼白な顔をした王は、唇を震わせた。
「……愚かと想われましょうが、子を愛する念は膚を破り皮を破り、肉を破り骨を砕き、髄を刺して私を苦しめます。
世尊、どうぞ今よりのち、父母の許しのない子を出家させることを禁じてください」
王は、哀しみをたたえた瞳で釈迦牟尼世尊をみつめている。
その視線を受け止めた世尊は、重々しく頷き、老王の願いを聞き入れたのだった。
このやりとりを間近に見ていたマウドガリヤーヤナは想う。
(いつもなら我が師は機縁熟し、自ら道を求める者を教え導かれるのだが、御身内の二人だけはシュッドーダナ王の云われるように、いささか性急に過ぎた。これはどうしたことであろう)
実際にこの後、許婚のスンダリー姫と俗世の生活を思い切れないナンダは出家らしからぬ振る舞いをして人々から非難され、ラーフラは幾度もひどい悪戯をして僧伽の静寂を破り、世話をするシャーリプトラを困らせることとなる。
しかし、信念の揺るがぬ師の様子に彼はすぐに思い返した。
(なにが幸いとなるかはわからぬもの。我が師には、きっと深いお考えがあってのことであろう)
彼は自らをそう納得させた。
そして家族と城下の人々の教化を終えた世尊は、新しく加わった弟子たちを伴い、再びラージャグリハへと旅立っていった。